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『吾輩は猫なのか?』  作者: 根古野 雀句


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第1話 帰らぬ君

 朝いちばんの仕事は、昨日の終わりから目をそらさないことだ。


 まだシャッターを半分だけ上げた店先は薄暗く、外の冷たい空気がゆっくり流れ込んでくる。真理子はエプロンの紐を結び直し、入口近くに並んだバケツを一つずつ見下ろした。昨日はしゃんとしていたガーベラが、今朝はほんの少しだけ首を傾げている。水の縁には落ちた花粉が浮いていて、葉先の乾き具合にも差がある。


 花は、昨日と同じ顔ではいてくれない。


 それは花屋で働き始めた頃から、嫌になるほど知っている。切り花なのだから当然だ。水を替えて、茎を切り戻して、余分な葉を落としてやっても、少しずつ弱っていく。それでも毎朝、昨日との違いを見つけるたびに、胸のどこかがざらついた。


「真理子ちゃん、ミモザ先に出しちゃっていい?」


 奥から先輩の声がした。


「はい、お願いします」


 返事をしながら、真理子はカーネーションの茎を斜めに切り落とした。薄い緑の切り口から水がにじむ。まだ売り場へ出せるものと、今日のうちに下げたほうがいいものを分ける。ほんの少しの差なのに、その見極めを間違えると、花はすぐに顔を曇らせる。


 昔から、こういう小さな変化に気づきすぎるところがある。


 気づいてしまうと、なかったことにできない。


 店内にラナンキュラスの甘い匂いが広がっていた。黄色いミモザは明るい顔をしているくせに、油断するとすぐぽろぽろこぼれる。真理子は落ちかけた小花を指先で受け止め、その軽さに少しだけ目を細めた。


 落ちたものは戻らない。


 そんなこと、毎日見ているのに、慣れる日は来なかった。


     *


 昼休み前、スマホが一度だけ震えた。


 真理子は反射的に画面を見て、すぐ伏せた。広告の通知だった。わかっていたのに、心臓だけが先に跳ねる。


 もう何か月も、あの人から連絡は来ていない。


 それでも、通知音が鳴るたびに一瞬だけ期待してしまう自分がいる。馬鹿みたいだと思うし、実際かなり馬鹿だとも思う。


「また見た?」


 紙コップのコーヒーを片手に、先輩が苦笑いした。


「見てないです」


「顔に出てる」


 真理子は小さく肩をすくめた。先輩は変に気をつかわせない程度に事情を知っている。同棲していた彼が、喧嘩のあと家を飛び出したきり戻らなくなったことも。最初は怒っていた真理子が、時間が経つにつれて怒りだけでは済まなくなってきたことも。


「まだ連絡なし?」


「なしです」


「半年近いよね」


 その数字を人の口から聞くと、やけに冷たく感じる。


 真理子はコーヒーの蓋を指先で押さえながら、曖昧に頷いた。


 半年。長いのか短いのか、もうよくわからない。ただ、喧嘩の熱が冷めるには十分すぎて、心配が腐るには足りない長さだ。


 もし本当に別れるつもりなら、そう言えばよかったのだ。連絡を絶つなんて、いちばんずるい形でしかない。そう思う。思うくせに、事故にでも遭っていたらどうしよう、と夜になると考えてしまう。


 怒りと不安は、きれいに分かれてくれない。


「警察って感じでもないしね……」


「そうなんです」


 それがいちばん厄介だった。財布もスマホも持って出ていっている。蒸発というほど手際よくもなく、かといって事故で消息不明とも言い切れない。生きている人間の逃げ方としては、嫌に現実的だった。


 真理子は紙コップの口を湿らせるだけで、ほとんど飲めないまま視線を落とした。


 喧嘩の原因は、些細といえば些細だった。


 けれど、たぶんその日だけの話じゃなかった。


 真理子は将来のことをちゃんと話したかっただけだ。今すぐ結婚したいわけじゃない。けれど仕事はどうするのか、お金はどうするのか、このまま何となく同じ部屋で年を取っていくつもりなのか、それくらいは言葉にしたかった。


