第7話 爪あと
専用の什器が店に入ってから、売り場の景色は少しだけ整った。
入口近くの季節もののコーナーは前より高さが揃い、ブーケも鉢ものも埋もれずに見える。掃除はしやすくなり、水がこぼれても扱いやすく、移動も思ったほど大変ではなかった。見た目だけではなく、使う側の身体の動きまで考えられているのがわかると、毎日の小さな負担が確かに減る。
真理子はそれを、仕事のたびに少しずつ実感していた。
「やっぱり頼んでよかったねえ」
店長が満足そうに什器を見ながら言った。
「そうですね。前よりずっと使いやすいです」
「真理子ちゃん、最初けっこう細かく言ってたもんね」
先輩が笑う。
「言ってましたっけ」
「言ってた。掃除しやすいほうがいいとか、持ち上げるより引けるほうがいいとか」
真理子は苦笑した。自分では必要なことを言っただけのつもりだった。けれど、それをちゃんと必要なものとして受け取ってくれる相手がいると、結果として形になるのだと知った。
彼――家具職人の彼とは、その頃にはもう、仕事相手としてだいぶ話しやすくなっていた。
相変わらず地味だし、口数も多くない。真理子さん、という少しよそゆきの呼び方も変わらない。けれど、必要な話をする時に変に空気を読ませないし、約束を曖昧にしない。連絡も簡潔で、返事も必要なタイミングで来る。
それに、前に一度だけ見えたあの戸惑い――私的な話題にどこまで踏み込んでいいのかわからず、一瞬だけ言葉を置き忘れる感じ――を思い出すたび、真理子はこの人の静けさを少し違うものとして受け取るようになっていた。余裕ではなく、不器用さ。器用に人へ入っていけないからこそ、曖昧にしないのかもしれない。
そのことが、真理子にはむしろ安心だった。
ある日、閉店後に店長と三人で什器の微調整の話をしていた時、彼が持ってきた道具袋の口から木屑がこぼれた。真理子が反射的にしゃがんで拾おうとすると、彼はすぐに「すみません、自分で」と言って先に手を伸ばした。
その、何でもない動きが少し印象に残った。
謝り方が大げさではなく、でも他人の手を当然のように借りもしない。そういう人なのだと思った。
それで、家の椅子のことを口にしたのは、たぶん流れだったのだろう。
「椅子も見てもらえたりするんですか」
真理子が何気なく聞くと、彼は伝票の端にペンを当てたまま顔を上げた。
「椅子、ですか」
「家のダイニングの。ひとつだけ、ちょっと脚がぐらついてて」
「ああ」
彼は少し考える顔をした。
「写真でもわかることはありますけど、実物見たほうが早いかもしれないです」
その言葉に、真理子は一瞬だけ黙った。
家。
仕事相手を自宅に呼ぶのは、やっぱり少し躊躇う。けれど、それまでのやりとりで築かれた信頼もあったし、なにより椅子は本当に少し危なかった。座れないほどではないが、油断するとがく、と沈む感じがある。直せるものなら直したかった。
「じゃあ……都合のいい時に、お願いしてもいいですか」
そう言ってから、自分の声が少しだけ固かったことに気づく。
彼は、その固さに気づいたのかどうか、いつも通りの間で頷いた。
「はい。真理子さんが大丈夫なら」
その言い方が、真理子にはありがたかった。
来て当然、という顔をしない。遠慮しすぎて話を流しもしない。真理子が大丈夫なら、というひとことの置き方が、この人らしいと思う。
「じゃあ、また連絡します」
「はい」
それだけで話はまとまった。
まとまったあとで、真理子は少しだけ落ち着かない気持ちになった。自分の家に、彼が来る。そのこと自体に、まだ特別な意味はないはずだ。ただ壊れた椅子を見てもらうだけだ。なのに、そう言い切るには胸のどこかが少しだけ騒ぐ。
帰り道、真理子はスーパーのガラスに映った自分の顔を見て、なんでもないような顔をしているな、と思った。
なんでもない。まだ、たぶん。
*
当日、真理子は仕事から帰るとすぐに部屋を見回した。
別に誰かに見せて困るほど散らかっているわけではない。けれど、そう思うのと、実際に人を上げるのとは話が違う。ソファの上のブランケットを畳み、テーブルの端に積んでいた郵便物をまとめ、洗いかごの中のコップを片づける。レイモンドはそのあいだ、少し離れた場所からじっと見ていた。
「なに、その顔」
真理子が呟くと、レイモンドはしっぽの先だけを動かした。
