落第記録官①
嘘をついた者の影には、傷が残る。
この国では、そう信じられている。
いや、実際に、残ってしまう。
床に落ちた影。
壁に伸びた影。
灯の下で揺れる影。
そこに刻まれた小さな傷を読み取れば、その者が嘘をついたかどうか分かる。
影審局は、その傷を裁判の証拠にする役所だった。
貴族の相続。
婚約の誓い。
聖職者の資格。
商会同士の契約。
時には、王族の宣言さえも。
人の言葉は曲がる。
証言は買える。
紙の記録は燃やせる。
けれど、影だけは残る。
少なくとも、ノア・リヴェルはそう教わってきた。
「影読適性、低」
試験官の声が、石造りの試験室に落ちた。
「嘘痕識別、不可」
ノアは膝の上で拳を握った。
「裁定判断、不可」
三つ目で、もう顔を上げられなかった。
嘘痕。
嘘をついた時に影へ残る傷のことだ。
影審局に勤める者なら、まずそれを読めなければならない。
誰の影に傷があり、誰の影に傷がないか。
その傷がどの言葉についたものか。
どの証言が裁定に使えるか。
それを見抜くのが、影読官。
そして、ノアにはその才能がなかった。
「裁定録作成、不可」
試験官が、最後の紙をめくった。
そこには、ノアの書きかけの模擬裁定録が置かれていた。
文字は途中で止まっている。
インクは乾いていた。
紙も破れていない。
けれど、最後の一文だけが黒くにじみ、そこから先は何も書かれていなかった。
「また途中で筆が止まったな」
試験官がため息をつく。
「申し訳ありません」
「書式は教えたはずだ。対象者名、影写盤の結果、証言要旨、裁定所見。順に写すだけだろう」
「はい」
「なぜできない」
ノアは答えられなかった。
なぜ、と聞かれても分からない。
最初は書ける。
対象者名も、審理番号も、証言要旨も書ける。
けれど、ある一文に差しかかると、急に手が止まる。
書かなければならないと分かっている。
教本通りに写せばいいと分かっている。
なのに、ペン先が紙に沈んだまま動かなくなる。
無理に書こうとすると、文字が黒く潰れた。
まるで紙の方が、その一文を拒んでいるように。
だが、そんなことを言えば、余計に笑われるだけだった。
「記録補助のみ可」
最後の一言だけが、情けのように残された。
記録官。
影審で起きたことを、裁定録として残す者。
影を読む者ではない。
裁く者でもない。
見たものを、聞いたものを、決められた形式で書くだけの役目。
それすら、ノアは満足にできなかった。
同期たちが笑った。
「影が読めない影審官なんて、ただの筆と同じだろ」
「筆に失礼だ。筆は役に立つからな」
「しかも、その筆、途中で詰まるからな」
ノアは言い返せなかった。
言い返せるほどの点数ではなかった。
その日、ノアに渡された配属辞令には、こう書かれていた。
【配属先:第七等補修係】
【担当:セラ・ノクス】
【職務:裁定録補助】
第七等補修係。
壊れた影写盤や、破れた影の記録を直すだけの部署。
影写盤とは、人の影を映す黒い盤のことだ。
嘘痕を見つけるために、裁判や誓約の場で使われる。
その盤が割れた時。
記録に乱れが出た時。
終わった審理の影が欠けた時。
補修係が呼ばれる。
つまり、裁く側ではない。
片づける側だ。
「お似合いだよ、リヴェル」
同期の一人が、辞令を覗き込んで笑った。
「影を読めない落第記録官と、影を縫うだけの無能魔女」
ノアは辞令を握りしめた。
影を縫うだけの無能魔女。
それが、セラ・ノクスの呼び名だった。
影審局の本館は、いつも灯が多い。
裁定官たちが歩く中央廊下には白い石が敷かれ、壁には歴代局長の肖像が並んでいる。影読官の詰所には銀縁の影写盤が置かれ、見習いたちはそこで毎朝、嘘痕を読む訓練を受ける。
ノアも昨日までは、そこにいた。
いや。
正しくは、そこに立つことを許されていた。
今日からは違う。
第七等補修係は、本館の奥ではなかった。
渡り廊下を抜け、古い階段を下り、北棟の端へ向かう。
天井は低くなり、窓は小さくなり、灯の数も少なくなった。
途中で何人かの職員とすれ違ったが、誰もノアを見なかった。
見ないふりをしているのではない。
最初から、そこに人がいると思っていない。
そんな目だった。
北棟の廊下には、雨の匂いが残っていた。
外は晴れているはずなのに、石壁の奥だけが湿っている。
古い影写盤を保管する場所は、どこもそうだ。壊れた影は乾きにくい、と聞いたことがある。
廊下の突き当たりに、扉があった。
黒ずんだ木製の扉。
札には、かすれた文字でこう書かれている。
【第七等補修係】
その下に、小さく。
【影記録補修室】
ノアは立ち止まった。
辞令を持つ手に汗が滲んでいる。
ここに入れば、自分はもう影読官の見習いではなくなる。
落第記録官。
影を読めないまま、影審局の隅で壊れた記録を直すだけの人間になる。
それでも、辞令は辞令だった。
逃げる場所はない。
ノアは指を曲げ、扉を叩いた。
「入って」
中から女の声がした。
低くも高くもない。
ただ、妙に静かな声だった。
「失礼します」
ノアは扉を開けた。
部屋の中は、思っていたよりも広かった。
けれど、物が多すぎる。