 でも彼は、そういう話になるといつも笑ってごまかした。


「なんとかなるって」

「そんな先のこと、今決めても仕方ないじゃん」

「重い話するなら、せめて飯のあとにして」


 軽く言う。その軽さが、積もっていった。


 あの日、とうとう真理子の中で何かが切れたのだ。


「でも、心配なんでしょ」


 先輩の声はやさしかった。


「……心配です」


「うん」


「腹も立ってます」


「うん」


「すごく」


「うん」


 真理子は笑うみたいに息を漏らした。


「でも、どこかで野垂れ死にしてたら、それはそれで嫌です」


 先輩は何も気の利いたことを言わず、「そっか」だけを置いてくれた。


 そういう返し方のできる人は、案外少ない。


     *


 帰りに牛乳と猫砂を買った。食材売り場で、一瞬だけ二人分の量を考えかけてやめる。そういう間違いは前より減った。減っただけで、なくなりはしない。


 玄関を開ける。


「ただいま」


 返事はない。もちろんない。


 それでも少しだけ待ってしまう自分がいて、真理子は靴を脱ぎながら小さく唇を噛んだ。


 奥の部屋から、レイモンドがゆっくり出てきた。


 灰色の毛並みは歳を取ってなおきれいで、光の当たり方によっては青みがかって見える。ロシアンブルーらしい細い顔立ちと、少し神経質そうな目つき。お日様を連想させる少し香ばしいようないい匂いがする猫だ。


 真理子はレイモンドしか飼ったことがないから、よその猫と比べてどうなのかはよくわからない。けれど少なくとも、この子はずっと“猫らしい猫”だった。


 お利口ではある。手がかからない。無駄に鳴かない。抱っこはあまり好きじゃない。自分から甘えてくることも少ない。自己主張も控えめで、どこか人間に無関心な、静かな猫。


 ロシアンブルーはボイスレスキャットと呼ばれるらしいが、レイモンドも本当にほとんど鳴かなかった。ごはんの皿の前でさえ、黙ってこちらを見るだけで済ませるような猫だった。


 なのに最近は違う。


 歳のせいなのかもしれないし、真理子が知らないだけで、年を取った猫にはこういう変化があるのかもしれない。昔話にあるみたいに、長く生きた猫が少しずつ人間くさくなる、なんて半分冗談めいたことまで考えたことがある。


 彼がいなくなってから、レイモンドは前よりずっと真理子のそばへ来るようになった。足元にまとわりつくように歩き、気づくと近くにいる。抱っこされるのは相変わらず苦手なくせに、自分から体を押しつけてくることがある。前ならほとんど聞かなかった小さな鳴き声で、何かを伝えようとすることさえある。


 まるで、自分の意思で真理子に関わろうとしているみたいに。


「はいはい、今ごはんね」


 しゃがんで頭を撫でると、レイモンドは当然のように目を細めた。


 この猫だけが、いつも通り一緒に居てくれる。


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけあったかい気持ちになる。


 人がひとりいなくなった部屋で、別の誰かが前より少しだけ近くへ来る。


 それを救いと思ってしまうことに、真理子は小さく後ろめたさを覚えた。


 キッチンに買い物袋を置く。棚の奥には、彼が気に入っていた濃い色のマグカップがまだある。冷蔵庫の横には途中まで読んでいた本が積まれ、そのページには雑に折ったレシートが挟まっている。


 片づけようと思えば片づけられる。


 できるのに、できない。


 もしこれを片づけたら、本当にいなくなってしまう気がする。もう十分いないくせに、そんなことを考える自分が嫌だった。捨てたいのが物なのか、まだどこかで待っている自分のほうなのかも、真理子にはよくわからなかった。


 あの濃い色のマグカップを見ると、どうでもいい平日の夜に、彼がコンビニのプリンを二つだけ買って帰ってきたことまで思い出す。将来の話からは逃げるくせに、そういうくだらないやさしさだけは妙にうまかった。


