第8話 僕は猫なのに
あいつのことが、嫌いだ。
木の匂いがするところも、工具の金属っぽい匂いが服の端に残っているところも、妙に落ち着いた声も、全部気に食わない。けれど、いちばん腹が立つのは、あいつがまりちゃんを「真理子さん」と呼ぶことだった。
気取っている。
そうとしか思えない。
まりちゃんは、まりちゃんだ。そう呼ぶほうが自然だし、そう呼ぶ声のほうが似合う。なのにあいつは、少しよそゆきで、角の取れた皿みたいな顔をして、「真理子さん」と言う。
そのたび、僕の耳の奥がむずむずする。
まりちゃんがそれを嫌がっていないのも、なおさら気に食わない。
あの爪研ぎの事件のあと、あいつは消えなかった。
それどころか、僕が鞄に残した傷は、まりちゃんとあいつのあいだに小さな約束を作ってしまった。お茶を奢る、なんて、どう考えても僕の目的とは逆だ。追い払うつもりだったのに、余計な口実をひとつ増やしただけだった。
僕はそのことを思い出すたび、前足の爪を少しだけ出したくなる。
出したところで、たぶんまた裏目に出るのだけれど。
わかっている。
わかっているのに、腹が立つと、体のほうが先に動いてしまう。
我ながら、ひどく格好が悪い。
でも僕は猫だから、格好悪い以外のやり方を、あまり持っていない。
*
まりちゃんはその日の夜、食卓の端でスマホを見ていた。
ごはんのあと、いつもならソファへ行く時間なのに、今日は椅子に座ったまま、画面を見て、少し考えて、また指を動かしている。画面が点くたび、顔の気配が少しだけ変わる。困っているほどではない。緊張しているほどでもない。けれど、何かを意識している気配だ。
僕は食卓の下から見上げた。
画面の向こうに、あいつがいるのだろう。
それだけで面白くない。
まりちゃんは、送ろうとしては消し、消してはまた打ち直しているらしかった。そういう時の指の動きは少し遅い。やがて、ふっと短く息を吐いて、何かを送った。
すぐにまた画面が光る。
まりちゃんの口元が、少しだけゆるんだ。
その顔を見た瞬間、僕のしっぽは勝手に大きく揺れた。
だめだ、と思うより先に、前足が出る。食卓の縁へ飛び乗って、スマホの角をぱし、と叩いた。まりちゃんが「あっ」と声を上げる。画面は傾き、指先は変なところに触れたらしい。
「ちょっと、レイモンド!」
僕はその場で座り込んだ。何もしていません、という顔をしたつもりだったが、まりちゃんは完全にわかっている顔だった。
スマホを覗き込んだまりちゃんが、眉を寄せる。それから、困ったみたいに少し笑った。
「……最悪」
どうやら、妙なものを送ったらしい。よし、と僕は思った。少なくとも、うまくはいかなかったのだ。少しは困ればいい。
ところが次に届いた返事を見て、まりちゃんはもっと柔らかい気配をさせた。
「そうです。うちのレイモンドです、って……」
小さく読み上げる声には、照れと可笑しさが混ざっている。
僕は耳を動かした。
「かわいいですね、って何」
かわいくない。
僕はべつに、あいつにかわいいと言われたいわけではない。むしろ言うな。勝手に僕を会話のきっかけにするな。まりちゃんも、そんな顔をするな。
僕はもう一度スマホへ前足を出しかけて、やめた。これ以上やると、たぶんまた何か増える。僕はそれを、この前知ったばかりだ。
まりちゃんは僕を見下ろして、呆れたように笑った。
「もう。ほんと最近、余計なことするよね」
余計なのはあいつだ、と僕は思う。
でも僕がやったことのせいで、まりちゃんはまた画面へ向き直り、今度はさっきより迷わず返事を打った。
僕は食卓の上に残されたまま、喉の奥にうすい苦さを感じていた。
また裏目だ。
しかも、自分でもわかっていた。あの顔を見た時点で、叩けばこうなるかもしれないと、どこかで少し思っていた。それでもやったのは、困らせたかったからというより、あのやわらかい気配を一度止めたかったからだ。
止められなかった。
止められないどころか、僕が割って入ったせいで、まりちゃんはもっと自然に笑った。
