第13話 帰ってきた男
朝になっても、真理子の胸の奥には昨夜の言葉が残っていた。
あなた、なの。
自分で口にしたくせに、あまりにも馬鹿げていて、あまりにも切実だった。
レイモンドはいつも通り窓際の箱の中で丸くなっている。灰色の毛並みはきれいで、目を細める仕草も、少し香ばしい日向みたいな匂いも、どう見てもただの老猫だ。なのに真理子は、その姿をまっすぐ見られなかった。
昨夜、自分はどこまで本気でそう思ったのだろう。
死んだ人が猫になるなんて、あるわけがない。
あるわけがないのに、そうであってほしいと一瞬でも願った自分がいる。
真理子は出勤の支度をしながら、何度もそれを打ち消そうとした。けれど打ち消すたびに、レイモンドの慰め方や、待ち方や、絶妙すぎる距離の取り方ばかりが思い出される。
店にいても、仕事に集中しきれなかった。
花の水を替え、茎を切り、ラッピングをする。手はいつも通り動いているのに、頭の奥では昨夜のことがずっと揺れている。自分が正気なのかどうかまで少し怪しく思える。
閉店後、真理子はまっすぐ家へ帰った。
考えたかったわけではない。ただ、今日は誰とも話したくなかった。新しい彼に連絡を返そうとして、やめた。今の自分の中は説明しにくいものでいっぱいで、下手に言葉にすると、余計に壊れそうだった。
玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
レイモンドが箱の中から耳だけを動かす。
その時、インターホンが鳴った。
真理子は一瞬だけ立ち止まった。こんな時間に来る相手は限られている。新しい彼なら、たいてい先に連絡がある。店の人がわざわざ来る用事もない。
もう一度、チャイムが鳴る。
真理子はドアスコープを覗いて、そのまま息を止めた。
そこにいた男の顔を、真理子はすぐには現在のものとして認識できなかった。
少し痩せていた。髪も前より短い。肩の線は前より硬く見える。それでも、その立ち方も、困った時に少しだけ眉を下げる癖も、知っているままだった。
震える指でスマホを開き、たった一言だけ送る。
『彼が帰って来た』
送信した直後、ドア越しにくぐもった声がした。
「……まりちゃん?」
真理子の手が震える。
開けるべきじゃない、と思った。
でも、もう覗いてしまったあとだった。
ゆっくりと鍵を外す。ドアを少しだけ開ける。
男は、何事もなかったみたいに笑おうとして、でも少し失敗したみたいな顔で立っていた。
「久しぶり」
真理子は何も言えなかった。
喉の奥に、怒りも、驚きも、安堵も、全部まとめて詰まってしまったみたいだった。死んでいたかもしれない人間が、玄関の前で普通に立っている。その光景は、現実感があるくせに現実味がなかった。
「……生きてたの」
ようやく出た声は、思っていたより掠れていた。
「うん」
元彼はそこで少しだけ視線を落とした。
「連絡、できなくてごめん」
その一言が、真理子の中で何かを逆撫でした。
できなくて。
ごめん。
そんな短い言葉で済ませられる時間ではなかった。
「どうして今さら」
元彼は息を吸って、それから少しだけ胸を張るような仕草をした。
「ちゃんとしたかったから」
真理子は黙っていた。
「借金、返した。仕事も決まった。前みたいな中途半端なまま戻るの、だめだと思って」
その言い方には、本人なりの誠実さがあった。たぶん本当に、この人はこの人なりに順番を考えたのだろう。逃げたままでは戻れない、だから整えてから来るべきだと。そう思ったのだろう。
でも、その“整えたあとなら戻っていい”という発想そのものが、真理子の胸を冷やした。
あの人は今も、条件を揃えることを向き合うことより先に置いている。
「だから戻ってきたの?」
「うん」
元彼は少しだけ安心したように頷いた。
「もう、前みたいじゃないから。ちゃんと働くし、金のことも大丈夫だし、住むとこも――」
真理子はそこで、ようやく相手の顔をまっすぐ見た。
たしかに、整えてきたのだろう。
借金も返した。仕事も決まった。住む場所の目処までつけているのかもしれない。
真理子が昔、将来の話として欲しがったものの輪郭だけは、そこにある。
でも、それは今ではなかった。
そして、そういう形で持ち出されること自体が、決定的に違った。
「今度は、ちゃんとできるって思って」
「今度は、って何」
真理子の声が、自分でも驚くほど冷たく落ちた。
元彼が言葉に詰まる。
「いや……だから、前みたいに曖昧じゃなく」
「そうじゃない」
真理子は自分の胸の奥から、その言葉がまっすぐ出てきたことに少し驚いた。
「そうじゃない」
元彼は黙る。
その沈黙のあいだに、真理子の中で言葉がはっきりしていく。逃げずに向き合うべきだったものが、いま初めて形になる。
「私があの時ほしかったの、借金を返してから戻ってくることじゃなかった」
