第2話 僕の中の僕
朝は、だいたい同じ匂いから始まる。
水。まだ少し冷たい空気。洗ったばかりの手。花の青い匂い。まりちゃんの髪に残った、眠りのぬくさ。そういうものが、目を開けるより先に鼻へ入ってくる。
僕は窓の近くのいつもの場所で、ゆっくり目を開けた。身体の下にある布は、夜のあいだに少し冷えている。伸びをすると肩のあたりがかすかに軋んだ。昔からそうだったのか、最近そうなったのかはよくわからない。ただ、前より体の輪郭を意識することが増えた。
台所のほうで、小さな物音がした。食器が触れ合う音。引き出しの滑る音。まりちゃんの足音は、その日の気分で少しずつ違う。急いでいる日は床を押す力が強いし、眠い日は片足ずつ遅れて来る。考えごとをしている時は、歩幅の間にわずかな迷いがある。
今朝の足音は、重すぎない。泣いた翌日の歩き方ではない。
僕はそのことに、少しだけ胸の奥がほどけるのを感じた。
そういう感覚を何と呼ぶのか、僕にはまだうまくわからない。ほっとする、に近い気もする。まりちゃんの足音が沈んでいないだけで、自分の中のざわつきも少し静かになる。猫がそういうことを思うものなのかは知らない。でも、僕はたしかにそう感じていた。
「レイモンド、おはよう」
まりちゃんがそう言った。
言葉の意味はわかる。けれど僕には、意味より先に、声のやわらかさや湿り気のほうが先に入ってくる。今朝の声は、少し眠いけれど無理はしていない。だから僕は目を細めて、返事の代わりにしっぽを一度だけ動かした。
まりちゃんが小さく笑う。
その笑い方が、僕は好きだと思う。
好きだ、なんて言葉を自分の中で使うのは少し変だ。でも、そうとしか言えない。まりちゃんがこうして少しだけ口元をゆるめると、部屋の空気がましになる。呼吸がしやすくなる。だからたぶん、好きなのだ。
まりちゃんは出かける支度をしながら、ときどきふっと止まる。冷蔵庫の前だったり、食器棚の前だったり、玄関の小さな棚の前だったり。止まる時間はほんの少しだ。人間なら見落とすかもしれない。けれど僕にはわかる。その一瞬だけ、部屋の気配が変わる。遠くを見る人間の気配がする。
まりちゃんの中には、まだ何かの抜けた場所がある。
僕はそのことを知っている。
知っている、というのが変だ。何が抜けているのか、僕にはうまく説明できない。ただ、その場所にまりちゃんが触れるたび、部屋の中に見えない穴みたいなものがひらく。そして僕は、その穴が嫌いだった。
まりちゃんがそういう気配をさせる時、どうすれば少しましになるのか、僕はなぜか知っている気がする。
足元にいる。膝の近くで丸くなる。視線の高さを少し合わせる。近づきすぎないで、でも離れすぎない。
そういうことを、僕はなぜか知っている。
教わったわけではない。ただ体のほうが先に、これだ、と選んでしまう。まりちゃんが少し楽になる場所と、触れ方と、待ち方を、僕が元から知っているみたいだ。
それが、落ち着かない。
まりちゃんは出かける前に、僕の皿を見て、水を替えて、頭を撫でる。毎朝、だいたい同じ順番だ。まりちゃんはこういうところが妙にきちんとしている。自分のこととなると雑なくせに、僕のことになると手を抜かない。
眠れていない朝でも、僕の水は替える。
食欲のない夜でも、僕のごはんは忘れない。
泣きそうな気配をさせていても、僕の背中にはちゃんと触れる。
だから僕は、まりちゃんがしんどそうだと落ち着かなくなるのかもしれない。
いや、たぶん、それだけではない。
最近、僕の中には“僕”がいる。
前からそうだったのかどうかはわからない。猫はふつう、自分のことをそんなふうに呼んだりしないのかもしれない。でも僕の中には確かに、自分を内側から呼ぶための小さな音みたいなものがある。それが「僕」だった。
そのことに気づいてから、前よりずっと、僕は考えるようになった。
朝の足音の重さ。
ため息の長さ。
声の湿り気。
食器棚の前で、まりちゃんがほんの少しだけ止まる理由。
そんなことを、どうして僕はいちいち覚えてしまうのだろう。
