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消せない裁定録

「何だ、それは」


 第二等影読官が、ノアの帳面を見た。


 白い紙の上に、黒い枠が浮かんでいる。


 ノアが書いた記録を囲むように。

 そこだけが、紙の上ではなく、もっと深い場所へ沈み込んだように見えた。


 ノア自身にも、何が起きたのか分からなかった。


 ただ、ペンを握る手だけが震えている。


「記録を確認する」


 第二等影読官が手を伸ばした。


 ノアは反射的に帳面を抱え込む。


「出せ」


「でも」


「見習い記録官が逆らうな。今の記録は正式裁定録に含めない。補修参考記録として処理する」


 その言葉に、ルーカスが静かに息を吐いた。


 勝ち筋が戻った。


 そんな顔だった。


「当然です」


 ルーカスは言った。


「第七等補修係の独断と、落第記録官の書き付けで、伯爵家の裁定が歪められては困ります」


 ノアは唇を噛んだ。


 何も言い返せない。


 落第記録官。


 その通りだった。


 自分は影を読めない。

 裁定判断もできない。

 さっきまで、セラに言われなければ何を書けばいいかも分からなかった。


「ノア」


 セラの声がした。


 静かな声だった。


「渡して」


「でも」


「大丈夫」


 その一言に、理由はなかった。


 けれど、ノアは帳面を差し出した。


 第二等影読官が乱暴に受け取り、机の上へ置く。


「この部分は削除する」


 彼は羽根ペンを取り、ノアの記録に線を引こうとした。


 ペン先が、黒い枠に触れる。


 次の瞬間、乾いた音がした。


 ぱきん、と。


 羽根ペンの先が折れた。


 審廷が静まり返る。


 第二等影読官が、折れたペン先を見下ろした。


「……何をした」


「私は何も」


 ノアはかすれた声で答えた。


 本当に何もしていない。


「別のペンを」


 第二等影読官が命じる。


 職員が新しいペンを渡した。


 今度は、黒い枠の外から書き換えようとする。


【補修参考記録】


 そう書こうとした瞬間、文字が黒く潰れた。


 潰れた文字は、紙の上でほどけるように消え、その下から別の文字が浮かび上がる。


【正式補修記録】

【記録官:ノア・リヴェル】

【審理中の影写盤内反応を現認】


 第二等影読官の顔色が変わった。


「馬鹿な」


 ルーカスが立ち上がる。


「その紙を替えればいい」


 裁定官も頷いた。


「原本不備として、新しい記録紙へ転記する。補修係の立会内容は、必要最小限に」


 職員が新しい裁定紙を持ってくる。


 第二等影読官は、ノアの記録を横目で見ながら、別紙へ書き始めた。


【エイムズ伯爵家公開影審】

【対象者ルーカス・エイムズ】

【本人影に重大嘘痕なし】

【家督継承に支障なし】


 そこまで書いた時だった。


 新しい紙の余白に、黒い線が走った。


 線は文字の隙間を縫うように伸び、最後の一文へ絡みつく。


【家督継承に支障なし】


 その文字の下に、別の文字が浮かぶ。


【異議あり】

【審理中、リディア・エイムズ本人と思われる影証言あり】

【当該記録、原本と矛盾】


 職員が悲鳴を漏らした。


 ノアは目を見開く。


 自分の帳面ではない。


 別の紙だ。


 それなのに、ノアが書いた記録との矛盾が浮かんでいる。


「消せ!」


 ルーカスが叫んだ。


 初めて、声が荒れた。


「その記録を消せ! そんなものは正式ではない!」


「正式ではない」


 セラが繰り返した。


 黒い糸を、指先に巻く。


「便利な言葉ですね」


「第七等補修係に発言権はない!」


「ええ。私の見立てだけなら、消せたでしょう」


 セラはノアを見た。


「でも、その子が書いた」


 審廷中の視線が、ノアへ向いた。


 ノアは帳面を抱えたまま、立ち尽くしている。


 逃げたい。


 今すぐこの場から逃げたい。


 それでも、帳面だけは離さなかった。


「ノア・リヴェル」


 裁定官が言った。


「今の記録は、君がその場で見聞きしたものか」


 喉が鳴った。


 声が出ない。


 セラは何も言わなかった。


 代わりに答えてはくれない。


 これは、自分が書いた記録だから。


 自分が答えなければならない。


「……はい」


 ノアは言った。


「僕が、その場で見聞きしました」


「影を読めない君が?」


「影の意味は、分かりません」


 正直に言った。


