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『吾輩は猫なのか?』  作者: 根古野 雀句


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第4話 真理子の部屋で

 ペアグラスを割った夜のことを、真理子はその後も何度か思い出した。


 床に散った破片の光り方や、自分の声のきつさより先に思い出すのは、レイモンドの気配だった。逃げもせず、近づきすぎもせず、けれど確かにそばにいてくれた灰色の塊。あんなふうに慰められたのは初めてではなかった気もするのに、レイモンドがああいうことをする猫だったかと聞かれると、自信がない。


 もともとレイモンドは、お利口ではあるけれど愛想のいい猫ではなかった。


 抱っこは苦手。自分から膝に乗ってくるようなこともない。鳴いて何かを訴えるより、黙ってこちらを見るだけの猫だった。レイモンドしか猫を飼ったことがないから、そういうものなのだろうと思っていたし、不満もなかった。むしろ、どこか人間に無関心なくらいの距離感が、いかにも猫らしいと思っていた。


 なのに最近、レイモンドは前よりずっと真理子に関わってくる。


 歳のせいなのかもしれない、と真理子は何度も考えた。老猫になると甘えんぼうになるのだろうか。あるいは昔話にあるみたいに、長く生きた猫は少しずつ人間くさくなっていくものなのかもしれない。化け猫、という言葉を本気で信じているわけではないけれど、そうでも思わないと説明のつかない変化が、レイモンドには増えていた。


 たとえば、ソファの座り方だ。


 夜、夕飯を食べ終えて、どうでもいいバラエティ番組をつけていると、真理子はたいてい左の端へ少し体を流して座る。前はその足元でレイモンドが丸くなるだけだったのに、最近は違う。真理子が落ち着いた頃合いを見計らったみたいに、ひょい、と隣へ上がってきて、ぴたりと太ももの横へ体をくっつけるようになった。


 膝の上には乗らない。抱っこされるのはやっぱり嫌いらしい。けれど、腕が触れればすぐわかるくらいの距離には来る。真理子が少しでも体勢を変えると、そのぶんだけ自分もずれて、また同じ距離を保つ。


「なに、その座り方」


 笑って言うと、レイモンドはちらりと真理子を見るだけで、動かない。


 テレビの中では、芸人が大げさなリアクションをしていた。真理子はあまり真面目に見ていなかったが、レイモンドは妙に真剣な顔で画面を見ているように見えた。猫がテレビなんて理解するはずがない、と頭ではわかっている。それでも、ツッコミのタイミングみたいなところで耳を動かしたり、真理子が思わず吹き出した瞬間にこちらを見たりする。


「もしかして、わかってる?」


 そう聞くと、レイモンドは短く鳴いた。


 前のレイモンドなら、そんなふうに返事みたいな鳴き方はしなかった。


 真理子は笑いながら、その背を撫でた。撫でると、ひなたで干した布団みたいな、少し香ばしい匂いが立つ。レイモンドは目を細める。でも喉を大げさに鳴らしたりはしない。あくまで控えめなのに、前よりずっと、ここにいたいという意志が伝わってくる。


 変な猫だ、と真理子は思う。


 変なのに、以前より愛おしい。


 そのことが、少し不思議だった。


 昔なら、猫の気まぐれだと思って流していたようなことが、今はそう思いきれない。ただの甘え方の変化にしては、タイミングがよすぎる。距離の取り方が、妙に人間くさい。助けられている、と感じることが増えるたびに、どうしてこの子はこんなにわかるのだろう、と考えてしまう。


 けれど、その不思議さは嫌ではなかった。


 むしろ、そういうところごと大事になっていくのが、自分でも少し困るくらいだった。


     *


 その週、真理子は仕事で小さな失敗をした。


 大きな事故ではなかった。予約の花束の色味を、一束だけ取り違えたのだ。すぐに気づいて作り直したし、客にも迷惑はかけていない。店長にも「次から気をつけて」と言われただけだった。


 でも真理子は、そういう小さな失敗を長く引きずる。


 花の色をひとつ間違えるだけで、受け取る人の気持ちまでずれる気がしてしまう。勝手に自分で重くして、勝手に落ち込む。悪い癖だとはわかっている。


 帰宅しても気分は晴れなかった。エプロンを外し、手を洗いながら、何度も昼の場面を思い返す。あの時ちゃんと確認していれば、と思うたびに、胃のあたりが少し冷える。


 真理子はソファに座って、そのまましばらく動けなかった。


 テレビもつけない。スマホも見ない。ただ疲れて、ぼんやりしていた。


 レイモンドは最初、少し離れた場所にいた。キャットタワーの下で香箱を組み、真理子の様子を見ている。真理子が何も言わずに黙っている時間が長い時、あの猫は案外すぐには来ない。前は気まぐれだと思っていたが、最近は違う気がする。泣いていない時や、ひとりで考えたい時は、ほんの少しだけ距離を置く。そういう見計らい方が、妙に人間くさい。


 数分して、レイモンドはようやく立ち上がった。


 ゆっくり歩いてきて、真理子の足元ではなく、今日はソファの上に直接上がった。それからいつもみたいにぴたりと横へつくのではなく、一度だけ真理子の顔を見た。見て、それから真理子の腕の内側へ頭を押しつける。


 真理子は小さく息を呑んだ。


「……なに」


 問いかけても、レイモンドは答えない。ただ、そこへ頭を置いたままじっとしている。甘え方としては不器用で、でも妙に正確だった。慰められている、と真理子は思った。猫にそんなことができるのかと、自分でも少し可笑しかった。


