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『吾輩は猫なのか?』  作者: 根古野 雀句


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第11話 僕が守る

 寒い朝が、前より少しつらい。


 前はそうでもなかった気がする。夜のあいだ丸くなっていれば、それで朝には勝手にほどけていた。日が差せば背中はあたたまるし、水を飲めば目も覚める。猫というのは、そういう単純な仕組みでできているものだと思っていた。


 でも最近は違う。


 目が覚めてもすぐには動きたくない日がある。関節の奥に、冷えたままの小さな芯みたいなものが残っていて、伸びをしても一度ではうまくほどけない。肩のあたり、後ろ足のつけ根、背骨のきわ。どこが悪いとは言えないのに、全部が少しずつ遅い。


 深く眠ることも増えた。


 眠るのは昔から好きだ。でも最近の眠りは、好きだからというより、気づいたら沈んでいる。日向の中で、ソファの端で、毛布の上で、僕は前よりあっさり意識を手放す。そして目が覚めた時、まりちゃんの姿が見えないと、ほんの一瞬だけ胸の奥がひやりとする。


 それもたぶん、老いなのだろう。


 言葉にするのは嫌だ。けれど、僕の身体は少しずつ前の僕ではなくなっている。


 あの出窓の失敗以来、その事実を誤魔化しきれなくなった。


 まりちゃんは、あの夜のあと、窓際にダイニングチェアを寄せた。


 応急処置、というやつだろう。


 人間の椅子が一脚だけ、窓の下に不自然に置かれている。見た目は最悪だ。僕のために整えられたものではなく、ただそこにあるものを動かして置いただけの、いかにもその場しのぎの形だった。


 だから最初は使いたくなかった。


 使わなくても平気だという顔をしたかったし、出窓くらい自分で上がれると言い張りたかった。


 けれど、椅子の座面からならたしかに近い。


 認めたくないが、近いものは近い。


 僕は最初の一回だけ、かなり迷った。椅子の前で座り込み、出窓を見上げ、もう一度椅子を見る。まりちゃんは少し離れたところで息を潜めていた。手伝いたいくせに、手伝えない人間の気配がした。


 結局、僕は椅子に上がった。


 きっと無くても登れる。だが床から直接よりはずっと楽だ。そこから窓辺に移るのは、前みたいに一息ではないにしても、無様に落ちるよりはよほどましだった。


 まりちゃんは「よかった」と小さく言った。


 その声が嬉しそうで、僕はそれがいちばん癪だった。


 僕が年寄り扱いされた結果のくせに。

 僕が弱った証拠みたいな椅子のくせに。

 まりちゃんが安心しているなら、少しだけ許せてしまう自分にも腹が立つ。


 椅子は数日そのまま置かれた。


 僕は不満だった。不満だが、使った。


 不本意なものほど、役に立つと腹が立つ。


     *


 その日、木の匂いは昼すぎにやってきた。


 まりちゃんが玄関を開ける前から、僕にはわかっていた。乾いた木の匂い。工具の金属っぽい匂い。外気と、ほんの少しだけ甘くない布の匂い。あいつだ。


 僕はソファの下から出ていかずにいた。行けばどうせ、また僕の機嫌が悪くなる。悪くなったところで、たいてい裏目だ。最近の僕は、その学習だけはしている。


 玄関のほうから声がする。


「どうぞ」

「お邪魔します」


 まりちゃんの声と、あいつの声。


 前より少しだけ部屋に馴染んだ声になった気がするのが、また気に食わない。


 僕はわざと遅れて出ていった。玄関ではなく、リビングの入口まで。そこで止まり、あいつを見る。あいつも僕を見たが、前みたいに無理に近づいてはこない。ただ、いるな、くらいの顔をする。


