第3話 砕けた硝子
捨てられないものには、たいてい理由がある。
そう言い切ってしまうと少しきれいすぎる気もする。実際には、捨てそびれただけのものもあるし、見て見ぬふりをしているうちに部屋の隅へ沈殿していっただけのものもある。けれど、本当にどうでもよくなったものなら、人はもっと雑に手放せるはずだった。
真理子は食器棚の上段を見上げた。
普段使いの皿やマグカップより、少し奥。背伸びをしなければ届かない場所に、小さな白い箱が置いてある。引っ越しの時に書いたらしい油性ペンの文字は少しかすれ、もう何年もそこにあったみたいな顔をしていた。
中身はわかっている。
二つで一組の、細い脚のグラス。
透明で、口当たりだけが少し薄い、あのフィンランド製のペアグラス。
選んだのはたしか彼だった。こういうのが家にあると、ちょっとだけちゃんと暮らしてる感じがするじゃん、と笑っていた気がする。真理子はその時、別に必要ないのに、と思った。思ったくせに止めなかったのは、彼が楽しそうだったからか、そういうどうでもいいものを一緒に増やしていく生活を、あの頃はまだ信じていたからかもしれない。
グラスは、一度も使っていない。
使わないまま、ずっとそこにある。
真理子は小さく息を吐いた。
「……見たって、どうにもならないのに」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、それでも視線を外せなかった。
今日は、なぜか気になった。
いつもなら見上げて終わるのに、今日は箱の角のかすれまでやけにくっきり目に入る。開けるつもりなんてない。ただ、まだちゃんとそこにあることを確かめたいだけ。そんな言い訳めいた考えが頭の中を通る。
真理子は流しの前から小さな踏み台を引き寄せた。
上に乗って、両手で箱を手前へずらす。思ったより軽い。軽いくせに、指先へ乗る感触だけは妙に慎重になる。落とさないように抱えたまま床へ下りると、足元でレイモンドがしっぽの先だけを動かした。
「なに」
声をかけると、レイモンドは黙っている。ただ、箱を見て、それから真理子を見た。最近の彼はこういう時、わかっているみたいな顔をするから困る。
真理子は食卓の端に箱を置いた。
蓋に指をかける。
少しだけためらう。
それでも、ここまで来て開けないほうが妙な気がして、そっと持ち上げた。
中には薄い紙に包まれたグラスが二つ、ぴたりと並んで入っている。買った日のままの整い方だった。真理子はその几帳面さに、少しだけ笑いそうになって、それからすぐ笑えなくなった。
こういうものをちゃんと仕舞い込んで、いつか使おうとしていた時期が、自分にもあったのだ。
真理子は片方の包み紙を少しだけ開いた。
透明な硝子が、部屋の灯りを受けて静かに光る。指で持ち上げると、想像していたよりずっと軽かった。こんなに軽いものに、こんなに長く引っかかっていたのかと思う。
「ちゃんと暮らしてる感じ、ね」
口にしてみると、その言葉は思ったより苦かった。
ちゃんと暮らすつもりだったのは、自分だけだったのだろうか。
それとも、あの時の彼にも本気はあったのだろうか。
わからない。
もう、わからない。
真理子はしばらく、そのグラスを見ていた。
見ているだけで、時間が妙に止まる。
使いもしないくせに捨てられなくて、仕舞い込んだまま忘れたふりをして、それでも今日みたいにまた引っ張り出してしまう。そういう自分の往生際の悪さまで、透けた硝子の向こうに見える気がした。
「……だめだ」
真理子は小さく呟いて、グラスを箱へ戻した。蓋までは閉めず、食卓の端へ置いたままにする。踏み台も、片づけるのを忘れたまま流しの近くへ寄せただけだった。
気持ちを切り替えようと、真理子は冷蔵庫を開けた。
夕飯の支度には少し早い時間だった。帰宅して、上着を脱いで、手を洗って、部屋着の袖をまくる。その流れに乗ってしまえば、余計なことは考えずに済む気がした。