「失敗しただけなのにね」


 誰に言うでもなく呟くと、レイモンドの耳がぴくりと動いた。


「大したことないのに、ずっと考えちゃう」


 今度は小さな鳴き声が返ってくる。


 それは会話ではない。わかっている。けれどタイミングが良すぎて、相槌みたいに聞こえてしまう。


 真理子は笑ってしまった。笑って、そのまま少し泣きそうになった。


「……ほんと、あなた最近どうしたの」


 レイモンドは顔を上げ、真理子の頬のあたりをじっと見た。前にもこういう目をされた気がする。泣きそうな時、泣いた時、黙っていたい時。そのたびに一番ちょうどいい場所へいる。


 まるで、人間の男の人みたいだ。


 そんな考えが、ふいに浮かぶ。


 もちろんすぐに打ち消した。ばかばかしい。猫は猫だ。年を取って甘え方が変わっただけかもしれない。化け猫じみてきたのかもしれないけれど、だからといって本当に人になるわけじゃない。


 それでも、その夜のレイモンドの寄り添い方は、真理子の失敗を「大したことない」と軽く切り捨てるでもなく、「つらかったね」と言葉にするでもなく、ただ自然に気持ちをほどいていくようなやり方だった。


 そんなこと、前のレイモンドはしなかった。


 助かる、と思う。


 そう思うたびに、同時に少しだけ胸がきゅっとする。


 この子は猫なのに。

 ただ撫でれば目を細めて、ごはんの皿を見て、水を飲んで、日向で眠るだけの生きもののはずなのに。


 どうしてこんなふうに、真理子の落ち込み方に合わせるみたいなことができるのだろう。


 不思議だ、と真理子は思う。


 不思議で、ありがたくて、だから余計に大事になる。


     *


 眠れない夜が増えたのは、彼がいなくなってからだ。


 もともと寝つきが極端に悪いほうではない。働いていれば疲れるし、花屋の仕事は見た目よりずっと体力を使う。だから普段なら布団に入ってしまえば、わりとすぐに眠れる。


 でも、ときどき駄目な夜がある。


 頭の中で、考えなくていいことばかり回り始める。もしあの時もっと言い方を選んでいたら、とか。本当に事故だったらどうしよう、とか。もうとっくに別れているのに、自分だけが勝手に取り残されているのではないか、とか。


 そんな夜、真理子は何度か寝返りを打って、諦めて起きる。


 リビングへ行き、電気もつけずに水を飲む。窓の外の色が深いままで、世界がまだ誰のものでもないみたいに静かだ。


 その夜もそうだった。


 真理子はマグカップに白湯を入れ、ソファに座った。暗い部屋でぼんやりしていると、自分の呼吸だけがやけに大きい。こういう時、前はレイモンドも寝室で寝たままだった。朝になってから何食わぬ顔で出てくるだけだった。


 けれど最近は、違う。


 しばらくすると、寝室のほうから静かな足音がした。


「……やっぱり起きるんだ」


 真理子が苦笑すると、レイモンドは当然のようにソファへ飛び乗った。飛び乗る音も控えめで、何度もしてきたことのように迷いがない。


 それから真理子の足に沿うように体を丸める。


 真理子は白湯の湯気越しに、レイモンドの横顔を見た。灰色の毛並みは夜の薄明かりの中で少し青く見えた。瞼は半分閉じているのに、眠ってはいない。こちらがまた動けば、すぐ気づく感じがある。


「見張ってるの?」


 そう聞くと、レイモンドは小さく鳴いた。


 返事、みたいだと思う。


 その発想自体がおかしいとわかっていても、そう思ってしまう。


 真理子はカップをテーブルに置いて、レイモンドの背をそっと撫でた。香ばしい日向みたいな匂いが、少しだけ濃くなる。撫でられるのは前から嫌いではなかった。でも、自分からこうして夜中に来ることなんて、昔はなかった。


「歳取ると、こうなるのかなあ」


 誰に聞くでもなく呟く。


 甘えん坊になるとか。眠りが浅くなるとか。飼い主の気配をやたら気にするとか。猫を飼うのがレイモンドしかいない真理子には、それが年老いた猫として普通なのかどうかもよくわからない。


 わからないけれど、たまに思う。


 昔話の化け猫って、こういう違和感の積み重ねから始まるのだろうか、と。


 もちろん本気ではない。けれど、そうでも思わないと説明がつかないほど、レイモンドは最近、真理子の言葉や気分を理解しすぎているように見えた。


 沈んでいる時には沈んでいるとわかるように来る。

 ひとりでいたい時には少し離れる。

 眠れない夜には当然のように起きてくる。

 笑えば耳を動かし、泣きそうになれば目を離さない。


 変な猫だ。


 変で、少し不思議で、でもたぶん、ありがたい。


 そのありがたさに、真理子は少しずつ慣れてしまっている気がした。


 本当なら、もっと戸惑うべきなのかもしれない。普通の猫ではないのかもしれない、と真面目に考えるべきなのかもしれない。けれど考えるより先に、真理子はその体温へ寄りかかってしまう。


 それはたぶん、レイモンドが怖いからではなく、逆だった。


 あまりにも自然に助けられてしまうからだ。


 この子は変だ、と思う。

 でもその変さは、真理子を遠ざけるものではなく、むしろ近づけてしまう。

 どうしてこんなにわかるの、と呆れながら、結局その背中へ手を伸ばしてしまう。


 真理子はソファの背にもたれ、ゆっくり目を閉じた。レイモンドの体温が足に伝わってくる。あたたかくて、重みがあって、そこに確かに生きているものがいる。


 その事実だけで、夜の深さが少し薄まることがある。


「あなた、ほんと……人間みたい」


 かすれた声でそう言うと、レイモンドは眠そうな顔のまま、しっぽの先だけを一度動かした。


 まるで、わかっているみたいに。

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