最近のレイモンドは、人の気配に敏い。とくに、仕事帰りに真理子の服へついた木の匂いや乾いた布の匂いには、あからさまに不満そうな顔をするようになった。だから今日だって、何かしら察しているのかもしれない。
「椅子見てもらうだけだからね」
そう言うと、レイモンドは返事みたいに短く鳴いた。
短く、控えめで、でも不服だと言いたげな声だった。
「だから、なんでわかるの」
思わず苦笑する。
こういうところが、本当に最近おかしい。前のレイモンドは、家に誰が来ようと、少し離れたところから無関心そうに眺めているような猫だった。今は違う。真理子が誰かを待っている気配があるだけで、先に機嫌が悪くなる。
歳を取ったからなのか。化け猫化なのか。考えたところで答えはない。
インターホンが鳴ったのは、約束の時間ちょうどだった。
真理子は一度だけ深呼吸をしてからドアを開けた。
「こんばんは」
「こんばんは」
彼はいつもの作業着ではなく、もう少し普段着に近い服装だった。それでも色味は地味で、肩から下げた大きめの鞄にも飾り気はない。手には簡単な工具の入ったケースを持っていた。
「すみません、わざわざ」
「いえ。そんなに時間かからないと思います」
その言い方にも、変な含みがない。真理子は少しだけ肩の力を抜いた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
玄関に入った瞬間、部屋の奥からレイモンドが姿を見せた。
足音は静かだったのに、存在感だけが妙にある。灰色の毛並みを逆立てるほどではない。けれど目つきがあきらかによくなかった。玄関の境目のところで止まり、彼をじっと見上げている。
「あ……うちの猫です」
「レイモンド、ですか」
「はい」
「こんにちは」
彼はそう言ったが、無理に手を出したりはしなかった。レイモンドは返事をしない。代わりに、いかにも感じの悪い沈黙を返してくる。
「……珍しいんです。こんな露骨なの」
真理子が苦笑すると、彼も少しだけ口元をゆるめた。
「嫌われてるみたいですね」
「いや、そんな」
そんなことないです、と言いかけて、真理子は言葉を飲み込んだ。どう見ても嫌われている。人見知りというには、レイモンドの態度には妙に意思がある。
彼は玄関で靴をそろえ、リビングへ上がった。真理子が案内すると、彼は部屋の中をきょろきょろ見回したりせず、まず壊れた椅子のほうへ視線を向けた。その感じが、少しありがたい。
「これです」
ダイニングテーブルの脇に置かれた椅子を指すと、彼は鞄を床へ下ろし、そっと椅子を持ち上げた。脚を押し、接合部を見て、座面の裏を覗き込む。真理子はその横で、手持ち無沙汰に立っていた。
「座ると、たまにがくってなるんです」
「たぶんここですね」
彼は脚のひとつを指で示した。
「割れてるまではいってないですけど、緩んでます。一回外して接着してから入れ直したほうがよさそうです」
「直りますか」
「はい。たぶん大丈夫です」
その「たぶん」は、無責任な曖昧さではなく、見たうえでの言葉だった。真理子にはそれがわかるようになっていた。
彼は床へ膝をつき、工具のケースを開いた。大きな鞄はその脇に置かれている。レイモンドは少しずつ距離を詰めていた。低い姿勢のまま、じわじわと。真理子はその動きに気づいていたけれど、すぐに何かするとは思わなかった。
レイモンドはふだん、知らない人の前ではもう少し静かだ。
だが今日は違った。
彼が椅子へ意識を向けているほんの数秒のあいだに、レイモンドは鞄の脇へ回り込み、立ち止まり、次の瞬間には前足をかけていた。
「レイ――」
呼ぶより早く、ばり、と乾いた嫌な音がした。
真理子の背筋が一気に冷たくなる。
「ちょ、ちょっと!」
駆け寄ると、レイモンドは一仕事終えたみたいな顔で鞄から爪を離した。キャンバス地に、くっきりと白っぽい爪跡が数本走っている。縁の革の部分にも小さく傷がついていた。
「ご、ごめんなさい!」
真理子は反射的にそう言っていた。しゃがんで鞄を持ち上げ、傷を見て、余計に青くなる。
「うそ、最悪……ほんとにごめんなさい」
レイモンドは少し離れたところに座り、こちらを見ている。悪びれているようには見えない。むしろ、やってやった、と言いたげな顔に見えてしまう。
「レイモンド!」
思わず強い声が出た。レイモンドの耳がぴくりと動く。
彼は工具を持ったまま、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐには何も言わなかった。
