第9話 裏目
壊れた椅子の一件のあと、真理子と彼のやりとりは、目に見えて増えたわけではない。
けれど、確実に変わった。
連絡の文面は相変わらず短い。必要なことを必要なだけ書いて、変に余白を広げない。けれど、その短さの中に、前より少しだけ私的なものが混ざるようになった。今日は店が忙しかった、とか、什器の調子はどうですか、とか、雨の日は木が少し重く感じる、とか。そういう、答えても答えなくても困らない程度の小さな言葉が、たまに挟まる。
真理子はその小ささに救われていた。
大きな好意や、意味ありげな言葉ではなくていい。ただ、こちらの生活の輪郭を乱さないまま、少しだけ近づいてくる感じが心地よかった。
お茶を奢る約束も、ちゃんと果たした。
駅前の小さな喫茶店で一時間ほど話しただけだ。彼はそこで、相変わらず地味で、相変わらず少し不器用で、でも店にいる時より少しだけ長く笑った。真理子は帰り道、自分が思っていたよりずっと疲れていないことに気づいて、少し驚いた。
それがきっかけになったのか、そのあと彼が家の近くまで送ることが二度ほどあった。家に上がるわけではない。玄関の外で「それじゃ」と別れるだけだ。けれどそのたびに、レイモンドは決まって真理子の足元へ来て、妙に感じの悪い顔をした。
仕事帰りに混ざる木の匂いにも、外気の匂いにも、最近はずいぶん敏い。
「またそんな顔して」
玄関でしゃがみ込んで言うと、レイモンドは真理子の裾へ鼻先を押しつけ、それから不満そうにしっぽを打つ。
前なら、こういう時はもっと無関心だった。
人が来ても来なくても、気が向けば見に来て、気が向かなければ出てこない。それがレイモンドだったはずなのに、最近は違う。真理子の周りに新しい匂いが増えるたび、先に不機嫌になる。
歳を取ったからなのか、化け猫化なのか、本当にわからない。
ただ、本人はたぶん本気で気に入っていないのだろうと思う。
*
それでも、彼が家へ来る理由はちゃんとあった。
ダイニングの椅子の具合を見てもらったあと、ついでに前から少し気になっていた棚板のたわみも相談した。すぐにどうこうしなくてもいいものだったけれど、彼は「見ておきます」と言って、次に来た時に寸法を測った。さらに、玄関横の小さなスツールの脚も、少しだけぐらついていることがわかり、そのまま簡単に締め直してくれた。
それは、ほんの小さな用事の積み重ねだった。
真理子は自分でそれを少し不思議に思っていた。昔なら、こういうことを誰かに頼むこと自体がもう少し重かった気がする。けれど彼に対しては、「ついでにこれも見てもらっていいですか」が言いやすい。彼のほうも、「大丈夫です」「今は無理です」「それは買い替えたほうが早いです」と必要な返事を必要なぶんだけ返す。
曖昧に優しくしない人なのだ。
そのことが、真理子にはかえって安心だった。
その日も彼は夕方に来た。
玄関の前で「こんにちは」と言い、靴をきちんと揃え、工具のケースを床へ置く。その横顔を見ているだけなら、壊れたもののひとつやふたつ、何事もなく直ってしまいそうに思える。
レイモンドは最初から機嫌が悪かった。
リビングの入口に座り、灰色の細い体を少しだけ膨らませて、じっとこちらを見ている。前みたいにあからさまな爪とぎはしない。けれど、いつでも感じ悪く振る舞う準備はできています、という顔をしていた。
「今日は静かだね」
真理子が苦笑して言うと、彼は少しだけレイモンドを見た。
「嵐の前かもしれないですね」
その返しが可笑しくて、真理子は笑ってしまう。
こういうところだ。
大げさに猫好きな顔をするわけではない。可愛い可愛いと距離を詰めてもこない。ただ、暮らしの中にいるものとして自然に扱う。その温度が、真理子にはちょうどよかった。
彼が棚板を外して状態を見ているあいだ、真理子は少し離れたところで部屋を片づけていた。テーブルの上の雑誌をまとめ、使い終わったマグカップを流しへ運ぶ。その途中で、レイモンドがやけに静かなことに気づいた。
