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『吾輩は猫なのか?』  作者: 根古野 雀句


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第14話 吾輩は猫なのか?

 あいつは、生きていた。


 玄関の向こうに立って、まりちゃんの名前を呼んで、少し困ったみたいに眉を下げていた。昔と同じ声で、昔と同じ癖のまま、ちゃんと生きていた。


 そのことを知った瞬間、僕の中で何かが音もなく崩れた。


 まりちゃんの失った誰か。

 死んで戻ってきたもの。

 なぜか人間の作法ばかり知っている、変な輪郭。


 そういう曖昧なものが、玄関の向こうに立っていた本物ひとつで、いっぺんに形を失った。


 僕は箱の中で丸くなったまま、しばらく動けなかった。


 喉の奥は鳴き声のままで、前足の下には布の感触がある。窓際の光は少しぬるく、身体は前より重い。まりちゃんの部屋の匂いも、いつものままだ。


 僕のいる場所は、最初からここだった。


 僕は、あいつではなかった。


 まりちゃんの失った誰かでも、死んで戻ってきたものでもなかった。どれほどそれらしく振る舞っていても、どれほどまりちゃんの傷のそばにいても、玄関の向こうに本物が立った時点で、それはもう言い逃れのしようがなかった。


 僕は猫だ。


 その当たり前が、今さらみたいに胸の奥へ落ちてくる。

 けれど、ではあの人間くさい輪郭は何だったのか。


 まりちゃんが泣く時に、どうして僕は待つべき間を知っていたのか。

 どうして触れすぎない距離を選べたのか。

 どうして、あの男みたいな慰め方ばかりしてしまったのか。


 僕は箱の中でじっと目を閉じた。


     *


 目を閉じると、思い出すものがある。


 最近のことではない。僕の中に“僕”がはっきり現れる、もっと前のことだ。


 あいつは、よく笑うやつだった。


 軽くて、曖昧で、いざという時は頼りないくせに、まりちゃんのことになると妙に目を細める。そういう男だった。


 僕は最初、あいつがあまり好きではなかった。


 知らない人間の匂いが急に部屋に増えるのは、猫として気に食わない。しかもあいつは、わりとすぐ僕を撫でようとした。抱っこしようとして逃げられ、まりちゃんに笑われて、「だよね」と言っていた。諦めがよすぎるのも気に食わなかった。