 その余裕が腹立たしい。


 けれど今日は、あいつの視線はすぐ別のものへ向いた。


 窓際の椅子だ。


 人間の椅子が一脚だけ、出窓の下に寄せられている。誰が見ても妙だ。あいつは工具のケースを床へ置いてから、少しだけ首を傾げた。


「これ、椅子……ここで使ってるの?」


 まりちゃんは少しだけ言葉に詰まったあと、窓辺のほうを見た。そこには今、僕がいない。だから説明しやすいと思ったのかもしれない。


「レイモンドが、最近ちょっと出窓に乗り降りしにくくなってきて」


 その言葉に、僕の耳がぴくりと動く。


 上がれなくなってきて。


 そんなふうに、他人の口から説明されると、妙にみじめだ。


「この前、降りようとして失敗して落ちたの。だからとりあえず椅子を置いたら、そこからなら降りれたから」


 まりちゃんの声は平静だった。けれど気配は少し違う。あの夜を思い出している時の気配だ。不安と、焦りと、自分ではどうにもできないものを前にした人間の気配。


 あいつは椅子と出窓の高さを見比べた。座面を軽く押し、足の位置を見て、窓辺の奥行きまで目で測る。


「なるほど」


 それだけ言って、少し考える顔をした。


「使えなくはないけど、毎回これというわけにもいかないね」


 まりちゃんはすぐに頷いた。


「やっぱりそうだよね」


 その言葉に、僕は少しだけ耳を動かした。


 あいつは僕の身体を見た。正面からじろじろ見るわけではない。ただ、出窓へ行く猫の大きさとして、必要な寸法を見ているみたいな目だった。


「もう少し低くて、安定してて、ついでに中で休めたりもできたらいいと思う」


 まりちゃんの気配が、少しだけ変わる。安堵に近いやわらかい気配だ。


「作れる?」

「たぶん」


 あいつは窓の下の空間を見た。椅子がある場所、壁との距離、出窓の高さ。全部を静かに見て、短く頷く。


「箱みたいな形なら。ここにちょうど収まるくらいで」

「ほんとに?」

「うん。中を空ければ寝床にもできるし」


 寝床。


 誰が頼んだ。


 勝手に話を進めるな、と僕は思う。けれど、その場でまるきり要らないとも言い切れないところが悔しい。


 まりちゃんは窓辺を見上げ、それから椅子を見た。今まで自分がやっていた間に合わせを、もっとちゃんとした形にできるのだと知った人間の顔をしていた。


「お願いしてもいい?」

「もちろん」


 その返事は軽くなかった。大げさでもない。ただ、やると決めた人間の声だった。


 僕は少しだけ、あいつのことを見直しかけて、やめた。


 まだ早い。


     *


 数日後、木の匂いはいつもより濃く部屋へ入ってきた。


 あいつは両手で箱を抱えていた。大きすぎず、小さすぎない。窓際のあの場所へ収まることだけを考えて作られた、無駄のない四角い箱だった。


 床に置かれる前から、僕は少し腹が立っていた。


 年寄り扱いされている。


 そうとしか思えない。


 まりちゃんはその箱を見るなり、声を少し弾ませた。


「すごい」


 すごくない。


 ただの箱だ。


 僕はそう思いながら、少し離れたところから様子を見ていた。


 箱はたしかに、窓際へぴたりと収まった。高さは出窓のちょうど半分くらい。床から一段、箱からもう一段という形で行ける。表面は滑りにくく、角も丸い。中はくり抜かれていて、奥まった空間ができていた。布まで敷いてある。


 なんだこれは。


 どう見ても、使えと言っている。


「これなら、床から一気にじゃなくていいから」

 あいつが言う。

「中でも休めるし」


 まりちゃんは箱の中へ手を入れ、布の具合を確かめた。


「ちょうどいい……」


 その声が嬉しそうで、僕はさらに面白くなくなる。


 まりちゃんは僕を振り返った。


「レイモンド、どう?」


 知らない。


 聞くな。


 僕はその場で座ったまま、いかにも関心がありませんという顔をした。箱のことなんて少しも見ていません、ただたまたまこの向きで座っているだけです、というふりだ。


 あいつが、その様子を見て小さく笑った気配がした。


「まあ、すぐには使わないよな」


 わかっているなら言うな。


 僕は目を細めた。


 まりちゃんは少しだけ残念そうな気配をさせたが、無理に抱き上げて乗せようとはしなかった。それは少しだけよかった。そういうことをされたら、僕はたぶん意地でも使わない。


 だから僕は、時間をかけて無視することにした。


 箱の前をわざと通らない。

 視線も向けない。

 窓へ行く時は、いままで通り椅子を使う。


 それで十分なつもりだった。


 だが椅子は、もうなかった。


 まりちゃんが片づけてしまったのだ。


 裏切りだと思う。


 僕は窓際の前で立ち止まり、床と箱と出窓を見比べた。箱はそこにある。使えばいいだけだ。そういう顔で、まりちゃんが少し離れた場所から見ている。あいつも帰ってはいない。壁際で、何でもないふうに工具をまとめている。


 腹が立つ。


 でも、出窓には行きたい。


 僕はまず箱の上へ上がった。昔の僕なら何でもない高さだ。今でも、それくらいなら飛べる。箱の表面はたしかに滑りにくくて、前足が安定する。そのことにもまた腹が立つ。


 それから、箱の上から出窓を見る。


 近い。


 床から直接見上げるより、ずっと近い。


 僕は一度だけしっぽを揺らしてから、窓辺へ移った。


 簡単だった。


 簡単すぎて、癪だった。


「上がれた」


 まりちゃんの声が、明るく弾む。


 やめろ。そんなに嬉しそうにするな。僕が年を取ったことが確定したみたいじゃないか。


 けれど実際、僕はもう前みたいではない。


 そしてこの箱は、その前みたいではない僕に合わせて作られている。


 それが認めたくないくらい、ちょうどよかった。


     *


 さらに悔しいことに、箱の中は落ち着いた。


 最初は偶然入っただけのつもりだった。出窓から下りる時、途中で少し身体を止めただけだ。決して気に入ったわけではない。気に入るはずがない。


 なのに、箱の中は思ったより暗くて、あたたかくて、囲われている感じがした。中に敷かれた布も悪くない。床の冷たさが直接来ないし、壁に囲われているぶん、静かで落ち着く。