嫌な静けさだった。
さっきまであんなに存在を主張していたのに、急に物音ひとつ立てない時はたいていろくなことを考えていない。
「レイモンド?」
呼んだ時には、もう遅かった。
リビングの真ん中あたりで、レイモンドが一度だけ大きく喉を鳴らすみたいな音を立てた。そのあと、けほ、と小さく咳き込む。真理子の体が先に動いた。
「ちょっと――」
駆け寄るより早く、レイモンドは床へ吐いた。
半分消化された毛玉まじりのものが、ラグの端へ広がる。酸っぱい匂いが一気に立って、真理子は反射的に顔をしかめた。レイモンド自身も少し驚いたみたいにその場で固まっている。
「ごめん、レイモンド、大丈夫?」
口ではそう言いながら、真理子の頭の中は真っ白だった。まず片づけなきゃ、タオル、雑巾、洗剤、レイモンドをどかして、でも彼がいるのに最悪だ、という考えが一度に押し寄せる。
「ティッシュありますか」
声がした。
彼だった。
真理子が振り向くと、彼はすでに工具のケースを閉じ、床へ置いたままこちらへ来ていた。嫌な顔はしていない。引いた様子もない。ただ、手早く片づける時の顔になっている。
「え、あ、あります」
「じゃあ取ってもらえますか。レイモンド、踏まないようにだけ」
そう言いながら、彼は近くにあった物を手際よく片付ける。
真理子は慌ててキッチンへ走った。ティッシュ、ウェットシート、古いタオル。戻ってくると、彼はもうラグの端を少し持ち上げて、汚れが広がらないように押さえていた。
「すみません、ほんとに……」
「大丈夫です。猫、こういうのありますよね」
さらっとそう言われて、真理子は一瞬だけ言葉を失う。
「前、飼ってたことあるんですか」
「実家で。長生きしたのがいて」
彼はそう言いながら、真理子から受け取ったティッシュで手際よく吐瀉物を取っていく。慣れている人の動きだった。必要なものを必要な順番で使って、こちらに余計な気まずさを抱かせない。
レイモンドは少し離れた場所に座って、じっとその様子を見ていた。さっきまでの敵意は引っ込んで、今はむしろ気まずそうに見える。
「最近、こういうの増えました?」
彼が床を拭きながら聞いた。
「え」
「吐く頻度です。毛玉の時もあるから一回だけならそんなに気にしなくていいと思いますけど、年取ってるなら、一応」
真理子ははっとした。
心配なのは、汚れた床や気まずい空気より、そっちなのだと彼は自然に言っている。猫に吐かれても引かず、片づけながら、レイモンドの体調のほうを先に考える。その順番が、胸に残った。
「……前よりは、少し」
正直に答えると、彼は頷いた。
「だったら、しばらく見たほうがいいかもしれないですね。食べ方とか、毛づくろいのあととか、そういうタイミングで」
真理子はその言葉を、思った以上に真面目に聞いていた。まるで病院で話を聞いているみたいに、自分の中の余計な恥ずかしさが少しずつ消えていく。
彼は床を拭き終えてから、最後にもう一度ラグの端を確かめた。
「たぶんこれで大丈夫です。あとでこのへんだけもう一回拭けば」
「ほんとにすみません……」
「いや」
彼は立ち上がり、タオルをまとめながら、少しだけレイモンドのほうを見た。
「びっくりしたな」
その声は、叱る感じではなかった。
レイモンドは目を細めたまま、でも逃げなかった。
真理子はその横顔を見て、急に胸の奥が熱くなった。どうしてかわからない。ただ、こういう面倒なこと、汚いこと、予定どおりにいかないことから、この人は逃げないのだと思った。
元彼ならどうだっただろう。
たぶん手伝ったかもしれない。笑ってごまかしたかもしれない。あるいは「うわ、すご」と言って一歩下がったかもしれない。どれでもおかしくない。そういう不確かさごと、あの人だった。
目の前の彼には、それがない。
起きたことに対して、必要なことをする。
