落第記録官の清書②
翌朝、影審局本館の廊下は妙に騒がしかった。
ノアが補修室へ向かっていると、すれ違う職員たちの視線がこちらへ向く。
昨日までは、誰も見なかった。
見ないふりですらなかった。
最初から、そこに人がいると思っていない目だった。
けれど今日は違う。
「あれが?」
「昨日の記録を書いた見習いだろ」
「影も読めないって聞いたぞ」
「じゃあ、何を書いたんだ」
小さな声が、背中に刺さる。
ノアは黒い帳面を胸に抱え直した。
褒められているわけではない。
疑われている。
値踏みされている。
何かの間違いではないかと見られている。
それでも、昨日までの嘲笑とは違った。
「リヴェル」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、同期の一人が立っていた。
昨日、筆箱と笑った男だ。
「お前、本当にあの記録を書いたのか」
ノアは少しだけ黙った。
嘘をつけば、影に傷が残る。
そんなことを考えるまでもない。
「書いた」
「影、読めないんだろ」
「読めない」
「じゃあ、どうやって」
「見たものと、聞いたものを書いた」
同期は、馬鹿にするように笑いかけた。
だが、最後まで笑えなかった。
ノアの抱えた帳面を見て、口元が固まる。
黒い表紙の端には、昨日浮かんだ印がまだ薄く残っていた。
「……ただの偶然だろ」
「分からない」
ノアは正直に答えた。
「僕も、まだ分からない」
同期は、言葉に詰まった。
その時、廊下の向こうから第二等影読官が歩いてきた。
昨日の審廷で、セラを止め、ノアの記録を破棄しようとした男だ。
周囲の職員が道を開ける。
ノアも慌てて端へ寄った。
第二等影読官は、ノアの前で足を止めた。
「ノア・リヴェル」
「はい」
「昨日の記録について、上層部から照会が入っている」
声は硬かった。
「清書は」
「進めています」
「私見や推測を混ぜるな」
「はい」
「影の意味を読めないなら、読めないと書け」
「はい」
第二等影読官は、少しだけ目を細めた。
「……昨日のように」
ノアは顔を上げた。
責められているのかと思った。
だが、男の顔には別の感情があった。
悔しさ。
それに近いもの。
「影を読めない記録官が、分からないと書いたから、あの記録は崩れなかった」
男はそれだけ言うと、歩き去った。
ノアはしばらく動けなかった。
褒められたわけではない。
認められた、というほどでもない。
けれど、昨日までなら絶対に聞けなかった言葉だった。
分からないと書いたから、崩れなかった。
補修室へ入ると、セラはすでに机に向かっていた。
いつもの黒い服。
黒い手袋。
銀の指貫。
机の上には、昨日の清書と、未開封の黒い通達符が置かれている。
「遅い」
「すみません。廊下で少し」
「捕まりましたか」
「はい」
「人気者ですね」
「やめてください」
ノアは椅子に座り、清書用紙を開いた。
昨日より、少しだけ手が落ち着いている。
自信がついたわけではない。
ただ、何を書けばいいのか、少しだけ分かってきた。
見たものを書く。
聞いたものを書く。
分からないものを、分かったふりで埋めない。
それだけだ。
「セラさん」
「何」
「昨日の僕の記録は、本当に正式裁定録になるんでしょうか」
「すぐには無理でしょうね」
セラはあっさり言った。
「上は嫌がります。第二等影読官も面子があります。エイムズ家も抗議する。教会と医師団も、多少は騒ぐでしょう」
「では」
「でも、消せません」
セラは黒い通達符を指で押さえた。
「消せない記録は、無視し続ける方が難しい」
ノアは清書中の文字を見下ろした。
昨日の震えた字が、今は少しだけ整っている。
消せない。
その意味が、昨日より重く感じた。
セラが通達符を開いた。
黒い紙面に、白い文字が浮かび上がる。
【補修依頼】
【聖ルメリア孤児院】
【寄付式用影写盤に異常】
【救済事業代表者の影に、児童複数名の所有印らしき反応あり】
ノアは文字を読んで、眉を寄せた。
「所有印?」
「人や物に、権利者を示すための印です」
「児童に?」
「そう書いてあります」
セラは立ち上がった。
「行きます」
「今ですか」
「今です」
ノアは清書用紙を見た。
まだ終わっていない。
セラは黒い手袋をはめ直す。
「続きは戻ってから」
「清書は大事なんじゃ」
「新しい記録も大事です」
ノアは慌てて黒い帳面を取った。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
怖い。
また、何かを見ることになる。
誰かが隠したものを。
誰かが消そうとしたものを。
それでも、ノアは帳面を抱えた。
「行けます」
セラはほんの少しだけ笑った。
「では、記録係」
その呼び方に、ノアは顔を上げる。
落第でも。
補助でも。
筆箱でもなく。
記録係。
「はい」
ノアは頷き、自分の足でセラを追った。