 何でもない顔で袋を卓上へ置いて、「一個しかなかったけど、半分こする?」なんて笑った夜のことまで、なぜだか一緒に蘇る。そういうどうでもいい夜ほど、彼は妙にやさしかった。


 真理子はそれが余計に腹立たしくて、同時に少しだけ恋しかった。


 ちゃんとしてほしい時には、ちゃんとしてくれなかった。向き合ってほしい時には、冗談へ逃がした。なのに、思い出すのは決まって、そんなふうにどうでもいいところで差し出されたやさしさばかりだ。


 怒っているのに、そういう記憶をまだ手放せない自分がいちばん面倒だった。


 レイモンドの皿にごはんを入れると、彼は一度匂いを確かめてから食べ始めた。がつがつしないところが妙に上品で、真理子は少しだけ笑う。


「あなたのほうがよっぽどちゃんとしてるね」


 口にしてから、誰と比べているのか自分でわかってしまった。


 一人分の夕飯は、どうしても味気ない。手を抜いても誰にも文句を言われないし、丁寧に作っても褒める人はいない。それでもレイモンドが足元に座っているだけで、台所は完全な空っぽにはならなかった。


     *


 夜、洗い物を終えたあとで、真理子はスマホを手に取った。


 見る必要なんてないのに、指が勝手に連絡先を開く。


 名前はそのまま残っている。トーク画面も、通話履歴も、最後に送った短いメッセージも。


『どこにいるの』


 既読はついていない。


 最初のころは怒りに任せて、もっと長い言葉を打ちかけたこともあった。最低。意味わかんない。ちゃんと話して。けれどどれも送る前に消した。


 いま残っているのは、ひどく短い問いだけだ。


 どこにいるの。


 それが責めなのか、心配なのか、自分でももう判別がつかない。


 もし今ここで着信があったら、何を言うだろう。怒鳴るのか。泣くのか。黙るのか。何事もなかったふりなんて、きっとできない。


 そう考えているうちに、自分ばかりがこんなふうに考えていることに腹が立ってくる。


 スマホを伏せたとたん、ふくらはぎにやわらかな重みが触れた。


 レイモンドだった。


 真理子の足元へ来て、くるりと一度回り、その場に丸くなる。昔からそうだ。真理子が長く座っている夜には、決まって足元を寝床にする。


「……そこ、寒くないの」


 問いかけると、レイモンドは珍しく、かすかな声でひとつ鳴いた。


 短い、控えめな声だった。返事のつもりなのか、文句なのかはわからない。けれど前のレイモンドなら、こんなふうには鳴かなかった気がする。


「最近ほんと、しゃべるよね」


 思わずそう言うと、レイモンドは片目だけ薄く開けて、また閉じた。


 相変わらず勝手だ。勝手なのに、いてほしいところにはちゃんといる。


 真理子は椅子からずり落ちるように床に座り込んだ。レイモンドが迷惑そうにしっぽを一度だけ動かす。そのくせ逃げない。


 背中にそっと触れると、年老いた猫の体温がじんわりと掌に移ってきた。少し香ばしい日向みたいな香りが、鼻先をくすぐる。


「……もう君しかいないなあ」


 声に出したら、思った以上に頼りない響きになった。


 レイモンドは答えない。ただそこにいる。


 誰かの代わりとしてではなく、最初からずっとここにいたものとして。


 そのことが、今夜の真理子にはたまらなくありがたかった。


 窓の外で遅い車の音が一度だけ通り過ぎる。誰かの帰宅を告げるみたいな音だった。真理子は無意識に耳を澄ませ、それから自分で自分にうんざりして、レイモンドの背に額を寄せた。


 あたたかい。


 怒っているのか、心配しているのか、まだ好きなのか、もう嫌いなのか。何ひとつわからない。


 わかるのは、今この部屋にいるのが自分と、この老猫だけだということだった。


 レイモンドは少しだけ身じろぎして、真理子の足に体側をぴたりと押しつけた。


 そのささやかな重みだけで、泣きそうになる夜がある。

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