嫌な顔をしない。
誰も責めない。
そのうえで、レイモンドの体調を気にする。
その順番が、真理子には妙に沁みた。
ときめいた、というのとは少し違う。胸が跳ねるより先に、ふっと肩の力が抜けた。こういう時、この人は逃げないのだとわかった瞬間、自分の中のどこかが勝手に安心していた。
それが、いちばん困った。
「……ありがとうございます」
今度は、さっきまでとは少し違う意味でそう言った。
彼は雑巾をたたみながら、首を傾げる。
「そんなにたいしたことしてないです」
「してます」
真理子は思ったより強い声で言ってしまって、自分で少し恥ずかしくなった。彼も一瞬だけ目を丸くして、それからごく短く笑う。
「じゃあ、してることにしときます」
その返し方も、やっぱり派手ではない。
けれど真理子は、その控えめな笑いに、前よりずっと心が動くのを感じた。
*
彼が帰ったあと、真理子は片づいたラグの前にしゃがみ込んだ。
レイモンドは少し離れたところで丸くなっていた。さっき吐いたせいか、いつもより静かだ。具合が悪いほどではなさそうだけれど、真理子はつい顔を覗き込む。
「大丈夫?」
レイモンドは答えない。ただ、真理子が指先を伸ばすと、その先へ鼻を寄せた。
その仕草はいつも通りで、真理子は少しだけ安心する。
「あなた、ほんと裏目ばっかりだね」
つい口に出る。
嫌がらせのつもりだったかどうかは知らない。けれど、最近のレイモンドは、彼が来るたびに妙に張り切って感じ悪くなったり、不満そうな顔をしたりする。そしてそのたび、なぜか彼の好感度ばかりが上がっていく。
今日だってそうだ。
最悪の場面だったはずなのに、真理子の中に残ったのは気まずさより別のものだった。
この人は逃げない。
面倒なことを嫌がらない。
暮らしの中の汚さや老いを、きれいごと抜きで受け止められる。
そういう人なのだと、ひとつずつ知っていく。
恋、なのだろうかと考える。
まだその言葉を口にするのは少し早い気もする。けれど、少なくとも真理子は、彼が来ると前より嬉しくなっているし、彼が帰ったあとに残る静けさを少し長く感じるようになっていた。
それに何より、今日のあの瞬間、真理子はたしかに安心してしまった。
レイモンドが吐いて、部屋が汚れて、気まずくて、どうしていいかわからなくなった時、この人は逃げないのだと、身体のほうが先に信じてしまった。
そのことを、真理子はまだあまり大きな言葉にしたくなかった。
レイモンドが薄く目を開けて、真理子を見た。
「なに」
問いかけると、レイモンドは短く鳴いた。
その声には、いつもの不服そうな響きが少しだけ戻っていた。真理子は思わず笑う。
「……ほんとにもう」
叱るみたいに言って、そっと背中を撫でる。灰色の毛の下は、前より少し骨ばって感じられた。
その細さに気づくたび、真理子は少しだけ怖くなる。
彼は今日、そのことにもちゃんと目を向けた。
それが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
真理子はレイモンドの背を撫でながら、さっき彼が何でもないように吐いたものを片づけていった手つきを思い出していた。あの落ち着きと、余計なことを言わない優しさを。
レイモンドはもう一度だけ、小さく鳴いた。
それが不満なのか、文句なのか、あるいはただの返事なのかはわからない。
ただひとつわかるのは、今日もまた、この灰色の老猫の企みは、少しも思いどおりにはいかなかったということだけだった。
困った時に逃げない人なのだと、真理子は何度目かでようやく認めた。
それだけなら、ただありがたいだけで済んだかもしれない。
でも今夜いちばん困ったのは、こういう時にそばにいてほしい相手として、真っ先にあの人の顔が浮かんだことだった。
そのことを認めたくなくて、真理子はレイモンドの背をいつもより長く撫でた。




