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『吾輩は猫なのか?』  作者: 根古野 雀句


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第12話 面影

 その夜、真理子はなかなか眠れなかった。


 部屋は静かだった。レイモンドは出窓の前の箱の中で丸くなっていて、たまに耳だけを動かす。昼間の疲れはたしかにあるのに、瞼の裏だけがいつまでもざわついていた。


 元彼が死んでいるかもしれない。


 その言葉は、まだ真理子の中で現実になりきっていない。けれど、冗談のままでもいてくれなくなった。身元不明、海沿いの事故、連絡のつかない時間。どれも単体なら結びつけなくていいはずなのに、いったん結びついたあとでは、ばらばらに戻せない。


 真理子は布団の中で目を開けた。


 もし本当に死んでいたらどうしよう。

 もし、もう二度と何も言えないのだとしたら。

 もし、自分が最後まで怒ったままで終わってしまったのだとしたら。


 考えるたびに、胸の奥へ冷たいものが溜まる。


 違う、とも思う。


 死んでいてほしいわけじゃない。

 でも、生きているなら生きているで、なぜ帰ってこないのかと思う。

 責めたいのか、無事でいてほしいのか、自分でもわからない。


 レイモンドが箱の中で、小さく身じろぎした。


 布の擦れる音が、妙に近く聞こえる。


 真理子はそちらを見た。灰色の毛並みが暗がりの中でやわらかく沈んでいる。さっきまで見ていたはずなのに、今はその姿が少し違って見えた。違って見える、というより、自分のほうの見方が変わってしまったのかもしれない。


「……やだな」


 かすれた声が出る。


 何が嫌なのか、自分でもはっきりしない。ただ、死者の気配みたいなものが、急に部屋へ近づいた感じがしていた。


 真理子は起き上がった。白湯でも飲まないと、たぶんこのまま朝まで眠れない。


     *


 リビングへ出ると、レイモンドも起きてきた。


 最近はこういうことが多い。真理子が眠れずに起きると、しばらくして当然みたいに寝床から出てくる。最初の頃は偶然かと思った。けれど、もう偶然では片づけにくいくらい回数が重なっている。


 真理子はマグカップへお湯を注ぎながら、箱のことを思った。


 あの出窓用の木箱は、もうすっかり部屋の景色になっている。最初は間に合わせの椅子だったものが、今はちゃんとした居場所に変わった。中に布が敷かれていて、床から一段、箱からもう一段で窓へ行ける、あの形。


 レイモンドはまだ、時々不満そうな顔をする。けれど、使わないわけではない。むしろ、箱の中で丸くなっている時間は少しずつ増えている。


 それを思うと、また胸が締まる。


 年を取ったのだ。

 昔みたいには、もう跳べない。


 その当たり前を、箱の形が毎日見せてくる。


 真理子はソファへ座り、レイモンドが足元へ来るのを待った。今日はいつもより少し遅い。箱から下りて、床を歩いて、迷うように一度立ち止まり、それから真理子の足へ体を寄せる。


 その遅ささえ、最近は見えてしまう。


「……老けたねえ」


 口にすると、レイモンドは短く鳴いた。


 文句なのか返事なのかはわからない。けれど、こうして声を返されること自体、昔よりずっと増えた。前はもっと無口な猫だった。抱っこも嫌い、鳴いて要求することもほとんどない、静かな猫。


 今は違う。


 近くに来る。

 眠れない夜には起きてくる。

 落ち込んでいると、ちょうどいい距離にいる。

 泣きそうになると、離れない。


 人間みたいだ、と思う。


 前から何度もそう思ってきた。

 でも、その思い方は今夜だけ少し違った。


 白湯の湯気が目の前で薄く揺れる。レイモンドは足元に丸まり、けれど眠ってはいない。真理子が動けばすぐわかるように、耳の先だけが少し立っている。


 どうしてこんなにわかるのだろう。


 真理子はそう考えて、そこでふと、昔の夜を思い出した。


 同棲を始めてまだそれほど経っていない頃だ。浮かれて買ったお揃いの夫婦茶碗を、真理子は洗い物の途中で落として割ってしまった。


 あの夜。


 そこで最初に思い出したのは、声ではなかった。

 慰めの言葉でもない。

 笑ってごまかした顔でもない。


 手だった。


 元彼は、割れた茶碗より先に真理子の手を見た。怪我してない、とまず聞いた。破片はあとでいいから、と言って、真理子の指先を確かめた。


 その順番だけは、妙にはっきり覚えている。


 真理子はカップを持つ指に少し力を込めた。


 どうして今、それを思い出すのだろう。


 白湯をひとくち飲む。温度はちょうどいいはずなのに、喉の奥へ落ちる時だけ少し熱い。


 手を見る。


 その順番が、胸の中へ小さな棘みたいに引っかかったまま残る。


     *


 真理子は視線を落とした。


 足元のレイモンドが、さっきと同じように静かにいる。その灰色の背を見た瞬間、今度は別の夜が浮かび上がってきた。


 ペアグラスが割れた夜だ。


 元彼とのペアグラスを割った夜。

 足元にいたレイモンドをきっかけに、体勢を崩し、箱が落ちて、グラスが床で砕けた夜。

 自分がレイモンドへ八つ当たりして、最低な声をぶつけてしまった夜。


 あの夜も、最初に気にされたのは手だった。


 違う。


 正確には、レイモンドは何も言わない。言葉では聞かない。けれど、あの時レイモンドは、破片のそばへ行かず、真理子の手へ先に鼻先を寄せた。切り傷からにじんだ血の匂いを先に確かめた。


