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『吾輩は猫なのか?』  作者: 根古野 雀句


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第6話 やさしい人

 花屋の朝は、忙しい日ほど静かに始まる。


 開店前の店内では、誰もまだ大きな声を出さない。バケツの水を替える音。花ばさみが茎を切る、湿った短い音。段ボールを開ける時の紙の擦れる音。そういう細かな音が少しずつ重なって、一日が始まっていく。


 その日、真理子は店の奥に積まれた木箱を持ち上げていた。切り花の足元に使っている箱のひとつで、底板が少し浮いてしまっている。見た目にはそれほどわからないけれど、重い鉢ものを乗せるとぐらついて危ない。花は軽そうに見えて、まとまると案外重い。木箱の不調は、そのまま売り場の不安定さになる。


「真理子ちゃん、それ奥に避けといて。午後、修理の人来るから」


 店長に言われて、真理子は「はーい」と返事をした。


 修理の人、という言い方がすでにあまり華やかではなくて、少しだけ可笑しかった。


 午後になって客足がひと段落した頃、その人は来た。


 作業着の色は地味な紺で、靴もよく使い込まれていた。背は高すぎず低すぎず、顔立ちも驚くほど普通で、ぱっと見て記憶に残る派手さがない。けれど、店に入ってきた時にきちんと会釈をして、店長の説明を最後まで聞き、問題の木箱を持ち上げて裏返す手つきだけが妙に丁寧だった。


「このへんですね」


 箱の裏を指先で押しながら、彼はそう言った。声も地味だった。無愛想ではないが、愛想がいいわけでもない。必要なことだけを、余計な飾りをつけずに話す声。


「真理子ちゃん、伝票お願い」


 店長に呼ばれて、真理子はカウンターの奥から伝票を持っていった。


「こちらです」


 差し出すと、彼は一度だけ真理子を見た。それから、ほんの少し間を置いて言う。


「真理子さん、この箱、前と同じ寸法で追加もできますかって聞いてます」


 真理子は一瞬だけ目を上げた。


 真理子さん。


 店長がさっきから真理子ちゃんと呼んでいるから、名前だけはわかったのだろう。苗字は知らない。でも、いきなり真理子ちゃんと呼ぶほど馴れ馴れしくもない。だから、その中間みたいな呼び方になったのかもしれない。


 少しだけよそゆきで、少しだけくすぐったい。


「はい、同じのが使いやすくて」


「わかりました。一応、念のため測ります」


 そう言って、彼はまた木箱へ視線を落とした。


 真理子はその横顔を見ながら、悪い人ではなさそうだな、と思った。けれど、それ以上の印象は特になかった。派手さがない。話し上手でもない。こちらの緊張をほどくような魅力があるわけでもない。


 悪い人じゃないけど、印象に残らない人。


 頭の中にそんな言葉が浮かぶ。


 彼は木箱をひとつずつ確認し、壊れている箇所を押し、板の反りを見ていた。説明は簡潔だった。


「これは締め直せます」

「こっちは底板、替えたほうが早いです」

「棚のがたつきも見ます」


 できます、できません、こっちが早いです。


 判断が早い。わからないところを曖昧に笑って濁したりしない。


 真理子はそれを少し意外に思った。前に別の業者へ什器の相談をした時は、「見積り出しますね」と言ったきり返事が遅れ、「ちょっと立て込んでまして」と何度も話を先送りにされた。そういうやりとりは珍しくないし、いちいち腹を立てるほどでもない。けれど、疲れるのは疲れる。


「棚、今日見てもらえるんですか」


 つい口にすると、彼は顔を上げた。


「見ます。直せるところまでなら今日やります。時間足りなかったら、足りなかったって言います」


 真理子は少しだけ笑った。


「正直ですね」


「曖昧にしても、困らせるだけなんで」


 それも、格好つけた言い方ではなかった。ただ、本当にそう思っている人の口ぶりだった。


 その日、店が閉まる頃には、木箱のぐらつきは直り、棚の歪みもだいぶましになっていた。彼は作業のあとをきれいに片づけて、木くずを集め、店長へ必要な説明だけをして帰ろうとした。