その視線が、鞄へ落ちる。
白く残った爪跡を見て、ほんのわずかに眉が寄る。
困ったのだと、真理子にもわかった。
けれど次の瞬間には、彼はその顔をほとんど消していた。真理子のほうを見た時には、声音のほうが先に整っている。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです。全然」
「いや、本当に。使い込んでるやつなんで」
「でも傷ついてるし……」
真理子は半ば泣きそうになりながら鞄を見た。弁償、という言葉がすぐに浮かぶ。けれど、いくらくらいするのかもわからない。仕事道具を入れる鞄なら、安いわけがない気もする。
「弁償します」
口に出した途端、彼は少しだけ言葉に詰まった。
「いや、そこまでじゃないです」
「でも」
「本当に、気にしないでください」
「気にします」
真理子の声は自分でもわかるくらい強張っていた。彼はその顔を見て、それ以上すぐに押し返さなかった。そういうところが、またこの人らしい。
彼は鞄の持ち手に一度だけ指をかけ、それから離した。傷を見ないふりはしない。でも長く見つめもしない。困ったのだろう。けれど今ここでその困り方を前へ出したら、真理子がもっと追いつめられるとわかっているような、短い間だった。
「……じゃあ、ちょっと考えさせてください」
穏やかにそう言われて、真理子は逆に困った。
「考えるって……」
「今ここで大丈夫ですって言っても、真理子さんたぶん納得しないですよね」
真理子は黙った。たぶん、しない。
彼は鞄の傷をもう一度見て、それからレイモンドを見た。レイモンドは視線を逸らさない。真理子は恥ずかしさで顔が熱くなる一方だった。
「嫌われましたね、完全に」
彼が小さく言った。
その言い方が責める感じではなく、少しだけ可笑しがるようでもあって、真理子はますます申し訳なくなった。
「ほんとに、すみません……こんなこと、ふだんは」
そこまで言って、いや、最近はわりとこういう人間くさい嫌がらせをするな、と頭の片隅で思う。思ってしまうこと自体が嫌だった。
彼は立ち上がりかけていた身体をまた戻し、床の上のケースを整えながら言う。
「椅子、直してからでいいですか。鞄の話」
「……はい」
「そのほうが真理子さんも落ち着くと思うんで」
そう言って、何事もなかったみたいに椅子の修理へ戻る。
真理子はその背中を見て、少し呆然とした。こういう時、大げさに慰められるより、ずっと助かることがある。今はまさにそうだった。
彼は本当に逃げない人なのだと思う。
嫌なことが起きた時ほど、その人の性格は出る。真理子はそれを、前の恋愛で痛いほど知った。
レイモンドはといえば、少し離れたところからまだじっと様子を見ている。真理子が睨むと、何もしていませんみたいな顔でゆっくり瞬きをした。
「……あとで説教だからね」
小声で言うと、レイモンドはしっぽの先だけを一度動かした。
*
椅子は思ったより早く直った。
接合部を外して入れ直し、緩みを見て、微調整をして、床に置いて確認する。彼の手つきは終始落ち着いていた。真理子が横で何度も「すみません」と言うたびに、彼は「いや」と短く返すだけだった。
「軽く座ってみてもらっていいですか」
言われて真理子がそっと腰を下ろすと、たしかに前のようながくつきはなかった。
「あ」
「大丈夫そうですか」
「すごい……全然違います」
「よかったです、接着剤が固まったらもっと確りするはずです。」
それだけ言って、彼は工具を片づけ始めた。壊れた椅子は直る。傷ついた鞄は残る。真理子の中では、その順番のアンバランスさがまだ落ち着かなかった。
「やっぱり、鞄のこと」
切り出すと、彼は少しだけ手を止めた。
「はい」
「弁償させてください」
「同じの、もう売ってないんですよね」
あっさりそう返されて、真理子は言葉に詰まった。
「そういうの、早く言ってください」
「すみません」
謝るのはたぶん彼ではないのに、自然にそう言う。その感じが、また真理子を困らせる。
彼は少し考えてから言った。
「じゃあ、本当に気になるなら、今度お茶でも奢ってください」
真理子は目を瞬いた。
「……それでいいんですか」
「真理子さんがそれで気が済むなら」
それも、軽口みたいに聞こえるのに、実際には真理子を困らせすぎないための着地点として選んでいるのがわかった。高価な弁償を求めるでもなく、気にしないと突っぱねるでもなく、真理子が負い目を抱えたままにならないようにしている。