 割れたものより先に、手。


 夫婦茶碗の夜と、同じ順番だ。


 真理子はそこで息を止めた。


 違う、と思う。


 いや、でも。


 偶然かもしれない。単に血の匂いへ反応しただけかもしれない。猫なのだから、そういうものだと言われれば、それで終わる話でもある。


 なのに、終わらない。


 終わらないまま、記憶の中の順番だけが、ひどくくっきりしていく。


 夫婦茶碗の夜。

 ペアグラスの夜。

 どちらも先に見たのは、割れたものではなく、真理子の手だった。


 真理子は白湯のカップを置いた。


 指先が少し震えていた。


     *


 そこから先は、思い出すというより、浮かび上がってくる感じだった。


 レイモンドの距離の取り方。

 泣きそうな時、ぴったり抱きつきすぎず、でも離れすぎもしないあの位置。

 眠れない夜に、当然みたいに起きてきて足元へ丸くなること。

 仕事で失敗して帰った夜、いきなり甘えるのではなく、少し待ってから腕の内側へ頭を押しつけてきたこと。

 ペアグラスの夜、怒鳴られたあとでも離れず、でも逃げ道を塞がないように真理子のすぐ脇にいたこと。


 ただ慰めるのではない。

 押しつけない。

 急がない。

 でも、ひとりにはしない。


 そういうやり方だった。


 元彼が、そういう時だけ妙に正しかったことを、真理子は知っている。


 将来の話からは逃げた。

 大事な場面で向き合わなかった。

 真理子を置いていった。


 それでも、壊れたものを前にした時や、真理子が泣きそうな時の距離の取り方だけは、なぜだかうまかった。


 その、うまさ。


 それに似たものを、真理子はずっとレイモンドの中に見ていたのではなかったか。


 前はただ、「この子、人間みたい」と思っていた。

 年を取った猫の変化なのかもしれない。

 昔話の化け猫めいた不思議さなのかもしれない。

 そうやって少し冗談まじりに受け取っていた。


 でも今は、そこに別の可能性が差し込んでくる。


 元彼が死んでいるかもしれない。

 死者の気配みたいなものが、白い花の匂いと一緒にずっと頭の奥へ残っている。

 その状態で、この一致を思い出してしまった。


 だから、もう駄目だった。


 ひとつひとつは小さかったはずのものが、一度つながり始めると止まらない。


 ソファで隣に座ること。

 眠れない夜に起きてくること。

 言葉を理解しているみたいに耳を動かすこと。

 落ち込んでいる時のタイミングを外さないこと。

 何かを割った時、破片より先に手を気にすること。


 人間みたいな猫。

 気持ちがわかりすぎる変な猫。

 私を少し楽にする作法を、なぜか知っている猫。


 どうして。


 どうして、そんなことができるの。


 真理子はゆっくり顔を上げた。


 レイモンドは足元で丸くなったまま、こちらを見ていた。灰色の目は、ただの猫の目にしか見えない。香ばしい日向みたいな匂いも、しなやかな体も、どう見ても年老いた一匹の猫だ。


 なのに、その姿の奥へ、違うものを探してしまう自分がいた。


 真理子は、ほとんど無意識に呟いた。


「……あなた、なの」


 声は掠れていた。


 言ってから、自分で自分の言葉が信じられなかった。馬鹿げている。死んだ人が猫になるなんて、あるはずがない。そんなことを本気で思うなんて、自分はまともじゃないのかもしれない。


 けれど、そうとしか言えない瞬間がたしかにあった。


 レイモンドは答えない。


 ただ耳を小さく動かし、それからいつもと同じように目を細めた。


 その仕草が、真理子には余計につらかった。


「まさか、レイモンド……」


 そこまで言って、真理子は口元を押さえた。


 部屋の中は静かだった。箱も、出窓も、白湯の湯気も、全部そのままなのに、自分だけが急に別の場所へ来てしまったみたいだった。


 レイモンドが元彼かもしれない。


 そう考えること自体が間違っている。

 でも、そうであってほしいと一瞬でも願った自分がいる。

 その願いごと、自分の胸の奥をえぐる。


 死んでいてほしいわけじゃない。

 生きていて、帰ってきて、ちゃんと謝ってほしかった。

 逃げないで、向き合ってほしかった。


 それなのに、もしそれが叶わないのなら。

 もしもう死んでいて、だからこんな形でしか会えないのだとしたら。


 真理子はそこで、目を閉じた。


 涙が出る一歩手前の熱が喉に詰まる。


 足元ではレイモンドが、少しだけ姿勢を変えた。近づくでもなく、離れるでもなく、ただ同じ場所にいる。その距離まで、どうしてこんなに知っているのだろうと思った。


 真理子は答えを出せないまま、ソファの縁を強く握った。


 夜はまだ深い。

 けれど、もう前の夜には戻れない気がしていた。

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