 けれどその時、店長が売り場の一角を見回しながら言った。


「せっかくだし、今度この辺まとめて作り直せないかな。既製品の箱だと、どうにも花の高さが揃わなくて」


 真理子も思わずそちらを見た。入口近くのスペースは、季節ものを目立たせたい場所なのに、置いてある木箱の高さや幅が微妙にばらばらで、前から少し気になっていた。


「専用で、ですか」


 彼は売り場を見たあと、木箱の並びを見た。


「はい。あんまり大げさじゃなくていいんだけど、鉢も切り花も置けて、動かしやすいのが欲しくて」


 店長がそう言うと、彼は少し考えてから頷いた。


「寸法ちゃんと見れば作れます。水こぼれる前提のほうがいいですよね」


 真理子はそこで少し驚いた。まだ何も細かく言っていないのに、そういう前提から入るのかと思った。


「濡れます。かなり」

「じゃあ、その前提で考えます」


 それだけで話が通じる感じが、妙に楽だった。


     *


 それから、新しい什器の相談が始まった。


 大きすぎると店内で動かしづらい。低すぎると花が埋もれる。高すぎると水替えがしにくい。見た目だけ整っていても、毎日使う側が疲れるものは困る。


 真理子は店長の横で、自分でも思っていたよりいろいろ口を出した。


「この高さだと、ブーケ並べた時に埋もれるかもです」

「ここ、掃除しやすいほうがいいです」

「持ち上げるより、少し引けるほうが助かります」


 彼はそのたびに曖昧に頷かず、一度考えてから答えた。


「じゃあ脚を少し入れます」

「掃除しやすいなら下抜けたほうがいいですね」

「重くなりすぎないようにします」


 そのやりとりが増えるにつれて、真理子は少しずつこの人の輪郭を見ていった。


 考えてから答えること。

 わからないことを、わからないまま受けないこと。

 やると言ったことを、ちゃんとやること。


 地味だな、と思う。


 でも、地味なまま信頼できる人は案外少ない。


 数日後、簡単な図面と木のサンプルを持って彼が来た。店長が別の対応に入ってしまい、真理子が代わりに説明を聞くことになった。


「この木だと軽いです。こっちは少し重いけど、傷は目立ちにくいです」


 彼はそう言って板を差し出した。真理子は指先で木肌をなぞる。ざらつきがない。角もちゃんと取ってある。


「すごいですね」


 思わず言うと、彼は少しだけ困ったような顔をした。


「いや、仕事なんで」


「でも、こういうのって、使う人のこと考えてないとできないじゃないですか」


 彼は一瞬黙って、それからごく短く笑った。


「考えないと、あとで怒られるんで」


 真理子は吹き出した。


 その笑い方も、やっぱり派手ではなかった。けれど変に自分をよく見せようとしていないぶん、疲れなかった。


 説明がひと段落して、店長が奥へ引っ込んだあと、二人のあいだに少しだけ手持ちぶさたな沈黙が落ちた。


 真理子は板を持ったまま、何となく聞いた。


「休みの日も、こういうのしてるんですか」


 彼は目を上げた。質問自体に驚いたというより、答え方を測りかねたみたいな顔だった。


「……木、触ってることが多いです」


「ずっと?」


「ずっと、というか」


 そこで言葉が切れる。


 べつに隠すような話ではないのに、どこまで話せばいいのかわからない人の間があった。


「手を止めると、逆に落ち着かないので」


 言ってから、彼は少しだけ視線を逸らした。私的なことを言いすぎたのか、それとも言葉が足りなすぎたのか、自分でも判断しかねているみたいだった。


 真理子は何か返そうとして、少し遅れた。


「あ……そうなんですね」


 それだけ言うのがやっとだった。


 彼はそのまま木のサンプルを揃え直し、次の説明へ移った。会話は途切れたまま、元に戻る。


 真理子は板の端を指でなぞりながら、ほんの一瞬だけ、あれ、と思った。


 もしかして余計なことを聞いたのだろうか。

 この人は、そういう私的な話をされたくなかったのかもしれない。

 あるいは、自分に興味がないから、そこで会話が終わるだけなのかもしれない。


 そう考えるには短すぎる沈黙だった。短すぎるのに、妙に残った。


 彼は別に感じが悪いわけではない。ただ、線の引き方がわかりにくいのだと真理子は思った。どこまで入っていいのか、自分でも決めきれないまま、必要なところだけ渡して、それ以上を急に閉じる。


 それが少しだけ、不器用に見えた。


     *


 閉店後、伝票の確認をしていた時、真理子は何気なく手首を揉んだ。鉢ものの移動が多い日で、地味に腕が疲れていたのだ。


「重かったですか」


 彼がそう聞いた。


「ちょっとだけ」


「見た目より体力いりますよね、花屋さん」


 花屋さん、という言い方に少しだけ可笑しみがあって、真理子は笑った。


「いりますね。花って軽そうに見えるんですけど、まとまると普通に重いです」


「木も同じです」


 彼はそう言って、少しだけ口元をゆるめた。あまり派手ではない、短い笑い方だった。


 それから、ほんの少し迷うみたいに間を置いて続けた。


「さっき、変な返し方してすみません」


 真理子は瞬きをした。


「え?」


「休みの日の話。ああいうの、うまく話せなくて」


 彼は伝票に目を落としたまま言った。こちらを見て言えばいいのに、と少し思う。けれど、見ないで言うほうがこの人には言いやすいのかもしれない。


「別に、気にしてないです」


「いや」


 彼はそこで少しだけ困ったように息を吐いた。


「気を遣わせたなら、たぶん自分の言い方が足りなかったです」


 真理子はそこで初めて、この人は落ち着いているのではなく、踏み込み方がよくわからない側の人なのかもしれない、と思った。


 無理に話を広げないのは余裕があるからではなく、どこまで行っていいのか測りきれないからかもしれない。切ったつもりの会話が相手にどう聞こえたかも、あとから考えてしまう人なのかもしれない。