真理子は、なんとなく笑ってしまった。
「ずるいですね」
「そうですか」
「だって、それだと私がお茶したいみたいじゃないですか」
口にしてから、少しだけ頬が熱くなる。彼も一瞬だけ言葉を失って、それからごく短く笑った。
「じゃあ、そういうことで」
その笑い方も、やっぱり控えめだった。
真理子は小さく息を吐いて、頷いた。
「……わかりました。お茶、奢ります」
「ありがとうございます」
礼を言われるのも変な話だった。
玄関まで見送る時、レイモンドは少し離れた場所からじっと彼を見ていた。さっきみたいにあからさまな行動はしない。ただ、納得していない顔はそのままだ。
彼は靴を履いてから、最後にレイモンドへ目を向けた。
「今日は、すみませんでした」
真理子が先に言うと、彼は首を横に振る。
「大丈夫です。……次は、レイモンドにもうちょっと仲よくしてもらえると助かります」
その言葉に、真理子は思わず笑った。
「それは、ちょっと約束できないです」
「ですよね」
そんなやりとりをして、彼は帰っていった。
ドアが閉まったあと、部屋の中に急に静けさが戻る。
真理子はしばらくその場に立ったまま、胸の中に残った妙な熱を持て余していた。椅子は直った。鞄には傷がついた。お茶の約束までできた。
どう考えても、レイモンドの嫌がらせは裏目に出ている。
「……ほんと、なにしてくれてんの」
振り返ると、レイモンドは少し離れたところで座っていた。叱られる気配はわかっているらしいのに、どこか不服そうな顔だ。
「カバンで爪とぎなんて、最低」
しゃがんで言うと、レイモンドは目を逸らした。
その反応が、妙に人間くさい。真理子は怒っているはずなのに、ほんの少しだけ笑いそうになった。
「……でも、なんであんなことしたの」
もちろん答えは返ってこない。
レイモンドはただ、真理子の膝に顔を寄せるでもなく、でも遠くへ逃げるでもなく、その場でじっとしている。
真理子はため息をついて、その頭を軽く撫でた。
「次はだめだからね」
そう言うと、レイモンドは小さく鳴いた。
返事みたいなその声に、真理子はまた苦笑する。
お茶を奢る、という約束は、ほんの小さなことのはずだった。なのに、ただの弁償の代わり以上の意味を持ってしまった気がする。
嫌なことがあったのに、嫌な終わり方をしなかったからだろうか。
真理子は玄関のドアに手をついたまま、しばらく動かなかった。
レイモンドの爪あとが、どうしてこんなふうに話を先へ進めてしまうのか、まだちゃんとわからないままだった。
*
その夜、レイモンドが寝床で丸くなったあと、真理子は食卓の端に座ってスマホを開いた。
開いて、閉じる。
また開いて、トーク画面を見つめる。
何を送るのが自然なのか、少し考えた。今日はありがとうございました、だけでいい気もする。けれど、それだけではなんだか足りない。お茶の約束をそのまま冗談にしたくない気持ちもあった。
真理子はゆっくり指を動かした。
『今日は本当にありがとうございました。鞄のこと、改めてすみませんでした。お茶の件、ほんとうにお願いします』
打ち終わってから、送信ボタンの上で指が止まる。
送れば、少しだけ先へ進む。
それが、わかる。
真理子は一度だけ息を吸って、押した。
送ったあとで、胸の奥が少し熱くなる。大した文章ではない。ただの礼と確認だ。なのに、自分から送ったという事実だけが、思ったより静かに残る。
すぐに既読がついた。
それだけで心臓が変に跳ねる。
返事は短かった。
『こちらこそ、ありがとうございました。お茶、逃げません』
真理子は思わず笑った。
そのあと、少し遅れてもう一通届く。
『レイモンドにも、また嫌われないようにします』
「また来る気なんだ」
声に出してから、自分で少し驚く。嫌ではなかった。
視線を感じて顔を上げると、食卓の下からレイモンドがこちらを見ていた。
暗いところから、じっと。
まるで、何を送ったのかまで知っているみたいな顔だった。
真理子はスマホを伏せた。
「……違うからね」
何が違うのか、自分でもうまく説明できないまま言う。
レイモンドは目を細めただけで、納得したようには見えなかった。
真理子はその視線から逃げるように立ち上がった。たぶんまだ、なんでもない。けれど、なんでもないままでいるには、自分で送った一通のことを意識しすぎていた。




