第10話 彼の噂
白い花ばかりを束ねる日は、店の空気まで少し静かになる。
朝から法事用の注文が二件続いた。白菊、トルコキキョウ、薄いグリーンのカーネーション。差し色は入れすぎず、けれど沈みすぎないように。客の希望を聞きながら組んでいくうち、真理子の指先はいつも通り動いているのに、心のどこかだけがひやりとしたままになる。
花は生きているのに、不在のために選ばれていく。
そういう花を何度も束ねてきた。
慣れたつもりでいても、白い花ばかり触っている日は、どうしても胸の奥に冷たい場所ができる。
昼を少し過ぎた頃、スマホが震えた。
元彼の友人のひとりからだった。最近は連絡を取っていない。真理子の指先は画面の上で一瞬だけ止まり、それから通話を取った。
『急にごめん』
「ううん。どうしたの」
相手は少し言いづらそうに黙ってから、遠回しに尋ねた。
『まだ、あいつと連絡ついてない?』
「ついてない」
『……そっか』
その沈黙だけで、嫌な予感がした。
『今さらこんな話してもって感じなんだけど』
「うん」
『あいつが家出た頃、俺らのあいだで半分冗談みたいに言ってたんだよ。真理子ちゃんのこと重かったし、変なことしてなきゃいいけどなって』
真理子は何も言わなかった。
『最近になっても誰も連絡つかないからさ。あの頃の軽口が、急に笑えなくなってきて』
喉の奥がひどく乾いた。
『しかも、時期の近い海沿いの事故で、身元不明がいたって話まで出てきて』
真理子の手が、スマホごと強くこわばった。
『別人かもしれないし、ただ時期が近いってだけだよ。何も確かなことはわかんない。ただ……もし何か知ってたらと思って』
「何も、知らない」
通話を切ったあとも、真理子はしばらくスマホを下ろせなかった。
当時は冗談で済んだものが、時間が経ったことで急に笑えなくなることがある。あの頃は生きている前提で言えた軽口が、今はそのまま冷たい可能性になって戻ってくる。
死んでいるのかもしれない。
その言葉が、前よりずっと現実の顔をして胸の中へ入ってきた。
*
そのあとの仕事は、どうやって終えたのかよく覚えていない。
白い花束を渡す時の客の「ありがとう」が妙に遠い。バケツの水を替えるたび、表面が静かに揺れる。薄い花弁が指に触れるたび、身元不明という言葉だけが浮かぶ。
閉店後、先輩が「真理子ちゃん、大丈夫?」と声をかけてくれた時、真理子はうまく笑えなかった。
「大丈夫です」
そう答えた声が、自分でも少し頼りなかった。
大丈夫なわけがない。
けれど、何がどう大丈夫じゃないのかも、まだうまく言えなかった。
もし本当に死んでいたらどうしよう、と思う。
その一方で、そんなことを考える資格が自分にあるのかもわからない。
怒っていた。
置いていかれたと思っていた。
ちゃんと終われなかったことに、ずっと腹を立てていた。
なのに、死んでいたかもしれないと聞いた途端、全部が別の重さを持ち始める。
責める言葉が、そのまま言えなくなる。
そのことが、真理子には少し怖かった。
*
家に帰ると、レイモンドは出窓の上にいた。
灰色の毛並みが夕方の光を受けて、少し青く見える。真理子が「ただいま」と声をかけると、レイモンドはゆっくり顔を上げた。耳が小さく動く。目はちゃんと真理子を追っている。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
真理子はバッグを置き、上着を脱ぎ、しばらく何もせずに立っていた。部屋の中は静かだった。白い花ばかり触っていた指先には、まだ少し冷たい匂いが残っている気がする。
「ねえ」
呼びかけても、レイモンドは当然みたいな顔で座っている。
その無言が、今夜はありがたかった。
真理子はキッチンへ行き、水を飲んだ。飲んでも喉の渇きはあまり変わらない。スマホを見る気にもなれず、食卓へ置いたままにする。
ふと、後ろで小さな音がした。
木の擦れるような、短い音。
振り向くと、レイモンドが出窓の縁に立っていた。降りるのではなく、そこからさらに身体をひねるみたいにして、いつものように位置を変えようとしている。
次の瞬間、その前足がわずかに空を切った。
「えっ」
真理子の声より早く、レイモンドの身体がずるりと崩れる。
高い場所から落ちた、というほどではない。けれど、いつもなら何でもなさそうに済ませる動きの途中で、確かに失敗した。前足が届かず、後ろ足が少し遅れて、床へ不格好に着地する。
レイモンドはすぐに体勢を立て直した。
そして何事もなかったみたいな顔をした。
別に失敗してませんでしたけど、という顔で、毛づくろいまで始める。
真理子はその場でしばらく動けなかった。
見間違いではない。
今、失敗した。
昔なら何でもなかったはずの動きで。
「……レイモンド」
呼ぶと、レイモンドはちらりとこちらを見た。すぐにまた前足を舐める。誤魔化しているのだと、真理子にはわかった。猫なりの意地なのかもしれない。
その意地が、かえって痛かった。
真理子は足元へ近づいた。しゃがみ込んで、そっと背中へ触れる。毛並みはまだきれいだ。まだ艶もある。抱き上げれば重みもある。けれど、さっき落ちた。あれは見間違いじゃない。
出窓の高さを見上げる。
昔なら何でもなかった高さだ。助走もほとんどいらず、するりと上がっていた。あの場所へ行くことは、レイモンドにとって当たり前のことだった。
それが、もう当たり前ではなくなり始めている。
真理子は立ち上がり、ダイニングテーブルの椅子を一脚引いた。床を擦る音に、レイモンドが耳を動かす。
窓際まで、椅子を寄せる。
見た目は間に合わせだった。人が座る椅子を、猫のための足場にするなんて格好も悪い。けれど、何もしないよりはましだった。
「とりあえず、これで」
椅子の座面からなら、出窓まではずっと近い。
真理子が少し身を引くと、レイモンドは椅子と出窓を見比べた。不満そうな顔をしたのは、たぶんいつもの場所へいつものやり方で行けなくなったからだろう。
「今日はこれ使って」
レイモンドはしばらく動かなかった。
それから、いかにも納得していませんという様子で椅子へ上がり、そこから慎重に出窓へ移った。
ちゃんと届く。
そのことだけで、真理子は深く息を吐いた。
「……よかった」
応急処置でしかないことはわかっていた。椅子は椅子でしかない。安定しているわけでも、猫の身体に合わせて作られているわけでもない。でも今夜はもう、それしか思いつかなかった。
出窓の上で丸くなったレイモンドは、いつもより少しだけ小さく見えた。
真理子は窓際に置かれた不自然な椅子を見たまま、しばらく動けなかった。
あの人のことを考えると、もう責める相手がいないかもしれない感じがした。
レイモンドのことを考えると、今まで当然だったものが少しずつ当然ではなくなっていくのが見えた。
どちらも、今夜の真理子には同じくらい冷たかった。
部屋の中には、まだ白い花の気配が残っている。
窓際には間に合わせの椅子。
その向こうで、灰色の老猫が丸くなる。
真理子はようやくスマホを伏せた。
今はまだ、何も確かじゃない。
だから余計に、何もないふりもできなかった。
レイモンドは出窓の上から、薄く目を開けて真理子を見ていた。
真理子はその視線に向かって、ほんの小さく笑った。笑ったつもりだったけれど、たぶんあまりうまく笑えていなかった。