情けない。
自分で余計なことをして、自分で負けている。
前足を引っ込めながら、僕はそれでも、もう一度やりたくなる自分を止められなかった。
*
お茶の日、まりちゃんは出かける前に、いつもより少し長く鏡の前に立っていた。
大げさに着飾っているわけではない。ただ仕事帰りのままではなく、一度顔を洗って、髪を整えて、薄い色のカーディガンに着替えただけだ。ほんのそれだけなのに、部屋の匂いが少し変わる。外へ出る人の匂いになる。
僕はそのカーディガンの上に座った。
わざとだ。
まりちゃんが「ちょっと」と言う。僕は動かない。目を細めて、そこが今日いちばん居心地のいい場所だという顔をする。もちろん本当ではない。僕が居心地よくしたいのは、まりちゃんの外出を邪魔することだけだ。
「どいて」
どかない。
「レイモンド」
僕は薄く鳴いた。嫌だ、という意味のつもりだった。
まりちゃんはため息をついた。
「そんなあからさまに乗る?」
乗る。
むしろあからさまに乗るために乗っている。
自分でも、みっともないと思う。カーディガンに座ったところで何が変わるわけでもない。まりちゃんは別の服を着るか、僕を持ち上げるだけだ。そんなことはわかっている。
わかっているのに、やめられない。
せめて一度くらい面倒な顔をしてほしい。せめて一回くらい、今日はやめようかな、と思ってほしい。そういう小さな望みにしがみつく自分が、ひどく猫くさくて、でもひどく情けなかった。
まりちゃんは少し困ったように笑ってから、僕の脇へ手を入れた。抱っこは嫌いだ。なのに最近の僕は、まりちゃんに持ち上げられる瞬間だけ、前ほど全力で拒まなくなっている。それも腹立たしい。
持ち上げられて床へ下ろされたあと、僕はわざとゆっくり毛づくろいをした。カーディガンにはたぶん、僕の毛が少しついただろう。それで少しでも出かけにくくなればいい。
ところがまりちゃんは、慣れた手つきでころころを転がしながら、「妬いてるの?」と笑った。
妬いている。
たぶん、そうだ。
けれど、それを認めるのは癪だった。
まりちゃんは出かけていった。ドアが閉まったあと、部屋の中は急に広くなる。静かで、つまらなくて、匂いが足りない。
僕は出窓へ上がり、外を見た。まりちゃんはもう見えない。代わりに、ぼんやりした空の色と、通り過ぎる人間の気配だけがある。
もし僕が人間なら、と思う。
その言葉は最近、前よりずっとはっきりした形で胸の中へ降りてくる。
もし僕が人間なら。
もし僕が、まりちゃんの失った誰かなら。
もし僕が、あの場所へ堂々と行ける側の生き物なら。
今ごろ僕が隣に座っていたはずなのだ。
木の匂いのするあいつではなく。
そう思った途端、四つ足の体がやけに小さく、やけに不自由に感じられた。僕にはドアは開けられない。言葉をそのまま言えない。外へ追いかけても、まりちゃんに困った顔をされるだけだ。
僕は猫だ。
それがひどく苦い。
しかも、その苦さを紛らわせるためにやった嫌がらせが、カーディガンに座ることだけなんて、あまりにもみじめだった。
もう少しましなやり方があればいいのに。
ない。
僕にはない。
*
まりちゃんが帰ってきた時、コーヒーと外気と、あいつの匂いがした。
僕は玄関までは行かなかった。行かなかったけれど、耳だけはずっと扉のほうを向いていた。鍵が回る音、ドアの開く音、靴を脱ぐ音。そのあいだに、もうひとつ別の足音が混じっていることに気づいた時、背中の毛の下がぴりっとした。
あいつもいる。
まりちゃんの後ろに。
「ありがとうございました。ここで大丈夫です」
まりちゃんが言う。
「いえ、遅かったんで」
あいつの声がする。低くて、相変わらず落ち着いていて、腹が立つ。
僕は廊下の奥から出ていった。玄関の境目で止まり、あいつを見上げる。前回よりずっと、僕はこいつをはっきり嫌っていた。匂いも声も、前より深く覚えている。それ自体がまた気に食わない。
「こんばんは、レイモンド」
あいつはそう言った。
