嘘をつかない悪人①
エイムズ伯爵家の公開影審は、影審局本館の第三審廷で行われていた。
高い天井。
黒い石床。
壁際に並ぶ傍聴席。
正面には、裁定官席と影写盤。
影写盤は、人の背丈ほどもある黒い円盤だった。
その前に立った者の影を映し、嘘痕を浮かび上がらせる。
訓練室で見たものとは、重さが違った。
ノアは、黒い帳面を胸に抱えたまま、足を止めそうになった。
傍聴席には、すでに人がそろっている。
エイムズ家の親族。
医師。
司祭。
古くから仕える使用人。
影審局の監察官たち。
誰もが、これから行われる裁定が、最初から決まっているものだと知っている顔をしていた。
「遅い」
裁定官席の横に立っていた男が、セラを見て眉をひそめた。
胸には銀章。
第二等影読官だった。
「第七等補修係。呼ばれた理由は分かっているな」
「影写盤に軽微な乱れあり、と通達には」
「そうだ。だが裁定そのものに支障はない。君たちは後ろで見ていればいい」
男は、ノアを一瞥した。
「記録補助もいるのか」
その目は、道具を見る目だった。
「落第したばかりの見習いです」
近くの職員が、余計な説明をした。
傍聴席の端で、誰かが小さく笑う。
ノアは帳面を抱く手に力を込めた。
セラは表情を変えない。
「記録は」
「補修立会記録だけでいい。余計なことは書くな」
第二等影読官はそう言い捨てた。
セラが、ほんの少しだけノアを見た。
書け。
そう言われた気がした。
ノアは帳面を開く。
【第三審廷】
【エイムズ伯爵家公開影審】
【補修係立会】
【第二等影読官、補修係および記録補助に後方待機を命じる】
手は震えた。
けれど、文字はにじまなかった。
「始める」
裁定官の声が審廷に響いた。
扉が開く。
入ってきたのは、ルーカス・エイムズだった。
淡い金髪を後ろへ撫でつけた、三十前後の男。
濃紺の礼服。
胸には喪章。
妹の不幸を嘆き、重い家督を背負う兄。
誰が見ても、そう見えるように整えられていた。
「エイムズ伯爵家長子、ルーカス・エイムズ。影審に応じます」
ルーカスは影写盤の前に立ち、深く一礼した。
彼の影が、黒い盤に映る。
滑らかな影だった。
傷がない。
少なくとも、ノアにはそう見えた。
「先代当主の死後、長女リディア・エイムズに当主資格があったことを認めるか」
「認めます」
影写盤は揺れない。
「リディア・エイムズが現在、療養中であることを認めるか」
「認めます」
揺れない。
「医師団より、当主業務を遂行する判断能力なしとの診断が出ていることを認めるか」
「認めます」
揺れない。
ノアは書いた。
【ルーカス・エイムズ、長女リディア・エイムズの当主資格を認める】
【リディア・エイムズの療養を認める】
【医師団の診断を認める】
【本人影に嘘痕なし】
嘘がない。
それが、逆に薄気味悪かった。
裁定官が、最後の書類を手に取る。
「貴殿は、リディア・エイムズの療養に関し、不当な拘束、投薬、証言妨害、遺言書類の隠匿を命じたことがあるか」
審廷の空気が少しだけ動いた。
形式確認のための質問だった。
ここで嘘痕が出なければ、裁定は終わる。
ルーカスは、静かに目を伏せた。
「ありません」
影写盤は、沈黙したままだった。
嘘痕は出ない。
黒い盤は、黒いまま。
傍聴席の何人かが、ほっと息をついた。
司祭が頷く。
医師が書類を閉じる。
親族の一人が涙を拭う。
終わり。
誰もがそう思った。
「確認完了」
第二等影読官が言った。
「対象者ルーカス・エイムズに重大嘘痕なし。本件において、影審上の異常は認められません」
裁定官が頷く。
「では、家督継承裁定を」
「待って」
セラの声が落ちた。