 でも、嫌いなままではいられなかった。


 あいつは、ごはんの時間をわりと覚えていた。

 まりちゃんが忘れそうな日は、僕の水皿を見た。

 日向にいる僕を、必要以上に追い払わなかった。

 まりちゃんが仕事で疲れて帰った日には、くだらない話をして笑わせていた。


 重い話の気配がすると、あいつの声は少し軽くなりすぎた。将来のことになると、うまくない誤魔化し方をした。そういう時のまりちゃんの気配は、あとで少し冷たくなった。


 でも、それと別に、あいつにはあいつのうまさがあった。


 まりちゃんが沈みきる前に、少しだけ息を抜かせること。

 泣きそうな時、ぴったり抱きしめすぎずに隣へしゃがむこと。

 何かを割った時、破片より先に手を見ること。


 僕はそれを、見ていた。


 ソファの背から。

 出窓から。

 テーブルの下から。

 人間ふたりの近くでも、少し離れた場所から。


 別に覚えようとしていたわけじゃない。


 でも、猫は好きなものをよく見る。

 好きな日向の角度を覚えるみたいに。

 帰ってくる足音の違いを覚えるみたいに。

 好きな匂いが、どんな順番で混ざるかを覚えるみたいに。


 僕は、まりちゃんが少し楽になる時の、あの男のやり方をいつのまにか知っていた。


 そして、あいつがいなくなった。


 ある日から部屋の匂いがひとつ減った。ソファの沈み方が変わった。笑う声の種類がひとつ消えた。


 そのこと自体も、寂しかった。


 猫の寂しさなんて、人間から見れば小さなものかもしれない。

 けれど、毎日そこにあった匂いが消えるのは、ちゃんと嫌だった。


 でも、もっと嫌だったのは、そのあとだった。


 まりちゃんだ。


 怒っているのに、待っている気配。

 呆れているのに、心配している足音。

 前へ進みたいのに、置いていかれた場所から動けない顔。


 食器棚の前で、ほんの少し止まる。

 スマホを見て、何でもないふりをする。

 笑ったあとに、ごく薄い寂しさだけが残る。


 僕はそれを毎日見ていた。


 嫌だった。


 まりちゃんに、ああいう気配を長くさせたくなかった。

 長い息を吐かせたくなかった。

 夜の部屋を、あんなふうに静かに重くしたくなかった。


 僕は猫だから、できることは少ない。

 言葉はそのまま言えないし、約束もできないし、外へ出て探しに行くこともできない。


 それでも、何かしたかった。


 だから、僕の身体は勝手に選んだのだと思う。


 今はまだ行かないほうがいい、とか。

 隣にいるならこのくらいの距離だ、とか。

 手の近くへ寄ったほうがいい、とか。

 眠れない夜には当然みたいに起きていく、とか。


 あいつになりたかったわけじゃない。

 あいつを奪おうとしたわけでもない。


 ただ、まりちゃんが少し楽になる形が、僕の中ではあの輪郭に近かったのだろう。


 そうして僕は、気づいたら人間みたいなやり方でそばにいた。


 ペアグラスが割れた夜もそうだった。


 僕はあの時、何かを思い出したわけではなかった。ただ、まりちゃんの手に血の匂いがして、破片の光より先にそちらが気になった。それだけだ。けれど、その「それだけ」の中に、ずっと見てきた順番が混ざっていた。


 だから僕は、あんな慰め方ばかりしてしまった。


 それはきっと、記憶ではなく、染みついた見方みたいなものだったのだと思う。


 僕の好きだったあいつの面影と、

 僕の見てきたまりちゃんの幸せと、

 それをもう一度この部屋に戻したいという願い。


 その全部が混ざって、人間みたいな形を取ったのだ。


 そしてその形の中で、最近になって僕は目を覚ました。

 僕という輪郭を持ってしまった。


     *


 箱の中で目を開ける。


 夕方の光が、窓のところで少し白い。


 あいつではなかった。


 そう胸の中で言い直すと、不思議と前ほど痛くなかった。


 もしほんとうにあいつだったなら、もっと変だったはずだ。まりちゃんは僕を見て、もっと苦しかっただろう。撫でれば毛がある。呼んでも鳴くばかり。触れたくても、言葉は返らない。


 僕はそういうものではなかった。


 灰色の毛並みの老猫で、

 出窓が好きで、

 抱っこは相変わらず苦手で、

 まりちゃんのそばにいたかっただけの猫だ。


 そのことが、今さらみたいに身体へ戻ってくる。


 僕は、レイモンドだった。


 まりちゃんと暮らしてきた猫。

 あいつのことも、少しは好きだった猫。

 まりちゃんが笑うと、部屋の空気まで少し幸せになるのを知っていた猫。


 それで、十分だった。


 まりちゃんを放っておけなかったのは、僕だった。


 そこに、あいつの面影が混ざっていたとしても。

 僕のやり方が、あいつの輪郭を借りていたとしても。

 まりちゃんのそばにいたかった熱そのものは、たぶん最初から僕のものだった。


 僕は彼じゃない。

 元人間でもない。

 猫だ。


 でも、猫だから偽物だったわけじゃない。


 まりちゃんを愛していたのは、まぎれもなく僕だった。


 そのことが、ようやく胸の奥へ静かに収まる。


 収まってしまうと、少しだけ寂しかった。


 あいつではなかった。

 そのことは、まりちゃんにとってたぶん、ちゃんとした救いだ。


 でも同時に、僕の中で勝手にふくらんでいた、名前のない夢みたいなものもそこで終わった。


 もし僕があいつなら。

 もし僕が人間なら。

 もし僕が、まりちゃんにちゃんと言葉を返せる側の生き物なら。


 そういう、どうにもならない空想だ。


 なくなってしまってよかったはずなのに、なくなったあとの胸の奥は、夕方の窓みたいに少し冷えていた。


 けれど、その冷たさの底には、変な安堵もあった。


 もう無理をしなくていい。

 もう自分の正体を探さなくていい。

 僕は最初から、まりちゃんの部屋で暮らしてきた一匹の猫だった。


 それだけのことが、こんなにあたたかい。


     *


 木の匂いのするあいつのことを思う。


 気に食わない男だった。


 「真理子さん」なんて気取った呼び方をするし、まりちゃんの前で落ち着いた顔をするし、僕がどれだけ感じ悪く振る舞っても、妙に慌てない。そのくせ、張り合ってもこない。こないくせに、消えもしない。