レイモンドはいつものように、真理子のあとをついて回っていた。年を取って前ほど機敏ではなくなったくせに、足元にいる癖だけは変わらない。台所でも、洗面所でも、真理子が立ち止まる場所にはだいたいレイモンドがいる。
「危ないから、あんまりくっつかないでよ」
言いながら、真理子は少し笑っていた。レイモンドは聞いているのかいないのか、目を細めて、何でもないふうに次の一歩を踏む。
鍋に水を張り、冷蔵庫から野菜を出す。葉物の端が少ししんなりしていて、真理子は反射的に傷んだ部分だけを指でちぎった。花と同じで、野菜も少しの変化が気になる。
調味料を取ろうとして、棚の上へ手を伸ばした。
あと少しで届く、というところで、足首のあたりにふっと毛の感触が触れた。
「わっ」
レイモンドだった。
視界の端に灰色の背が入り、真理子は反射的にいつものように足を避ける。その一歩の先に、さっき出したままの踏み台があった。
つま先が角に引っかかる。
しまった、と思った時には遅かった。
体勢を崩し、真理子は咄嗟に横の食卓へ手をついた。肘がぶつかる。テーブルの端に置いたままだった白い箱が大きく揺れ、蓋が外れた。
一瞬、それが何の箱だったのかわからなかった。
次の瞬間にはわかって、遅かった。
中から滑り出した硝子が、灯りを受けてひどく頼りなく光る。ひとつ、床へ落ちる。乾いた高い音。続いて、もうひとつ。立て続けに弾けるような音がして、透明だったものがフローリングの上でばらばらに光った。
世界が、そこで止まったように思えた。
真理子は食卓へ手をついたまま、息をするのを忘れた。
割れた。
その言葉だけが、遅れて頭に落ちてくる。
箱の中で眠っていた時間が、一気に起こされてしまったみたいだった。
「……うそ」
声はほとんど出なかった。
足元ではレイモンドが、驚いたように一歩下がっていた。音に反応してピンと立ち上がった耳が、ゆっくりと伏せられていく。悪いことが起きたのはわかっているのだろう。でも、何がそんなに悪いのかまでは、たぶんわかっていない。
知らないくせに。
そう思った瞬間、胸の奥に押し込めていたものが一気に上がってきた。
「なんで、今……」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。レイモンドに向けたようでいて、帰ってこなかった彼に向けたようでもあるし、こんなものをいつまでも残していた自分に向けたようでもある。
近くに飛んだ硝子片を集めた後、真理子は立ち上がろうとして、膝に力が入らず、またその場に座り込んだ。視界の中でガラスの破片が妙にきれいに光る。まだ使えるみたいに見えるのが、よけいに腹立たしい。
「なんで、こんな時に……」
喉の奥が熱くなる。泣くつもりなんてなかった。けれど感情の行き場がどこにもなくて、体の中で暴れていた。
レイモンドが、そろそろと近づいてくる。
「来ないで」
真理子は反射で言っていた。
レイモンドの足が止まる。
「来ないでってば」
思ったより強い声が出た。レイモンドがびくりとしたのがわかって、真理子の胸はさらにざらつく。
本当はわかっている。猫が悪いわけじゃない。自分の不注意だ。あんな場所に箱を置いたままにしたのも、自分だ。そもそも、まだ捨てずにいたのだって自分だ。
なのに怒りは、いちばん都合のいいところへ飛んでいく。
「ほんと、なんなの……なんでこういう時に限って」
言いながら、声が震える。レイモンドは動かない。逃げるでもなく、近づくでもなく、その場で真理子を見ている。
その視線がまた腹立たしかった。何も知らないくせに。何も失っていないくせに。
そう言いかけて、真理子は唇を噛んだ。
違う。
違うだろ、と頭の奥のどこかが冷たく言った。
何も失っていないくせに、じゃない。レイモンドはただ足元にいただけだ。いつものように真理子のあとをついて回って、いつものように近くにいただけだ。勝手に転んで、勝手に壊して、勝手に傷ついているのは自分のほうだ。
