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『吾輩は猫なのか?』  作者: 根古野 雀句


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エピローグ

 人間の暮らしというのは、終わったあとも勝手に続いていく。


 それは少し薄情にも見えるし、少し救いにも見える。


 まりちゃんは、ちゃんと前へ進んでいた。


 あの男と別れたあと、しばらくのあいだは、部屋の中にまだそいつの気配が薄く残っていた。濃い色のマグカップ、読みかけの本、何となく置いたままになっていた細かなものたち。まりちゃんはそれを、怒って捨てることも、未練がましく並べたままにすることもできず、しばらくただ視界の隅へ置いていた。


 でも、ある日から少しずつ、それらは片づいていった。


 箱に入れて、分けて、まとめて、手を止めて、また少し進める。


 一気にはやらない。

 けれど、もう戻さない。


 そういう片づけ方だった。


 僕は少し高いところから、それを見ていた。


 まりちゃんは途中で何度か黙り込んだし、小さく息を吐くこともあった。けれど前みたいに、手そのものが止まってしまうことはなかった。終わったものを終わったものとして扱うのは、まりちゃんにとってきっと簡単ではなかったはずだ。


 それでも、できた。


 ちゃんと別れたからだろう。

 言うべきことを言って、聞かせるべきことを聞かせたからだろう。


 あれでよかったのだと、僕は思う。


 部屋の中から、あの男のものが少しずつ減っていく。

 代わりに増えたものもある。


 木の匂いだ。


 木の匂いのするあいつは、前よりずっと自然に部屋へ来るようになった。最初の頃みたいな仕事道具を持ってくる理由づけは、もうそんなに要らない。手ぶらで来て、まりちゃんの淹れた茶を飲み、ソファに座って、気づけば夕飯まで食べている。そういうふうに、人間ふたりの生活は少しずつ馴染んでいくらしい。


 あいつは相変わらず、妙に落ち着いている。


 真理子さん、という呼び方もまだ続いているし、喋りすぎないし、大げさなことも言わない。付き合い始めてから敬語は抜けたくせに、その呼び方だけは変えないあたり、やはり少し気取っていると思う。


 ただ、まりちゃんはもう、その呼び方を自然に受け取っていた。


 前なら少しくすぐったそうにしていたのに、今は「ああ、この人はそう呼ぶ人なんだ」という顔で聞いている。その馴染み方が少し面白くなくて、でも悪くもない。


 まりちゃんは、前よりよく笑うようになった。


 あの男といた頃の笑い方とは違う。

 あの頃は、もっと高くて、弾むようで、勢いで転がっていく笑い方だった。今はそこまで無防備ではない。そのかわり、肩の力が抜けたあとに静かにほどけるような笑い方をする。


 あれなら悪くない、と僕は思う。


 長いため息も減った。

 眠れない夜も前ほど多くないらしい。

 仕事で疲れて帰ってきても、部屋の中まで沈んだ気配を引きずる日は少なくなった。


 窓際の箱も、すっかり部屋の景色になった。


 床から一段、箱からもう一段で出窓に行ける、あのひどく出来のいい箱だ。中は暗くて、囲われていて、風を避けやすく、しかも布まで敷いてある。最初は年寄り扱いだと思ったし、実際そういう面もあったのだろうが、認めたくないことによく限って役に立った。


 まりちゃんは今でもその箱の布をたまに直す。

 木の匂いのするあいつは、角の擦れを見つけては少し手を入れる。


 僕の箱である。


 そこは譲らない。


 ただ、その箱が暮らしの一部として手入れされているのを見ると、妙に落ち着くのも事実だった。


 もし僕が死んでしまって、ただこうして高いところからこの部屋を眺めているだけの存在なのだとしても、まあ、そこまで悪い気分ではないかもしれない。


 ……いや。


 それは少し違う。


 なぜなら僕は、べつにもう死んでしまって、ふわふわした何かになってこの部屋を漂っているわけではないからだ。


     *


 玄関の鍵が回る音で、僕は目を開けた。


 箱の中はあたたかい。

 暗くて、布がやわらかくて、風が少しだけ遠い。認めたくないが、やはりよくできている。


「ただいま」


 まりちゃんの声がした。


 花の匂い。外気の匂い。少し疲れた足音。今日は雨のあとの湿り気も混ざっている。僕はすぐには出ていかなかった。昔なら出窓から一息で床へ下りて、廊下の途中まで迎えに行けた。今はそうはいかない。だから、箱から一度床へ下りて、それから少し遅れて玄関のほうへ向かう。


 その少し遅れる、というのも、最近の僕だ。


 リビングへ行くと、まりちゃんは買い物袋をテーブルへ置いたところだった。木の匂いのするあいつも一緒に来ている。今日は花屋の帰りにそのまま寄ったらしい。あいつは当然みたいな顔で靴を揃え、当然みたいな顔で部屋へ入ってくる。


 図々しい。


 けれど、まりちゃんが「手、洗ってきて」と言うと、素直に「うん」と返して洗面所へ行く。その返事が自然すぎるのも、少し面白くない。


 僕がようやくリビングの入口まで行くと、まりちゃんが振り向いた。


「レイモンド」


 その呼び方だけで、今日もちゃんと帰ってきたのだとわかる。


 僕は何でもないふうに近づいた。何でもないふうを装っているが、内心ではかなり待っていた。まりちゃんはしゃがんで、僕の頭を撫でる。濡れた花の匂いの向こうに、いつもの手の匂いがある。