「就職が決まってから胸張って来ることでもなかった」
「住む場所を用意してから、ほらこれで安心でしょって顔されることでもなかった」
真理子はそこで一度だけ息を吸った。
「逃げてほしくなかった」
最後の一言は、思っていたより静かに出た。
静かだったぶん、深く刺さったのが自分でもわかった。
元彼の顔から、いままで浮かんでいた都合のいい安心が少しずつ消えていく。
「まりちゃん、でも僕なりに――」
「そうだよね。あなたなりには、ちゃんとしようとしたんだと思う」
真理子はそこで初めて、相手の目をまともに見た。
「でも私は、あの時、ちゃんとしてるあなたが欲しかったんじゃない」
「惨めでも、情けなくても、話してほしかった」
「借金があるままでも、仕事が決まってなくても、逃げないでほしかった」
「一緒にどうするか考えてほしかった」
言いながら、胸の奥で何かがひとつずつほどけていくのがわかった。
怒りだけではない。
未練だけでもない。
ずっと未処理のまま腐りかけていたものが、ようやく言葉になって外へ出ていく。
「半年いなくなって、何も言わなくて、戻ってきて」
「条件が整ったから、これでやり直せるって思われても、もう違う」
元彼はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……僕は、まりちゃんのこと、ほんとに好きだったよ」
「知ってる」
「だったら」
「好きだったからいい、にはならない」
真理子は即座に言った。
「好きだったからこそ、逃げないでほしかったの」
そこでようやく、元彼は言い返せなくなったようだった。
真理子の背後で、かすかな物音がした。
振り向かなくてもわかる。レイモンドが出てきたのだ。箱から床へ下りる、控えめな音。元彼もそれに気づいて、はっとしたように顔を上げた。
「レイモンド」
その声だけは、少し前の時間に戻ったみたいだった。
元彼はしゃがみ込み、玄関の中へ向かって手を伸ばした。
「お前、覚えてるよな」
真理子は息を止めた。
レイモンドは廊下の途中で立ち止まっていた。灰色の体は細く、けれど目だけは妙に静かだった。
「レイモンド、ほら」
元彼が、昔よくしていたみたいに膝を軽く叩く。
「おいで」
真理子はその瞬間、なぜか確信に近いものを持ってしまった。
行かない。
この子は、たぶんもう行かない。
レイモンドは一歩も近づかなかった。
逃げるわけでもない。ただ、元彼のほうへは寄らず、真理子の足元まで来て、そこで止まる。ぴたりとくっつくわけでもない。ただ、ここが自分のいる側だと決めたみたいに、その場所を選ぶ。
元彼の顔が、そこで初めてほんとうに崩れた。
「……そっか」
小さく言う。
その一言に、言い訳よりも先に敗北が滲んでいた。
真理子は何も足さなかった。
もう十分だった。
元彼はゆっくり立ち上がり、ドアの外へ半歩下がった。以前よりは少しまともになったのかもしれない。借金も返したのだろうし、仕事だって決まったのだろう。けれど、今になってようやく整えたそれらが、失った時間を埋めるわけではなかった。
「ごめん」
今度の謝罪は、さっきよりずっと小さかった。
真理子は少しだけ目を伏せて、頷きもしなかった。
「もう、大丈夫」
それだけ言う。
許すとも許さないとも言わない、ただ終わらせるための声だった。
元彼は何か言いかけて、やめた。最後にもう一度だけレイモンドを見たが、レイモンドはやはり動かなかった。
ドアが閉まる。
鍵をかけた瞬間、真理子の膝から急に力が抜けた。
その場にしゃがみ込むと、レイモンドが静かに足へ寄ってきた。昔みたいに、いや、昔よりずっと自然に。真理子はその背へ手を置いた。あたたかい。ちゃんと生きているものの温度だった。
廊下はしんと静かだった。
ドアの向こうの気配はもう遠く、部屋の中には、古いものがひとつ終わったあとの薄い冷たさだけが残っている。真理子はその静けさの中で、何度か浅く息をした。泣くつもりはなかったのに、頬を伝ったものが一筋だけ顎へ落ちた。
スマホが震えた。
『近くにいる』
『終わったら連絡して』
真理子は画面を見て、長く息を吐いた。
あの一言だけで、ちゃんと伝わっていたのだと思う。説明を急かさず、玄関に割り込んでも来ない。ただ、逃げ場みたいに近くにいてくれる。
それが今の真理子には、ありがたかった。
真理子はすぐには返事を打たなかった。
足元のレイモンドを見て、その額をそっと撫でる。
「……終わったよ」
灰色の耳が、小さく動く。
真理子はもう一度、その背をゆっくり撫でた。玄関の冷えた空気の名残が、指先から少しずつ消えていく。
それからようやく、スマホを持ち直した。
『終わった』
『今から行く』
送信して、立ち上がる。
レイモンドは何も言わない。
けれど、寄り付かなかったことが、何よりもはっきりした返事だった。




