第5話 僕の中の彼
まりちゃんを少し楽にするやり方を、僕はなぜか知っている。
それは、考えて覚えたものではない。
誰かに教わったわけでもないし、何度も試して身につけたわけでもない。ただ、気づけば体のほうが先に選んでしまうのだ。近づくなら今だ、とか、今はまだ行かないほうがいい、とか、触れるなら肩より手の近くがいい、とか、そういうことを。
猫のくせに、と思う。
思って、それで自分が少し嫌になる。
朝、まりちゃんが仕事へ行ったあと、僕は出窓で丸くなっていた。春になりきらない日差しはまだ少し頼りなくて、毛の表面だけをあたためる。昔の僕なら、それで十分だったはずだ。日向があって、水があって、腹が減れば皿の前へ行く。そういう単純なことで一日ができていた気がする。
でも最近は違う。
日向の中にいても、頭の奥が静かにならないことがある。
昨日のまりちゃんの声とか、一昨日のため息とか、そういうものが残る。柔らかかったか、重かったか、どのくらいの長さだったか。別に覚えていたいわけじゃないのに、勝手に残る。
僕は前から、こんなふうだっただろうか。
わからない。
わからない、というのがいちばん気味が悪い。
昔のことを思い返そうとすると、景色はある。高い場所。日のあたる床。水の匂い。冬の毛布。まりちゃんの声。そういうものはあるのに、その中に今みたいな“僕”がいたかどうかが、はっきりしない。
最近になって、僕の中には僕がいる。
それはとても変な言い方だけれど、いちばん近い。前からレイモンドではあったのだろう。灰色の毛で、抱っこが好きじゃなくて、あまり鳴かなくて、まりちゃんの部屋の中で好き勝手に眠る猫。それはたぶんずっと同じだ。
でも、その猫の中に、最近になって目を覚ました何かがいる。
それが僕だ。
僕は言葉の意味がわかるようになった。まりちゃんの言うことも、テレビの中のくだらない声も、半分くらいはわかる。けれど僕にとって先に入ってくるのは、やっぱり気配とか、気配、匂い、声の湿り気とか、肌の温度とか、そういうものだ。
まりちゃんが「大丈夫」と言う時、本当に大丈夫かどうかは、言葉のあとに来る気配でわかる。
そういうことも、僕は知っている。
知りすぎている。
昨日の夜だってそうだった。
まりちゃんはソファに座って、テレビを見ているふりをしていた。笑うところで少し遅れて笑い、つまらないところでは長く黙る。僕は隣にいた。最初からそこへ行こうと決めていたわけじゃない。けれど、あのくらいの距離がいちばんいいと、体が先に知っていた。
ぴたりとくっつきすぎると、まりちゃんは身じろぎする。
離れすぎると、寂しい気配が少し濃くなる。
だから腕がかすかに触れるくらいがいい。
そんなことを、どうして僕が知っているのだろう。
それに、仕事で失敗した夜のまりちゃんには、すぐに行ってはいけないことも知っていた。ああいう時のまりちゃんは、最初はひとりで黙る。まだ泣いていなくて、まだ怒ってもいなくて、ただ自分の中へ沈んでいる時は、すぐ横に行くと少しだけ固くなる。
だから僕は待った。
あれも、どうしてわかるのか知らない。
ただ、待って、それから近づいて、腕の内側へ頭を押しつけたら、その日のまりちゃんにはちょうどよかった。
ちょうどよかった、ということまでわかってしまう。
僕が頭を押しつけた時、まりちゃんの呼吸は少しだけ深くなった。声の端に入っていた硬いものも、少しだけ溶けた。そういう変化を、僕はすぐに感じる。
感じて、安心する。
まるで僕は、そのためにそこにいるみたいだ。
変だ。
猫のすることじゃない。
少なくとも、前の僕はこんなふうではなかった気がする。もっと無関心だった。ごはんと、眠る場所と、気が向いた時だけ撫でられれば、それで足りていた。抱っこなんて冗談じゃないし、鳴いてまで何かを伝えようとも思わなかった。
でも最近の僕は違う。
まりちゃんが立てる小さな音の違いに反応する。
眠れない夜には、寝室の外まで追いかけて行く。
足元にいたほうがいい時と、ソファの隣のほうがいい時の違いまで知っている。
まるで、そういうことに慣れたことのある生き物みたいだ。
猫ではない何か。
その考えが浮かぶたび、背中の毛の奥がぞわりとする。
僕は出窓の上で一度だけ大きく伸びをして、それから前足を舐めた。舐めながらも、考えるのをやめられない。
僕は前は何だったのだろう。
その問いは、最初はもっとぼんやりしていた。ただ、最近になって考えすぎるようになったとか、妙に言葉がわかるとか、その程度の違和感だった。けれど今はもう少し形がある。
もし僕が、もともと猫ではなかったのだとしたら。
もし、最近目を覚ましたこの“僕”が、前は別の何かだったのだとしたら。
人間。
その言葉は、しっくり来るようで来ない。けれど、いちばん近い気もする。
人間だったなら、あの人間くさい作法にも説明がつく。距離の取り方。待つ間。急かさないこと。言葉の意味より先に、言わなかったことまで聞こうとしてしまう癖。
そういうのは、猫のやることではない。