棚には黒い円盤が何枚も立てかけられ、木箱には割れた影写片が詰められている。壁際には記録束が積み上がり、紐で縛られた古い裁定録が山のようになっていた。
部屋の中央に、大きな机がある。
その前に、魔女が座っていた。
黒い服。
黒い手袋。
銀の指貫。
長い髪は夜のような色で、顔立ちは整っているのに、どこか人形めいて見えた。
机の上には、割れた影写盤が一枚。
その亀裂を、彼女は黒い糸で縫っていた。
針が通るたび、盤の表面に薄い影が揺れる。
布ではない。
紙でもない。
硬い黒硝子のような盤面に、針が沈んでいく。
ノアは息を止めた。
影写盤を縫っている。
本当に。
噂で聞いたままの光景だった。
「新しい記録係?」
魔女は顔を上げずに言った。
「は、はい。ノア・リヴェルです。本日付で、第七等補修係に配属されました」
「そう」
短い返事だった。
歓迎の言葉ない。だが、拒絶もない。
ただ、そこに事実が一つ増えただけのような声。
ノアは辞令を差し出した。
「あの、こちらが配属辞令です」
「机に置いて」
「はい」
ノアは言われた通り、机の端に辞令を置いた。
魔女はそれを見なかった。
針が、また影写盤に沈む。
黒い糸が亀裂を塞いでいく。
盤の表面で、ぼやけた人影が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
「あの」
「何」
「それは、何をしているんですか」
聞いてから、失礼だったかもしれないと思った。
補修係に来て、補修作業を見て、何をしているのかと聞く。
間の抜けた質問だ。
けれど魔女は怒らなかった。
「嘘の位置がずれている」
「嘘の位置、ですか」
「この盤で読めるはずだった嘘痕が、裁定録と合っていない」
魔女は針を止めた。
「だから、縫い直している」
ノアは盤を覗き込んだ。
何も分からなかった。
黒い盤。
細い亀裂。
揺れる影。
それだけだ。
どこに嘘があるのか。
何がずれているのか。
なぜそれが分かるのか。
何一つ、見えない。
「分かりません」
思わず、本音が出た。
魔女の指が止まった。
ノアは慌てて頭を下げる。
「すみません。僕は、影読適性が低くて、その、嘘痕の識別も」
「知っている」
魔女は淡々と言った。
「辞令に書いてあった」
「読んだんですか」
「どんな奴かくらい、事前に知らせは来るもの」
ノアはセラを見た。
魔女の視線は、まだ影写盤に落ちたままだった。
「影は読めない?」
「……はい」
「裁定判断も苦手?」
「はい」
「模擬裁定録では、筆が止まる?」
ノアは顔を上げた。
「なぜ、それを」
「辞令に添付されていて当然でしょう、そんな分かりやすい欠陥品」
「そんなことまで」
「黒くにじんだ紙も一枚」
ノアは喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
あの失敗した答案まで送られてきたのか。
落第の証拠として。
この部署でも、最初から使えない人間だと分かるように。
「見苦しいものをお見せしました」
「見苦しい?」
「はい。書式も守れず、途中で止まってしまって」
「あなたは、あの一文を書こうとした?」
「しました」
「なのに書けなかった?」
「はい」
「書く内容は分かっていた?」
「分かっていました。教本の例文を写すだけでしたから」
「でも、止まった」
セラはそこで初めて顔を上げた。
黒い瞳が、まっすぐノアを見る。
「それは、よくあること?」
「……はい」
「いつも同じ場所で?」
「同じ、というより」
ノアは少し考えた。
「うまく言えません。けれど、書いている途中で、急に……その文を続けてはいけないような気がして」
「気がする」
「はい。理由はありません。自分でも、ただの思い込みだと思います」
「文字は?」
「にじみます。無理に書くと、黒く潰れて」
「紙に点が出る?」
ノアは息を呑んだ。
「出ます」
「そう」
セラは短く言った。
それ以上は何も言わなかった。
「何か、ご存じなんですか」
「まだ」
「まだ?」
「確認していない」
セラは視線を影写盤へ戻した。
「字は書ける?」
「はい」
「聞いたことを抜かさず書ける?」
「努力はしています」
「自分の分からないことを、分かったふりせずに書ける?」
ノアは口を閉じた。
それは、試験では聞かれなかった。
影が読めるか。
嘘痕が分かるか。
裁定に必要な証言を選べるか。
聞かれたのは、いつもそういうことだった。
分からないものを、分からないまま残せるか。
そんな能力に、点数がついたことはない。
「……多分、できます」
「多分?」
「まだ、分かりません」
セラはそこで初めて、わずかに口元を動かした。
笑った、のかもしれない。
けれど、優しい笑みではなかった。
暗い水面に灯が落ちたような、静かな笑みだった。
「なら、ちょうどいい」
「ちょうどいい、ですか」
「読める人間は、見たいものを先に見る」
セラは黒い糸を指先に巻いた。
「あなたは読めない。だから、見たものを書くしかない」
「それは……褒めていますか」
「職務説明」
褒められてはいなかった。
それでも、笑われるよりはましだった。




