嘘をつかない悪人②
セラが黒い糸を引いた。
影写盤の奥で、三つの影が浮かび上がる。
白衣の医師。
老いた執事。
聖印を握る司祭。
それぞれの影から伸びた黒糸が、ルーカスの影の周囲で絡まっていた。
だが、ルーカス本人の影には傷がない。
嘘痕はない。
命令痕もない。
「記録しなさい、ノア」
セラの声が落ちた。
ノアは黒い帳面を開く。
紙には、さっき浮かんだ黒点が残っている。
怖い。
けれど、書く。
【対象者ルーカス・エイムズ本人影に嘘痕なし】
【本人影に命令痕なし】
【ただし、周囲人物の影より黒糸状反応あり】
【当該反応はルーカス・エイムズの影周辺に接続】
黒点は沈まない。
まだ足りない。
ノアは影写盤を見た。
医師の影が揺れる。
白い文字が盤面に浮かんだ。
【薬効記録】
【読字困難】
【手指震戦】
【本人訴え:遺言確認不能】
ノアは書く。
【医師団影より、薬効記録が浮上】
【内容:読字困難、手指震戦、本人訴え「遺言確認不能」】
【提出診断書内に、当該本人訴えの記載なし】
黒点が一つ、紙の奥へ沈んだ。
ノアは息を呑む。
続いて、老執事の影が揺れた。
影写盤に、過去の声が浮かぶ。
「リディアは最近、父の書類を見ると具合が悪くなる。屋敷の者は、彼女を守らなければならない」
ルーカスの声だった。
穏やかで、優しく、何も命じていない声。
それでも、その声のあとで、老執事の影は封蝋のある書面を火へ投げ込んでいた。
ノアは書く。
【エイムズ家執事影より、封蝋書面の燃却反応あり】
【燃却前、当該書面はルーカス・エイムズへ提示されている】
【ルーカス・エイムズ発言:リディアは最近、父の書類を見ると具合が悪くなる】
【ルーカス・エイムズ発言:屋敷の者は、彼女を守らなければならない】
【ルーカス・エイムズ、燃却を直接命令せず】
【当該発言後、執事は封蝋書面を燃却】
また黒点が沈んだ。
ノアの指が震える。
これは、通っている。
自分の記録を、紙が拒んでいない。
最後に、司祭の影が震えた。
白い衣の奥から、礼拝堂の声が響く。
「病に苦しむ者は、時に悪魔の囁きを真実と思い込む。周囲の者は、その言葉に振り回されず、静かに祈りなさい」
告解の内容は漏らしていない。
リディアの名も出していない。
だが、その言葉のあとで、屋敷の者たちは彼女の訴えを病の言葉として扱った。
ノアは書く。
【立会司祭影より、礼拝時の説教反応あり】
【内容:病に苦しむ者は、悪魔の囁きを真実と思い込む】
【内容:周囲の者は、その言葉に振り回されず、静かに祈るべき】
【当該説教後、屋敷使用人および親族影に、リディア・エイムズの訴えを病状として扱う反応あり】
黒点が沈んだ。
三つ。
医師。
執事。
司祭。
誰も嘘をついていない。
誰も命じられていない。
けれど、すべてが同じ方向を向いていた。
リディア・エイムズの言葉を、誰にも届かないものにする方向へ。
「茶番だ」
ルーカスの声が落ちた。
さっきまでの穏やかさが、少しだけ剥がれていた。
「医師は医師の務めを果たした。執事は家のために判断した。司祭は一般の教えを説いただけだ。そこに私の命令はない」
「ええ」
セラは頷いた。
「あなたは命じていない」
「ならば、私を裁く根拠もない」
「本人影だけを見れば、そうでしょうね」
セラは黒い糸を指に巻いた。
「でも、あなたの沈黙は、周囲を動かした」
影写盤の奥で、黒い結び目がほどけていく。
その中から、細い少女の影が浮かび上がった。
リディア・エイムズ。
床に座り、震える手で紙を握っている。
顔は見えない。
影だからだ。
それでも、その声は審廷に届いた。
「兄様は、何も言いません」
ノアは書く。
【リディア・エイムズ本人と思われる影を確認】
【影証言:兄様は、何も言いません】
「でも、兄様が黙ると、みんなが動きます」
書く。
【影証言:兄様が黙ると、みんなが動きます】
「薬が増えます」
書く。
「父の書類が消えます」
書く。
「私の言葉が、病気になります」
ノアの手が止まった。
私の言葉が、病気になる。
裁定録として正しい言葉なのかは分からない。
けれど、それはリディアの言葉だった。
ノアは、そのまま書いた。
【影証言:私の言葉が、病気になります】
紙は拒まなかった。
黒点は出ない。
リディアの影が、燃え残った紙片を胸に抱いた。
「私は、狂っていません」
審廷が静まり返った。
「父の遺言を読ませてください」
ノアは書く。
【影証言:私は、狂っていません】
【影証言:父の遺言を読ませてください】
「私の言葉を、病気にしないでください」
ノアは書いた。
【影証言:私の言葉を、病気にしないでください】
その一文を書き終えた瞬間、帳面の紙面に浮かんでいた黒点が、すべて沈んだ。
ノアは息を止める。
文字はにじまない。
消えない。
ただ、そこに残っている。
「無効だ」
ルーカスが言った。
声は低く、硬かった。
「その影が本当にリディアのものだという証拠はない。第七等補修係が勝手に読んだ影を、正式な裁定録に含めることはできない」
第二等影読官がすぐに頷いた。
「その通りだ。補修過程に現れた影反応は、正式証拠として扱えない」
裁定官も苦い顔をしている。
「第七等補修係。今の記録は、補修参考記録として扱う。正式裁定録には含めない」
ノアの手が冷たくなった。
ここまで書いても、駄目なのか。
リディアの声が出ても。
医師の薬も、執事の遺言も、司祭の説教も、影に浮かんでも。
それでも、制度の中では消されるのか。
「ノア」
セラが言った。
声は静かだった。
「今の発言も、書きなさい」
ノアは顔を上げた。
「今の、ですか」
「ええ。消そうとした言葉も、記録です」
ノアはペンを握り直した。
手は震えていた。
けれど、書いた。
【ルーカス・エイムズ、当該影証言の有効性に疑義を提示】
【第二等影読官、補修過程に現れた影反応は正式証拠として扱えないと発言】
【裁定官、当該記録を補修参考記録とし、正式裁定録には含めないと判断】
紙に、今までで一番濃い黒点が浮かんだ。
ノアのペン先が止まる。
まだ、足りない。
何が足りない。
ノアは、息を吸った。
分からないことを、分かったふりで書いてはいけない。
なら、分からないことも書く。
【上記影証言の真偽について、記録官ノア・リヴェルは判断不能】
【ただし、当該影証言は審理中の影写盤内に発生し、記録官ノア・リヴェルがその場で見聞きした】
黒点が沈んだ。
その瞬間、帳面が小さく鳴った。
ぱきり、と。
乾いた音だった。
白い紙の上に、細い黒線が走る。
線はノアの書いた記録を囲み、ゆっくりと四角い枠を作った。
その隅に、見たことのない黒い印が浮かぶ。
封蝋でもない。
影審局の公式印でもない。
裂け目のような、黒い印。
審廷が静まり返った。
ノアは、何が起きたのか分からなかった。
セラだけが、小さく息を吐く。
「……やっぱり」
その声は、ノアにだけ聞こえた。