だからその呼び方はやめろ、と僕は思う。おまえに気安く名前を呼ばれる筋合いはない。
僕はまりちゃんの足に体を擦りつけ、それから二人のあいだへ割り込むように立った。しっぽをパタンと打ち付ける。ここは僕の場所だと、そう言いたかった。
「ちょっと、危ないよ」
まりちゃんが笑う。
笑うな。
僕は本気なのに。
あいつは一歩だけ後ろへ下がった。邪魔だとか、どいてくれとか、そういう顔はしない。ただ「失礼しました」とでも言うみたいに、自然に距離を空ける。
その余裕がまた腹立たしい。
「やっぱり、まだ仲よくはしてもらえなさそうですね」
あいつが言う。
まりちゃんが、小さく笑った。
「たぶん、しばらく無理です」
その声はやわらかい。店で話す時より、少しだけやわらかい。
僕はその違いが、嫌になるほどわかった。
だから、もっと深く二人のあいだへ体をねじ込んだ。まりちゃんの脛へ頬を押しつけ、前足を片方だけあいつの靴の前へ出す。通るな、という意味だ。
我ながら情けない。
情けないのに、やめられない。
もし僕が人間なら、こんなことはしないだろうか。
もし僕が彼なら、もっとましなやり方で引き留められるだろうか。
でも今の僕にできるのは、このくらいだ。
割り込むこと。
睨むこと。
気に食わないと全身で示すこと。
まりちゃんは少し困ったように、でも楽しそうに息をついた。
「もう、ほんと感じ悪い」
その言葉は僕に向いているのに、声はなぜか優しかった。
あいつは玄関の外で、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「僕、完全に嫌われてますね」
「たぶん」
まりちゃんがそう言って、また笑う。
その笑い方が、僕は嫌だった。
あいつの前で、そんな顔をするなと思う。
僕の前でだけしてくれ、と思う。
けれどその願いは、猫の喉の奥ではうまく形にならない。ただ熱いものだけが残る。
しかも、その熱をどうしていいかわからないまま、僕はまた体を押し込んでいる。さっきと同じだ。だいたい、まりちゃんが本当に困るほど強くはできない。あいつの足に本気で爪を立てることもできない。ただ、子どもみたいに「こっちを見てくれ」とやるだけだ。
そんなこと、自分でもわかっている。
わかっていて、なおさらみじめだった。
あいつが帰って、ドアが閉まったあとも、僕はしばらく玄関の前から動けなかった。
まりちゃんがしゃがみ込んで、僕の頭を撫でる。
「そんなに嫌なの」
嫌だ。
ものすごく嫌だ。
でも僕はそれを言えない。せいぜい短く鳴くくらいだ。鳴いても、まりちゃんは「はいはい」と笑うだけだ。
僕はまりちゃんの膝に前足をかけ、それからやめた。抱かれるのは好きじゃない。なのに、今日は少しだけそうしたかった自分にも腹が立つ。
僕は猫なのに。
まりちゃんを引き止める手もない。
あいつを追い払う言葉もない。
まりちゃんの名前を、人間の声で呼ぶことさえできない。
そのくせ、胸の中だけはひどく人間くさい。
妬む。苛立つ。割り込みたくなる。あいつの「真理子さん」という声に、爪を立てたくなる。
そして、そのどれもがだいたい裏目に出る。
僕は玄関のたたきに座ったまま、自分の前足を見た。小さくて、灰色で、爪をしまえばただの猫の足だ。
こんな足で、まりちゃんを取り戻せるわけがない。
その事実が、遅れて胸の奥へ沈んでくる。
まりちゃんは何も知らずに、僕の背中をゆっくり撫でた。
「困った子だね」
困っているのは僕のほうだ、と言いたかった。
でも喉から出たのは、短い、情けない鳴き声ひとつだけだった。
あいつの靴がドアの向こうへ消えたあとも、部屋の中には木の匂いが少し残っていた。
僕はまりちゃんの足元にいたまま、それを嫌になるほど吸い込んでしまう。
こんなふうに割り込んでも、たぶん何も変わらない。
それでも僕は、次もまた何かしてしまうのだろう。
みっともなくても。
裏目に出ても。
自分で自分が情けなくても。
猫にできることなんて、そのくらいしかないのだから。




