落第記録官②
ノアは少しだけ肩の力を抜いた。
「あの、セラ・ノクス様でよろしいでしょうか」
「様はいらない」
「では、ノクス補修官」
「セラでいい」
「いえ、さすがにそれは」
「記録しづらいなら、好きに呼んで」
セラは針を抜いた。
黒い糸がすっと盤に沈み、亀裂が見えなくなる。
割れていたはずの影写盤は、最初からそうであったかのように、滑らかな黒へ戻っていた。
ノアは目を見開く。
「直った……」
「割れ目だけ、ね」
「え?」
「嘘の位置は、まだ戻っていない」
セラが盤に指を置いた。
すると、盤の上に薄い影が浮かんだ。
男の影だった。
口を開いている。
何かを言っている。
声は聞こえない。
ただ、影の胸元に小さな裂け目がある。
ノアにも、それだけは見えた。
「あ」
「今のは見えた?」
「はい。胸のあたりに、傷が」
「嘘痕」
セラは言った。
「この男は、証言の途中で嘘をついた」
「はい」
「でも、裁定録には腹部と書かれている」
セラは棚から一束の古い記録を取った。
たしかに、そこにはこう書かれていた。
【対象者の腹部影に嘘痕あり】
「本来は、胸部影です」
「位置が違うと、何か問題があるんですか」
「大あり」
セラは記録を机に戻した。
「腹部なら金銭に関する嘘。胸部なら誓約に関する嘘。この裁定は、たぶん間違っている」
ノアは言葉を失った。
古い記録。
終わった審理。
もう誰も見返さないような影写盤。
そこに残った小さな位置のずれで、裁定の意味が変わる。
「でも、それなら再審になるのでは」
「ならない」
「なぜですか」
「私が見つけたから」
セラはあっさり言った。
ノアは意味が分からず、瞬きをした。
「見つけたから、ですか」
「第七等補修係の見立てに、正式な裁定効力はない」
セラは割れ目の消えた影写盤を棚へ戻した。
「ここで何かを見つけても、上は記録の乱れとして処理する。補修係の私見。古い盤の劣化。裁定済み案件への不要な干渉」
「そんな」
「そんなものよ」
怒っている様子はなかった。
諦めているようにも見えない。
ただ、当たり前のことを言っているだけだった。
ノアは棚に並ぶ影写盤を見た。
どれも終わった事件のものだ。
裁かれた人。
裁かれなかった人。
正しかった記録。
間違っていたかもしれない記録。
その残骸が、この部屋に積まれている。
「では、僕は何を記録すればいいんでしょうか」
「全部」
「全部?」
「見たもの。聞いたもの。分からなかったもの。私が言ったこと。あなたが疑問に思ったこと。影写盤に出た変化。出なかった変化」
セラは机の引き出しから、一冊の黒い帳面を取り出した。
表紙には何も書かれていない。
古い革の帳面だった。
「これを使って」
ノアは両手で受け取った。
思ったより重い。
中を開くと、白い紙が並んでいた。
罫線もない。
印もない。
ただ、真っ白だった。
「様式は」
「ない」
「裁定録には指定様式があります」
「ここでは足りない」
「足りない?」
「指定された欄に入るものだけなら、誰でも書ける」
セラは立ち上がった。
長い黒衣の裾が、床に落ちた影と重なる。
「私の記録係をするなら、欄の外にあるものを書きなさい」
ノアは帳面を見下ろした。
欄の外。
そんなものを記録していいのだろうか。
裁定録は、決められた形式で残すものだ。
いつ、どこで、誰が、何を言い、どの影にどの嘘痕が出たか。
余計なことを書けば、記録の信頼性が落ちる。
そう教わってきた。
けれどセラは、余計なものこそ書けと言っている。
何を信じればいいのか分からなかった。
その時だった。
窓の外で、黒い鳥の羽音がした。
ノアは顔を上げる。
細い窓の隙間から、黒い紙片が一枚、滑り込んできた。
影審局の通達符。