なのに、いちばん言い返してこない相手にぶつけている。
それがひどく惨めだった。
こんな時ほど、本性が出るのかもしれないと思った。腹が立って、悲しくて、どうしようもなくなった時、自分はこうやって、いちばん弱くて、いちばん都合のいいところへ手を伸ばしてしまう。
言ってはいけない。
それだけはわかる。
けれど、わかったところで感情はすぐには止まらない。
「……もう、いや」
最後のほうはほとんど泣き声だった。
真理子は両手で顔を覆った。破片を見たくなかった。こんなことで泣いている自分も見たくない。捨てられなかったくせに、壊れたらこんなに取り乱すなんて、あまりにも間抜けだ。
しかも、その間抜けさの尻拭いみたいにレイモンドへ怒鳴った。
最低だ、と思う。
こんな時にまで、自分より先に猫を傷つけるようなことを言うなんて。
静かな時間が数秒あった。
そのあと、かすかな気配がした。
レイモンドがまた近づいてきたのだと、真理子にはわかった。足音ではない。猫はそんなものを立てない。でも床の上の空気が少しだけ動く。ためらうような、慎重な気配だった。
「だから……」
顔を上げる前に、やわらかいものが手の甲に触れた。
鼻先だった。
レイモンドは破片ではなく、真理子の手を先に確かめるみたいに匂いを嗅いだ。そこで真理子は初めて、自分の指先に浅い切り傷ができていることに気づいた。ほんの少し血がにじんでいる。
レイモンドはそのあと、真理子の膝のすぐ脇へ体を寄せた。いつもより強引ではない。逃げ道を残すくらいの距離で、でもこちらが動けばすぐ触れられる場所にいる。その間合いが、妙に正確だった。
真理子は息を呑んだ。
前にも、こういうことがあった気がした。
ずっと前。まだ二人で暮らし始めたばかりの頃。浮かれて買った夫婦茶碗を、真理子が洗い物の最中に割ってしまった夜。
あの時、彼は笑ってごまかしたのではなかった。
まず真理子の指先を見た。怪我してない、と聞いて、それからようやく割れた茶碗を見た。破片はあとでいいから、と言って、真理子のすぐ隣にしゃがんだ。ぴったり抱きしめるでもなく、ひとりきりにするでもなく、泣くなら泣けばいいという顔で、でも逃げ道だけはちゃんと残す距離で。
そういう順番だけは、あの人はずるいくらい正しかった。
その時の空気に、少しだけ似ている。
けれど真理子はそこで思考を止めた。似ている、と思っただけだ。そこから先へ行くには、今は疲れすぎている。
レイモンドは真理子の頬の近くまで顔を上げ、何も言わずにじっとしていた。言葉があるわけじゃない。ただ、今は泣いていていいとでも言うみたいに、急かさず、でも離れない。
真理子は自分の膝に額をつけたまま、嗚咽を噛み殺した。レイモンドの体温が、じわじわと脚の横から伝わってくる。日向で干した布団みたいな、少し香ばしい匂いがした。
しばらくして、真理子はようやく片手で涙を拭った。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのか、自分でも曖昧だった。割れたグラスにか。昔にか。レイモンドにか。自分にか。
レイモンドは答えない。答えない代わりに、真理子がもう一度顔を伏せても、その場を動かなかった。
やがて真理子は震える息を吐いて、床の破片を見た。片づけなければならない。怪我をする前に。そう思うのに、まだ指先に力が入らない。
さっき自分がぶつけた声のきつさが、まだ耳の奥に残っていた。レイモンドは忘れてしまうかもしれない。猫なのだから、こんなことはすぐに流れていくのかもしれない。
でも真理子のほうは、たぶん忘れない。
こういう時に、自分が何を守れなくなるのか。
どこへ怒りを投げてしまうのか。
それをもう知ってしまったからだ。
「……どうしてこの子は、こんなにお利口なんだろう」
口に出した途端、その言葉が静かな部屋の中へ落ちた。
レイモンドは薄く目を細めたまま、真理子のそばから動かなかった。