大きな声ではなかった。
けれど、不思議と審廷の端まで届いた。
裁定官の手が止まる。
第二等影読官が顔をしかめた。
「第七等補修係。発言は許可していない」
「影写盤に乱れがあります」
「それは確認済みだ。軽微な盤面揺れであり、裁定に影響なしと判断した」
「影響があります」
セラは一歩、前に出た。
黒い衣の裾が、石床を撫でる。
「盤の右下」
セラが影写盤を指さした。
「揺れているのは、対象者の影ではありません」
第二等影読官が盤を見る。
「何?」
「周囲の影です」
審廷がざわついた。
ノアも影写盤を見た。
分からない。
ルーカス本人の影は、今も滑らかだ。
傷などない。
けれど、セラが指した右下だけ、たしかに灯の反射とは違う揺れ方をしていた。
水の底で、糸がもつれているような揺れ。
「周囲の影など、裁定対象外だ」
第二等影読官が言った。
「本件の対象者はルーカス・エイムズ。本人影に嘘痕なし。それが結果だ」
「本人影には、ないでしょうね」
セラはルーカスを見た。
ルーカスも、初めてセラを見た。
穏やかな顔だった。
けれど、その目だけが笑っていなかった。
「補修官殿」
ルーカスは丁寧に言った。
「私に何か疑いがあるのでしたら、どうぞ正式にお尋ねください。影写盤の前で、すべてお答えします」
「あなたは、妹を閉じ込めるよう命じましたか」
「いいえ」
影写盤は動かない。
「投薬を増やすよう命じましたか」
「いいえ」
動かない。
「先代当主の遺言を燃やすよう命じましたか」
「いいえ」
動かない。
セラは、わずかに笑った。
探していたものを見つけた者の笑みだった。
「分かりました」
セラは静かに言った。
「あなたは嘘をついていない」
ルーカスは息を吐いた。
「ご理解いただけて何よりです」
「ええ」
セラは影写盤へ近づく。
第二等影読官が立ちはだかった。
「触れるな。審理中の影写盤だ」
「補修立会要請を受けています」
「補修は不要だ」
「今、必要になりました」
その時、影写盤の右下が、かすかに鳴った。
硬い硝子の奥で、細い糸が切れるような音。
ノアは反射的に帳面を開いた。
【影写盤右下、微細な鳴動あり】
そこまで書いた瞬間、紙に黒い点が浮かんだ。
ノアの手が止まる。
試験の時と同じだ。
だが、文字はにじまなかった。
黒点は、小さく紙の上に浮いている。
まるで、続きを待っているように。
「ノア」
セラが言った。
「止まらないで」
「でも、紙に」
「それも書きなさい」
ノアは息を吸った。
【記録中、紙面に黒点発生】
【筆の停止あり】
【原因不明】
文字は、にじまなかった。
「上出来」
セラが小さく言った。
そして、影写盤に指を置いた。
銀の指貫が、黒い盤面に触れる。
その瞬間、盤の右下から、細い黒糸のようなものが浮かび上がった。
それはルーカスの影から伸びているのではない。
医師。
執事。
司祭。
親族席の女。
それぞれの足元に落ちた影の端から、細い糸が伸びている。
そのすべてが、ルーカスの影の周囲で絡まっていた。
「対象者本人に嘘痕なし」
セラは言った。
「それは正しい」
黒糸が、彼女の指先に集まっていく。
「命令痕なし」
糸が震える。
「それも正しい」
ルーカスの表情から、わずかに色が消えた。
「ですが」
セラは笑った。
「黙らされた言葉が、多すぎる」
影写盤の奥から、少女の声がした。
「兄様は、嘘をつきません」
審廷が凍りついた。
ルーカスの顔が、初めて歪む。
ノアのペン先が、紙の上で止まった。
セラだけが、微笑んでいた。
「ええ」
彼女は黒い糸を指に巻いた。
「だから今日は、嘘ではなく沈黙を縫います」