昼を過ぎて日差しが部屋の奥へ差し込むと、僕はいつもの出窓へ移動した。窓辺はあたたかい。眠るにはちょうどいい。でも今日は、目を閉じても頭の中が完全には静かにならなかった。
昨日の夜、まりちゃんは足元に座り込んで、僕の背中に額を押しつけた。
もう君しかいないなあ、と言った。
言葉の意味はわかる。でもそれ以上に、あれは重い声だった。体を預ける声だった。僕はその重みを、先に背中で受け取って、それから言葉として聞いた。
そしてそれを覚えていること自体が、当たり前ではない気がする。
夕方になって鍵の音がした。僕は目を開けるより先に、まりちゃんの匂いでそれを知る。花の匂いは朝よりも混ざっていて、外の風の匂いと、人の多い場所の匂いと、少しだけ疲れた汗の匂いがついている。
今日は疲れている。けれど泣いてはいない。
僕は玄関までは行かなかった。行かなくても、まりちゃんはちゃんと帰ってくる。そう思っている自分も、少し変だ。
「レイモンド、ただいま」
その声だけで、僕は嬉しくってしっぽがピンと伸びる。
まりちゃんは買い物袋を置いて、台所へ向かい、それからふと足を止めた。食器棚の前だった。僕の位置から何があるのかまでは見えない。でも、その一瞬で空気が沈むのはわかる。
まただ、と思う。
まりちゃんの中には、まだ何かの抜けた場所が残っている。そしてその場所に、僕はどうしても反応してしまう。
僕は窓辺から下りて、まりちゃんの足元へ行った。少し強めに脛へ体をこすりつけると、まりちゃんが「わ、なに」と小さく笑う。さっきより少しだけ声が軽くなる。
それでいい、と思う。
そう思っている自分に、また驚く。
まるで僕は、まりちゃんを機嫌よくさせたいみたいじゃないか。
いや、たぶん、そうなのだ。僕はまりちゃんに笑っていてほしい。沈んだ気配をさせてほしくない。長く息を吐いて、部屋の空気を重くしてほしくない。
どうしてそんなふうに思うのかは説明できない。できないのに、その気持ちだけははっきりしている。
夜、まりちゃんがソファに座ると、僕は自然にその近くへ行った。手を伸ばせば届く場所。触れようと思えばいつでも触れられるけれど、まりちゃんが逃げたければ逃げられる距離。
そこがいちばんいいと、また体が先に知っている。
まりちゃんはテレビをつけたまま、ちゃんとは見ていなかった。ときどきスマホの画面を点けては消す。そのたび顔の筋肉が少しだけ固くなる。
やめればいいのに、と僕は思う。
思って、それがまた変だと気づく。猫がそんなことを思うものだろうか。猫はもっと別のことで忙しいはずだ。寝床とか、ごはんとか、日向とか。なのに僕は、まりちゃんが傷つくとわかっている言葉や行動を、やめてほしいと願っている。
まりちゃんの手が下りてきて、僕の頭を撫でた。いつもの速さ、いつもの力加減だ。安心すると、喉が勝手に鳴った。少し癪だけれど、これは止められない。
「レイモンドはいいね。余計なこと考えなくて」
まりちゃんはそう言って、少しだけ笑った。
余計なことなら、僕は今まさに考えている。
まりちゃんのことばかり。
この部屋の空気が、昨日より重いか軽いか。
明日の朝、まりちゃんの足音が沈んでいないかどうか。
余計なことだらけだ。
僕はまりちゃんのそばで丸くなった。布越しの体温が、じんわりと伝わってくる。
僕は猫のはずだ。たぶん。
でも、ただの猫にしては知りすぎている。
まりちゃんがどんな時に寂しいのか。
どんな時に呼吸が浅くなるのか。
どうすれば少しだけ楽になるのか。
そういうことを、僕はまず匂いや足音や気配、声の湿り気で知って、それから意味として考えてしまう。
そんなことを、どうして僕が知っているのだろう。
喉の奥で小さく音が鳴る。まりちゃんの指先がもう一度、頭の上をゆっくり滑った。
その手が離れたあとも、僕はしばらく目を開けなかった。
開けてしまうと、自分が何かおかしなものになりかけていることを、はっきり見てしまいそうな気がしたからだ。