緊急案件や出廷要請に使われる魔法紙だ。
紙片は空中で一度だけ震え、セラの前に落ちた。
セラはそれを拾い上げる。
黒い紙面に、白い文字が浮かんでいた。
【補修立会要請】
【エイムズ伯爵家公開影審】
【影写盤に軽微な乱れあり】
【第七等補修係一名、記録補助一名】
「公開影審……」
ノアは声を漏らした。
公開影審。
貴族や監察官、関係者の前で行われる影の裁判だ。
通常の審理よりも形式が重く、失敗すれば影審局そのものの信用に関わる。
落第したその日に、行くような場所ではない。
「エイムズ伯爵家って、今日の家督裁定ですよね」
「知っているの?」
「局内で噂になっていました。妹君が心を病まれて、当主資格を失ったとか。兄君が家督を継ぐための確認審理だと」
「よく知っている」
「記録課の資料整理で、少し見ました」
エイムズ伯爵家。
数年前に先代当主が急死し、家督の継承が揉めていた名家だ。
本来なら、長女リディアが継ぐはずだった。
だが彼女は父の死後、錯乱したとされ、現在は屋敷の離れで療養中。
代わって兄のルーカスが家督を継ぐ。
今日の公開影審は、そのための最終確認だったはずだ。
「でも、なぜ補修係が呼ばれるんですか」
「通達に書いてある」
「軽微な乱れ、ですよね」
「そう」
「公開影審なら、本来は第二等以上の影読官が立ち会うはずです。補修係が出るのは、盤の破損か、記録欠けがあった場合だけで」
「そう教わったの?」
「はい」
「なら、今日はそれ以外を覚える日ね」
セラは黒い手袋をはめ直した。
銀の指貫が、灯を受けて小さく光る。
「支度して」
「僕も行くんですか」
聞いた瞬間、自分でも情けないと思った。
記録係なのだから、行くに決まっている。
けれど公開影審だ。
しかも、エイムズ伯爵家の家督裁定。
監察官も来る。
貴族も来る。
局の上位職員もいる。
そんな場所で、自分に何ができるのか。
セラはノアを見た。
その目は黒かった。
影写盤の表面よりも、ずっと深い黒。
「あなたは記録係でしょう」
「ですが、僕はまだ配属されたばかりで」
「配属されてる」
「公開影審の経験もありません」
「経験になる」
「影も読めません」
「読まなくていい」
セラは机の上の黒い帳面を指さした。
「書きなさい」
ノアは帳面を抱えた。
重さが、腕に沈む。
「何を書けば」
「見たもの」
「分からなかったら」
「分からないと書きなさい」
「間違えたら」
「訂正しなさい」
「もし、僕の記録で迷惑をかけたら」
「ノア」
初めて、名前を呼ばれた。
ノアは口を閉じる。
セラは扉へ向かいながら言った。
「間違えてもいい」
黒い裾が、床の影を払う。
「分からなくてもいい」
ノアは、なぜか息を止めていた。
「でも、書きなさい」
セラは振り返った。
その口元に、ほんの少しだけ笑みがあった。
優しい笑みではない。
悪人が見たら、たぶん逃げ出したくなるような笑みだった。
「ここから先は、誰にも消させないために」
ノアは返事をしようとした。
けれど声が出なかった。
代わりに、黒い帳面を強く抱え直す。
「……はい」
ようやく、それだけ言えた。
セラは頷かなかった。
褒めもしなかった。
ただ扉を開け、北棟の薄暗い廊下へ出ていく。
ノアはその背中を追った。
廊下の灯が、二人分の影を石床に落とした。
一つは長く、迷いなく前へ伸びている。
もう一つは、少し遅れて、頼りなく揺れていた。
その時のノアはまだ知らなかった。
これから向かう公開影審で、嘘は一つも見つからない。
影写盤は、誰の嘘痕も映さない。
証言は正しく、手続きも正しく、兄は一度も嘘をつかない。
だからこそ。
その場にいる誰もが、彼を裁けない。
セラ・ノクスを除いては。




