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落第記録官の清書①

 補修室へ戻るころには、ノアの指先はすっかり冷えていた。


 第三審廷のざわめきが、まだ耳の奥に残っている。


 ルーカス・エイムズの声。

 第二等影読官の怒声。

 リディア・エイムズの細い影の声。

 そして、自分の帳面が鳴った音。


 ぱきり、と。


 あの乾いた音を思い出すたび、胸の奥が小さく跳ねた。


「座って」


 セラは机の上を片づけながら言った。


「清書します」


「今からですか」


「今からです」


 ノアは思わず黒い帳面を抱え直した。


「でも、さっきの記録は」


「消えない」


 セラはあっさり言った。


「だからこそ、読みにくいまま残ると困ります」


 ノアは返す言葉を失った。


 たしかに、自分の記録はひどかった。


 手は震えていた。

 行は乱れていた。

 途中で線を引き、書き直し、余白に追記し、黒点の横に原因不明とまで書いた。


 消えない記録。


 その響きは少しだけ特別なものに思えたが、消えないからこそ、汚い字まで残る。


 ノアは椅子に座り、帳面を開いた。


 第三審廷で書いた頁には、黒い枠が残っていた。


 記録の周囲を囲むように浮かぶ、細い線。

 隅には、裂け目のような黒い印。


 指で触れてみる。


 紙の表面は滑らかだった。


 インクが盛り上がっているわけではない。

 焼き印でもない。

 けれど、確かにそこにある。


「これ、本当に消えないんですか」


「試しますか」


 セラは新しい紙束を持ってきながら言った。


「いえ、怖いです」


「賢明です」


 褒められた気はしなかった。


 セラは机の向かいに座り、黒い手袋を外した。


「まず、審理番号。日付。場所。出席者」


「はい」


「次に、補修立会の経緯。通達内容。影写盤の乱れ」


「はい」


「その後、対象者本人影に嘘痕がなかったこと」


 ノアはペンを取った。


 白い清書用紙の上に、文字を置く。


【エイムズ伯爵家公開影審】

【第三審廷】

【補修立会:第七等補修係セラ・ノクス】

【記録補助:ノア・リヴェル】


 文字はにじまない。


 ペンも止まらない。


「清書では、黒点は出ないんですね」


「元の記録と矛盾しなければ」


 セラが言った。


「矛盾したら」


「止まるでしょうね」


 ノアは喉を鳴らした。


「つまり、清書でも間違えたら分かるんですか」


「たぶん」


「たぶん」


「まだ確認中です」


 セラは淡々としている。


 自分の身体で起きている異常を、他人の方が落ち着いて観察している。


 それが少し変だった。


 ノアは記録を進める。


【対象者ルーカス・エイムズ本人影に嘘痕なし】

【本人影に命令痕なし】

【ただし、周囲人物の影より黒糸状反応あり】


 そこまで書いた時、ペン先がわずかに重くなった。


 ノアは手を止める。


「どうしました」


「少し、重いです」


「どこ」


「周囲人物、のところです」


「曖昧だから」


 セラは即答した。


「誰の影か、清書では最初から書きなさい」


 ノアは頷き、線を引いた。


【医師団影、エイムズ家執事影、立会司祭影より黒糸状反応あり】


 今度は軽くなった。


「……通りました」


「その言い方、癖になりそうですね」


「すみません」


「謝ることではありません」


 セラは古い影写盤の欠片を手に取り、灯に透かした。


「あなたの筆は、嘘に弱い」


「弱い、ですか」


「強いと言ってほしかった?」


「少しだけ」


「では、面倒なほど正直です」


 それも褒め言葉には聞こえなかった。


 けれど、ノアは少しだけ笑いそうになった。


 朝には、自分の筆は役立たずだと思っていた。


 途中で止まる。

 黒くにじむ。

 簡単な書式も守れない。


 そう言われてきた。


 だが今、同じ性質をセラは別の言葉で呼んだ。


 面倒なほど正直。


 それは、役立たずとは少し違っていた。


「セラさん」


「何」


「僕のこれは、能力なんでしょうか」


 聞いてから、声が小さすぎたと思った。


 セラはしばらく答えなかった。


 黒い欠片を机に置き、ノアの清書を見た。


「能力と呼ぶには、まだ危ういです」


「危うい」


「あなたは真実を見つけられない。影も読めない。裁定判断も遅い。今日も、私が言わなければ何も書けなかった」


「はい」


 分かっていたことなのに、並べられると刺さる。


 ノアはペンを握ったまま、肩を落とした。


 セラは続ける。


「でも、書いたものは残った」


 ノアは顔を上げた。


「そこだけは、ほかの誰にもできなかった」


 補修室の灯が、黒い帳面の表紙に落ちている。


 何の飾りもない、古い帳面。


 その中に、自分の震えた字が残っている。


 消せない形で。


「私は影を縫えます」


 セラは言った。


「けれど、私の見立ては第七等補修係の私見で終わる。今日の審廷でも、そうされかけました」


「はい」


「あなたの記録がなければ、リディア・エイムズの声はまた消されていた」


 ノアは息を止めた。


 リディアの声。


 私は、狂っていません。


 父の遺言を読ませてください。


 私の言葉を、病気にしないでください。


 あの声を思い出す。


 細くて、消えそうで、それでも残った声。


「僕が、残したんですか」


「ええ」


 セラは短く答えた。


「字は汚かったですが」


「そこは今、言わなくても」


「清書中なので」


 ノアは返事に困り、結局、黙って続きを書いた。


 清書の文字は、まだ少し震えている。


 けれど、読める。


 消えないかどうかは分からない。


 でも、消させたくないとは思った。


 補修室の窓の外では、もう夕暮れが落ちていた。


 影審局本館の灯が、遠くで一つずつ点いていく。


 そのどこかで、今日の審廷の噂が広がっているのだろう。


 第七等補修係が裁定を止めた。


 落第記録官の書いた記録が消えなかった。


 誰かが笑うかもしれない。


 誰かが疑うかもしれない。


 それでも、ノアの手元には清書すべき記録がある。


「ノア」


「はい」


「次は、もう少し早く書けるように」


「次、あるんですか」


「あるでしょうね」


 セラは机の端に置かれた黒い通達符を見た。


 それはまだ開かれていない。


 けれど、紙の端には、影審局の緊急印が浮かんでいた。


 ノアはペンを握り直した。


 冷えていた指先に、少しだけ力が戻る。


「……はい」


 返事をしてから、清書の続きを書く。


 今度は、ペンは止まらなかった。

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