「でも、見えたものと、聞こえた声は書きました。分からないことは、分からないと書きました」


 帳面を握る手に、力がこもる。


「嘘を書いたつもりは、ありません」


 その瞬間、帳面の黒い印が淡く光った。


 裁定官が息を呑む。


 第二等影読官は、もう言葉を失っていた。


 ルーカスだけが、まだ立っている。


「そんな記録で、私を裁けるものか」


「まだ裁いていません」


 セラが言った。


「今日は、あなたを裁く前に、裁定を止めるだけです」


「止める?」


「リディア・エイムズの本人影証言。燃却された先代当主の私的遺言痕。薬効記録の欠落。告解後反応。周囲影接続」


 セラは一つずつ数えるように言った。


「これだけ出て、家督継承に支障なしとは書けません」


 ノアの帳面が、また小さく鳴った。


 黒い枠の中に、新しい一行が浮かぶ。


【家督継承裁定、保留相当】


 裁定官が、それを見た。


 長い沈黙。


 そして、重い声で言った。


「本件の家督継承裁定を、一時停止する」


 審廷が揺れた。


「リディア・エイムズ本人の所在確認。燃却された私的遺言の影写復元。薬効記録および診断書の再照合。以上を命じる」


「裁定官!」


 ルーカスが叫ぶ。


「これは不当だ!」


「不当かどうかは、再審で判断する」


 裁定官の声は、もう揺れていなかった。


「少なくとも、この場で家督継承を確定することはできない」


 ルーカスの顔から、血の気が引いた。


 影写盤の中で、リディアの影が小さく揺れる。


 泣いているようにも見えた。


 笑っているようにも見えた。


 ノアには、分からない。


 だから、書かなかった。


 ただ一つだけ、記録した。


【裁定官、本件家督継承裁定の一時停止を宣言】


 その一文に、黒点は出なかった。


     ◇


 審廷を出た後、ノアの足は震えていた。


 廊下の壁に手をつき、ようやく立っている。


 胸が痛い。

 指先が冷たい。

 黒い帳面は、まだ腕の中で重かった。


「僕は」


 ノアはようやく声を出した。


「何をしたんですか」


 セラは隣で、黒い手袋を外していた。


 銀の指貫が、灯を受けて鈍く光る。


「記録した」


「それだけですか」


「それだけ」


 セラは答えた。


「でも、それができる人を探していました」


 ノアは顔を上げた。


「僕を、ですか」


「正確には、あなたの筆」


「知っていたんですか」


「半分だけ」


 セラは小さく笑った。


「あなたの筆が、嘘や矛盾で止まることは知っていました。答案を見たので」


「では、今日のことも」


「ここまでとは思っていませんでした」


 セラはノアの帳面を見た。


「でも、これで確認できました」


「何を」


「あなたの書いた真実は、消せない」


 ノアは帳面を見下ろした。


 自分の字が、そこに残っている。


 拙い。

 震えている。

 何度も訂正している。


 けれど、消えていない。


「僕は、影を読めません」


「ええ」


「裁定判断もできません」


「ええ」


「今日だって、セラさんがいなければ何も分かりませんでした」


「そうですね」


 あっさり言われて、ノアは少しだけ傷ついた。


 けれどセラは続けた。


「だから、私が見ます」


 黒い瞳が、ノアを見る。


「あなたが書きなさい」


 ノアは息を止めた。


「私が影を縫う。あなたが記録する」


 セラは静かに言った。


「それで、消されたものが裁定に残る」


 ノアは、うまく返事ができなかった。


 落第。

 筆箱。

 途中で詰まる役立たず。


 そう呼ばれてきた自分の手が、まだ震えている。


 でも、その手で書いた文字が、今日、ひとつの裁定を止めた。


「次も、僕が書くんですか」


「あなたが記録係でしょう」


 セラは当然のように言った。


 ノアは、黒い帳面を抱え直した。


 重い。


 でも、さっきより少しだけ、持てる気がした。


「……はい」


 セラは頷かなかった。


 褒めもしなかった。


 ただ、ほんの少しだけ笑った。


「では、戻りましょう。記録の清書があります」


「清書、ですか」


「ええ」


 セラは歩き出した。


「消えないからといって、読みにくいままでいいわけではありません」


 ノアは一瞬だけ固まった。


 そして、慌ててその背中を追った。

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