「……べつに、嫌な感じじゃなかったです」


 そう言うと、彼はようやく少しだけ顔を上げた。


「ほんとですか」


「ただ、そこで終わるんだって、ちょっと思っただけで」


 言ってから、真理子は少しだけ言いすぎたかと思った。けれど彼は気を悪くしたふうではなく、むしろ少し困って、それから短く笑った。


「終わらせるつもりはなかったんですけど」


「はい」


「……終わってましたね」


 真理子は吹き出した。


 その返し方が、妙に正直だった。


 格好よくはない。会話が上手いわけでもない。でも、ずれたことがあった時に、なかったことにしないで戻ってくる。そこがこの人のやさしさなのかもしれないと、真理子は思った。


 その瞬間、真理子は初めて、この人となら世間話ができるのかもしれないと思った。


 大げさに盛り上がる相手ではない。気の利いた冗談もない。けれど、無理に話を広げようとしないぶん、沈黙が苦にならない。言葉が足りなかった時には、あとからでも拾いに来る。


 それもやはり、真理子には疲れにくかった。


     *


 元彼と一緒にいた頃、楽しいことはたくさんあった。


 笑うことも多かったし、ふいに遠くまで出かけたり、くだらないものを一緒に買って帰ったりする時間は嫌いではなかった。気まぐれで、危うくて、でもその時その時はたしかに楽しかった。


 けれど、楽しいことと同じくらい、気を張ることも多かった。


 どこまで本気で聞けばいいのか。

 どの約束が本当に約束なのか。

 昨日の言葉と今日の言葉の、どちらを信じればいいのか。


 その場の空気で形が変わるものが、彼とのあいだには多かった。


 この人には、それがない。


 面白みに欠ける、と言ってしまえばそうなのかもしれない。けれど、何を言われても身構えなくていい感じがある。言葉を裏読みしなくていい。返事の期限を勝手に引き延ばされない。


 真理子はそういうことを、思っていたよりずっとありがたいと感じていたらしい。


 店の裏で一人になった時、ふとそんなことを考えて、自分で少し驚いた。


 恋ではない。


 少なくとも、まだそういうものではない。


 ただ、この人と話していると妙に落ち着く。それだけだった。それだけなのに、いまの真理子には十分すぎるほど大きなことだった。


 それに、さっきみたいな小さな不器用さがあったことで、かえって少し安心もした。


 最初から何もかも上手に返されていたら、真理子のほうが疲れていただろう。言葉を選びすぎてしまう相手には、こちらまで正解みたいな会話を探さなければならない。


 この人は、そこまで器用ではない。


 そのかわり、雑にはしない。


 真理子はその違いを、思ったよりちゃんと感じ取っていた。


     *


 家へ帰ると、レイモンドがいつもの場所から真理子を見た。


「ただいま」


 声をかけると、レイモンドは一度だけしっぽを動かした。


 最近は仕事帰りに、あの人の匂いが少し混ざる日がある。木の匂い。乾いた布の匂い。真理子自身は気づかないくらいのかすかなものだろうに、レイモンドはそういう日、いつもより少しだけ鼻をひくつかせる。


「なに、その顔」


 問いかけると、レイモンドは黙っていた。だが、その無言の中に「気に入らない」が含まれている気がするから困る。


 真理子は苦笑しながら、買ってきた牛乳を冷蔵庫へしまった。


 花屋の仕事は、見た目よりずっと地に足がついている。水を替える。重いものを持つ。傷んだところを落とす。毎日少しずつ悪くなるものを、少しでもましな形で持たせる。そういう手の仕事だ。


 たぶん、あの人の仕事も似ている。


 ぐらつく箱を締め直す。歪んだ棚を整える。使う人の動きを考えて木を切る。壊れかけたものを、もう少し長く使える形へ戻す。


 派手ではない。

 目立ちもしない。

 でも、なくなると困る。


 そういう種類のやさしさがあるのだと、真理子はぼんやり思った。


 やさしい人、なのかもしれない。


 少しだけ。

 派手なやさしさではなくて、逃げないほうのやさしさ。


 それは、まだ恋と呼ぶには静かすぎた。


 けれど少なくとも、真理子の中の何かを、前より少しだけ楽にしていた。

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