 吐いた僕を見ても、引かなかった。

 老いた僕のために、あの箱を作った。

 まりちゃんの昔の話が混ざっても、嫌な気配をさせなかった。


 でも、いちばん大きいのは、逃げないことだ。


 まりちゃんが自分の言葉で「逃げてほしくなかった」と言った時も、あいつは代わりに何も言わなかった。決着を奪わなかった。あれでよかったのだと、僕にもわかる。


 前のあいつとは、ちゃんと終われた。


 そのことを思うと、胸のどこかが少し軽い。


 認めるのは悔しい。

 でも、木の匂いのするあいつなら、たぶん大丈夫そうだ。


 僕がいなくなったあとも、まりちゃんの長い息を受け止めて、曖昧にせず、逃げずにそばにいる。そういうことのできるやつかもしれない。


 だったら、まあ。


 そこまで考えたところで、箱の中の布が急に深く感じられた。


 眠い。


 ただの昼寝の眠さではなく、身体の芯から重さが前へ出てくるような眠気だった。ここしばらくずっと奥にあったものが、ようやく思い出したみたいに僕の手足へ降りてくる。


 寒い朝に、すぐ動けなかったこと。

 深く眠ることが増えたこと。

 高いところへ飛ぶ前に、少し考えるようになったこと。


 そういうのは全部、ずっとここにあった。


 僕は箱の中から出ようとして、前足を一歩外へ出した。


 床までは遠くない。

 遠くないのに、後ろ足が少し遅い。


 嫌な感じがした。


 前足はまだ床を掴む。

 でも身体の中心が、ふっと軽くなる。軽いのに、動きは重い。窓際の光が少しだけ滲んだ。


 その時、玄関の鍵の音がした。


「ただいま」


 まりちゃんの声だ。


 花の匂いがした。外気の匂いがした。まりちゃんの疲れた足音が、廊下の向こうから近づいてくる。


 行かなければ、と思った。


 いつもみたいに、少し遅れてでも顔を見せなければ。耳を動かすだけでは足りない気がした。まりちゃんが帰ってきた気配を、もっと近くで感じたかった。


 今日の気配は、少し疲れている。

 でも、前みたいな深い沈み方ではない。

 あの人とちゃんと別れて、少しずつ前へ進んでいる気配だ。


 それが嬉しかった。


 ちゃんと、よかったと思った。


 だからなおさら、行かなければならない気がした。

 おかえりを言うみたいに。

 今日もここにいるよと知らせるみたいに。

 まだ、もう少しだけ一緒にいるつもりだと、自分でも信じるみたいに。


 けれど足が言うことをきかなかった。


 箱の縁に前足をかけたまま、身体が傾く。


 落ちる、というより、沈む感じだった。


 床の匂いが近づいてくる。

 木の匂い。

 布の匂い。

 花の匂い。

 まりちゃんの声。


「レイモンド?」


 呼ばれた。


 返事をしたかった。


 喉の奥で小さく何かが鳴った気はする。でも自分でも、音になったのかどうかわからない。


 足音が急に近くなる。


「ちょっと、レイモンド、うそ、ねえ」


 まりちゃんの気配が、ひどく近い。


 抱き上げられる感覚がした。胸の音が早い。手が震えている。花と汗と、急にあふれた涙の匂いが混ざる。


 その震え方を、僕は知っている。

 本当に怖い時の、人間の震え方だ。


 嫌だった。


 まりちゃんに、もうそういう匂いはさせたくなかった。

 もう泣かせたくなかった。


 大丈夫だと言いたかった。

 ありがとうも言いたかった。


 僕を撫でてくれたこと。

 水を替えてくれたこと。

 眠れない夜に同じ部屋に居続けてくれたこと。

 帰ってくるたび、名前を呼んでくれたこと。

 僕が老いて、前みたいに跳べなくなっても、見ないふりをせずに工夫してくれたこと。


 全部、幸せだった。


 僕をレイモンドとして愛してくれたことが、たまらなく嬉しかった。


 けれど身体のほうが先に沈んでいく。


 まりちゃんの声が遠くなったり近くなったりする。

 冷たい空気が一瞬だけ混ざる。

 扉が開く。

 急いだ足音。

 震えた声で呼ばれる、僕の名前。


 どこかへ運ばれる感じがある。


 身体は重いのに、世界だけが揺れていた。

 まりちゃんの腕の中から、外の冷たさが差し込んでくる。

 それでも、胸の近くはまだあたたかい。


「レイモンド、お願い、ねえ」


 その声は、もう言葉というより祈りに近かった。


 僕は目を閉じた。


 最後に残ったのは、まりちゃんの腕の中の匂いだった。


 花と、涙と、ずっと知っていたぬくもり。


 大丈夫だと言えないまま、

 ありがとうも音にはならないまま、

 それでも僕は意識がなくなる最後まで、まりちゃんの匂いの中にいた。

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