「そこ、ほんと好きだね」


 まりちゃんが箱のほうを見て笑う。


 好きなのではない。

 合理的な選択である。


 そう言ってやりたいが、喉から出るのは短い鳴き声だけだ。


 洗面所から戻ってきたあいつが、ソファの端へ腰を下ろす。僕はそちらを見て、それからわざとゆっくり歩いた。真ん中に行くか、足元に行くか、少しだけ迷う。するとあいつは、こっちが決める前に自然に脚を引いた。


 そういうところだ。


 気に食わないくらい、学習している。


 僕は結局、その引かれた脚のあいだを通って、まりちゃんの足元に丸くなった。あいつは何も言わない。勝手に撫でたりもしない。ただ、邪魔にならない場所を空ける。


「最近ほんと、ここだよね」


 まりちゃんが笑う。


 その声がやわらかい。前みたいな長いため息が、その笑いの前や後ろにあまりつかなくなったことを、僕は知っている。


     *


 あの夜のあと、僕は動物病院で目を覚ましたらしい。


 そこは最悪だった。金属と消毒と、知らない獣と、人間の不安の匂いばかりする。二度と長居したくない場所だ。


 まりちゃんはひどい顔をしていた。泣きすぎた人間の顔で、僕が目を開けた瞬間、息を止めて、それから変な声を出した。泣くのをこらえたのか、笑おうとしたのか、自分でもわからなくなった人間の声だった。


 そのあと、僕の名前を何回も呼んだ。


 僕はすぐには鳴けなかった。喉は変だし、身体はだるいし、正直かなり格好悪かった。けれど顔だけはまりちゃんのほうへ向けた。そうしたら、まりちゃんはまた泣いた。


 面倒な人間である。


 木の匂いのするあいつは少し離れたところにいて、妙に静かな顔で僕を見ていた。僕がまりちゃんのほうを向いた時、あいつはほんの少しだけ息を吐いて、それから視線を逸らした。


 あの時、ふたりとも怖かったのだろうと思う。


 あとから聞こえてきた言葉をつなぐと、どうやら僕はかなり本格的に死にかけたらしい。心拍が落ちているとか、脈が取れないとか、蘇生だとか、聞きたくない単語がいくつか混ざっていた。


 つまり僕は、召されたと思わせておいて、しぶとく戻ってきた。


 悪くない。


 猫としては少し気まぐれが過ぎるかもしれないが。


     *


 それからしばらくのあいだ、まりちゃんはひどく過保護になった。


 水を飲んでも見る。

 ごはんを食べても見る。

 少し長く寝ているだけで名前を呼ぶ。


 失礼な話だ。


 老猫は寝るものである。

 前より眠りが深いだけで、毎回あの世の縁に片足をかけているわけではない。


 とはいえ、まりちゃんの手はしばらく、僕に触れるたび少し震えていた。だからそのへんは、大目に見るしかなかった。


 今も夜になると、まりちゃんはときどき僕の箱の前へしゃがむ。

 「大丈夫?」と聞く。

 大丈夫に決まっている。

 だが、その声が嬉しそうなら、無視はしない。


 短く鳴くこともある。


 昔の僕なら、そこまでしてやらなかったかもしれない。


     *


 今夜も、まりちゃんはソファの背に少し沈みながら、足元の僕を撫でていた。テレビの音は小さい。あいつは隣に座っているが、まりちゃんが話す時だけ短く返す。無理に笑わせようともしないし、黙っていたい時に喋らせようともしない。


 そういうやつだ。


 盛り上げるのは、たぶん前のあいつのほうがうまかった。

 でも、逃げないのはこっちだ。


 それはもう、僕も知っている。


 まりちゃんは笑う。

 あいつは「真理子さん」と呼ぶ。

 僕はそのたび、少しだけ腹が立つ。


 けれど腹が立てるくらいには、部屋はあたたかい。

 前みたいな長いため息も減った。

 夜の空気も、静かに重くなりすぎない。


 僕は箱から出て、少し時間をかけてソファのほうへ行った。まりちゃんが足を少し開き、あいつが当然みたいに脚をどける。


 僕はその真ん中を通って、まりちゃんの足元へ丸くなった。


「やっぱりそこなんだ」


 まりちゃんが笑う。


 あいつは黙っている。黙ったまま、ほんの少しだけ手を出しかけて、やめる。勝手に触るな。そこだけは学習していてよろしい。


 まりちゃんが「大丈夫だよ」と言う。


 するとあいつは、頭の横を少しだけ撫でた。


 そのくらいなら、まあいい。


 僕は猫だ。


 彼ではなかった。

 誰かの代わりでもなかった。

 それでも、まりちゃんのことをあんなふうに愛してしまった猫だった。


 そして今も、そうだ。


 だからこの暮らしを、もう少しだけ見ていたい。

 箱の中からでも、ソファの足元からでも、まりちゃんの帰ってくる気配の中からでも。


 できるだけ長く。


 まあ、気まぐれに死にかけておいて何だが、しばらくはそのつもりでいる。


 まりちゃんは今日も僕の名前を呼ぶ。

 あいつは相変わらず「真理子さん」と呼ぶ。

 それを聞くたび少しだけ腹は立つ。


 だが、その腹立ちも含めて、いまの暮らしはそう悪くない。


 だから、まあ。


 許してやってもよい。


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