まりちゃんが言うみたいに、僕は最近少ししゃべるようにもなったらしい。自分ではただ声が出ているだけのつもりなのに、前よりずっと、鳴き声に意味を乗せようとしている感じがある。
ここだ、とか。
違う、とか。
眠れないの、とか。
大丈夫、とか。
そんなものが、喉の奥に引っかかっている。
知っていることが増えるほど、まりちゃんの役に立てている気もする。
でも、そのたびに同じだけ、自分が何なのかわからなくなる。
それが嫌だった。
まりちゃんを少しでも楽にできるなら、それでいいはずなのに。
実際、少し楽になった気配を感じると、僕は嬉しい。
嬉しいのに、その嬉しさのすぐ横で、こんなふうに知ってしまう自分が少し薄気味悪い。
役に立っていることと、正体がわからないことが、僕の中では同じ場所にある。
それがどうにも落ち着かない。
今日も、まりちゃんが帰ってきた時、僕は玄関までは行かなかったくせに、鍵の音がしてからずっと耳を澄ませていた。ドアが開くまでの数秒が、やけに長い。帰ってきた気配がして、やっと息がしやすくなる。
それを迎えに行かないのは、猫としての意地みたいなものかもしれない。
でも、本当は少し待っていた。
まりちゃんが部屋へ入ってきて、靴を脱いで、小さく「ただいま」と言った時、僕は出窓の上からその声を聞いた。
疲れている。でも、昨日ほど重くはない。
僕はそのくらいまで、もうわかってしまう。
「レイモンド」
名前を呼ばれる。
僕はしっぽだけ動かした。まりちゃんはそれを見て、小さく笑った。その笑い方が好きだと思う。好きだと思うことにも、もう驚かない。
まりちゃんは買ってきたものをキッチンへ置き、しばらくしてソファに座った。僕は少し待ってから、そこへ行った。今日は足元ではなく隣だ。テレビはついていない。だから余計に、まりちゃんの沈黙がわかる。
手を伸ばせば触れられる場所に座る。
それだけで、まりちゃんの肩の力が少し落ちた。
「……今日も来るんだ」
その声は、少しだけ笑っている。
僕は目を細めて、座り直した。まりちゃんの腕が、僕の背中に軽く触れる。触れられたところから、あたたかい。悪くない。前の僕なら、こういう時は少し離れたかもしれない。けれど今の僕は、それをよしとしている。
まりちゃんはしばらく黙っていた。僕も黙っていた。沈黙は重すぎなかった。たぶん今日は、喋らないでいい日なのだろう。そういうことまで、僕は考える前にわかってしまう。
まただ、と思う。
また、ちょうどいいほうを選んでいる。
そのことが、ほんの気になる。
まりちゃんを楽にするやり方を知っている。
その知り方が、自分でもよくわからない。
わからないのに、やめられない。
やめられないのは、たぶん、やめたくないからだ。
まりちゃんが息を吐くたび、その長さを数えるみたいに僕の耳は動く。長すぎなければいい。沈みすぎていなければいい。そう思っている自分がいる。
猫がそんなことを思うだろうか。
いや、思わない気がする。
思わないはずなのに、僕はそう思ってしまう。
思ってしまうことが、もう僕には止められない。
まりちゃんが、ふと僕の頭を撫でた。
「ほんと最近、わかりすぎ」
その言葉に、僕の耳が少しだけ動いた。
わかりすぎ。
まりちゃんは笑って言っただけだ。深い意味なんてないのだろう。けれど、その通りだった。僕はわかりすぎている。そしてそれは、誇らしいことではなく、少しだけ恐ろしいことのように思えた。
もし僕が本当に元人間なら。
もし僕が、まりちゃんの失った誰かと関係のある何かなら。
だからこんなふうに知ってしまうのだとしたら。
その考えは、前よりずっと自然に胸へ入ってくる。
入りながら、同時に嫌だった。
まりちゃんを助けたい。
その気持ちはたしかに僕のものだ。
でも、その助け方の中に、僕ではない誰かの形が混ざっているのだとしたら。
それは、なんだかずるい気がした。
まりちゃんは知らない。僕も知らない。知らないまま、僕だけがうまくまりちゃんの隣へ座って、ちょうどいい時に寄って、ちょうどいい時に待っている。
それで助かっているのなら、いいはずなのに。
助かっている気配を感じると、僕はたしかに嬉しいのに。
その嬉しさの中に、少しだけ後ろ暗いものが混ざる。
この知り方は、ほんとうに僕のものなのだろうか。
まりちゃんはソファの背にもたれて、目を閉じた。今日はたぶん、このまま少し眠る。僕にはそれがわかる。呼吸がゆっくりになる前の、ほんの少し手前の気配と温度を、もう覚えてしまっているからだ。
僕はその場を動かなかった。
動かないほうがいいと知っていた。
知っていることに、また少しだけ嫌になる。
でも、動いてしまってまりちゃんが起きるのはもっと嫌だった。
結局僕は、知っているほうを選ぶ。
まりちゃんが少し楽になるほうを、いつも選んでしまう。
それが僕なのか、僕ではない何かなのか。
猫なのか、元人間なのか。
僕には、まだわからない。
ただひとつだけ確かなのは、まりちゃんが長い息を吐く夜に、僕はひとりで出窓には戻れないということだった。
そのことが、いちばん猫らしくなくて、いちばん僕らしい気もしていた。