 僕はその場で少しだけ丸まってみた。


 少しだけだ。

 試しただけだ。


 けれどその「少し」が、気づけばずいぶん長くなっていた。


 外からまりちゃんの声がした。


「入ってる……」


 入っていない。休んでいるだけだ。


 まりちゃんはしゃがみ込み、箱の入口から僕を覗いた。目がひどく嬉しそうだった。その顔を見て、僕はますます出にくくなった。


 出たら、わざわざ照れたみたいになる。

 残れば、気に入っていると認めることになる。


 どちらも嫌だった。


 結局、僕は目を閉じて、知らんふりをした。


「よかったねえ」


 その声に、僕は腹が立った。


 よくない。

 僕は年を取った。

 その結果、こんなものが必要になった。

 そしてそのこんなものが、信じられないくらい役に立っている。


 腹が立たないわけがない。


 しかも作ったのは、木の匂いのするあいつだ。


 まりちゃんが喜ぶほど、僕は悔しくなる。

 でも、まりちゃんが安心した気配をさせると、それをまるごと否定もできない。


 その揺れが、最近いちばん面倒だった。


     *


 夜になって、あいつは箱の角をもう一度だけ手で確かめた。


「このへん、ささくれないようにしといたから」

「ありがとう」


 まりちゃんは自然にそう返した。


 そのやりとりを、僕は箱の中から聞いていた。


 前なら、恋敵だ、それだけで済んだのかもしれない。

 気に食わない。追い払いたい。まりちゃんの近くへ来るな。

 そのくらいの単純な怒りなら、もっと楽だった。


 でも今は、それだけではない。


 あいつが作った箱は役に立つ。

 役に立つだけじゃなく、まりちゃんを安心させている。

 僕が年を取ったという事実に、見ないふりをしないで、でも大げさにもせず、必要な形に直している。


 そういうことが、腹立たしいくらいちゃんとしている。


 僕が箱から出て、ゆっくり床へ下りた時、あいつは一歩だけ足を引いた。邪魔にならないようにだろう。何でもない動きだった。何でもないのに、前からそこにいた生き物のための動きみたいで、また腹が立つ。


 まりちゃんが「使ってくれてる」と笑う。


 僕はその足元へ行って、少し強めに体を押しつけた。


 まだ僕がいる。

 まだ僕が守る。

 そう言いたいみたいに。


 まりちゃんはしゃがんで、僕の頭を撫でた。


「でも、助かった」


 そのひとことが、妙に深く刺さった。


 助かった。


 僕が守りたい相手が、助かったと言っている。

 その理由の一部が、僕ではなく、あいつの作った箱だ。


 悔しい。

 情けない。

 でも、その言葉を嬉しいと思ってしまう自分もいる。


 まりちゃんが困らないなら、それでいい。

 でも僕だけでそれをしたかった。

 できるなら最後まで、僕だけで守りたかった。


 その無理が、箱の木の匂いと一緒に胸の中へ残る。


 あいつは大げさな顔をしない。まりちゃんに褒められても、少し困ったみたいに笑うだけだ。そこがまた気に食わない。恩着せがましくしないぶん、こっちも単純に嫌えないではないか。


 箱の前で、僕は一度だけ立ち止まった。


 木の匂いのするあいつ。

 まだ腹が立つ。

 恋敵でもある。

 でも、役に立つ。


 それだけではなく、まりちゃんが長いため息を吐かずに済む形を、ちゃんと作れる。


 僕はそのことを、嫌でも見てしまった。


 認めるのは悔しい。

 けれど、見なかったことにもできない。


 箱の中へ戻って丸くなる。布の感触がお腹の下でやわらかい。外ではまりちゃんが食器を片づけ、あいつが何か短く返事をする。部屋の中の音は静かだ。静かで、少し落ち着きすぎている。


 僕は目を閉じた。


 まだ任せるとは言わない。

 まだ全面的に認める気もない。

 でも少なくとも、ただの敵のままではいられないのかもしれない。


 そんなことを考えてしまう時点で、僕はだいぶ負けている。


 それでも箱の中はあたたかくて、まりちゃんの気配も近かった。


 悔しいけれど、悪くなかった。

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