聖人様の影①
「所有印、ですか。児童に」
ノアは、机の上に置かれた黒い紙片を見下ろした。
補修室の窓はまだ朝の色をしている。
前日の公開影審で使った帳面は、セラの机の端に置かれていた。黒い枠と、裂け目のような印は、清書したあとも薄く残っている。
その隣に、新しい通達符が一枚。
【補修依頼】
【聖ルメリア孤児院】
【寄付式用影写盤に異常】
【救済事業代表者の影に、児童複数名の所有印らしき反応あり】
ノアは、最後の一文だけをもう一度読んだ。
所有印。
物品や家畜に刻まれる影の印。
契約上の所有者、移送権、売買記録、担保設定。
そういうものが、まれに影写盤へ残る。
少なくとも、影審局の講義ではそう習った。
人に、まして子供に出るものではない。
「誤作動、でしょうか」
ノアが言うと、セラは紙片を指先で押さえた。
「そうなら、補修です」
「そうでなければ」
「裁定の前段階です」
セラはいつものように短く言った。
黒い糸が、彼女の指に巻かれている。
昨日、第三審廷で影を縫った時と同じ糸だ。光を吸うような黒で、細いのに、見ているだけで喉の奥が冷える。
ノアは息を吸った。
机の引き出しから帳面を取り出す。
前よりも少しだけ早く、ペンを持った。
「記録します」
セラの目が、ほんのわずかに動いた。
「まだ何も見ていません」
「だから、見ていないことを」
ノアは帳面を開いた。
ペン先が紙に触れる。
――聖ルメリア孤児院寄付式用影写盤につき、補修依頼あり。
――救済事業代表者の影に、児童複数名の所有印らしき反応があるとの通達。
――現時点で、所有印であるとは確認できない。
――誤作動の可能性あり。
最後の一文を書いた時、紙の端に小さな黒点が浮いた。
ノアの指が止まる。
「……足りませんか」
黒点は沈まない。
昨日までなら、そこで怖くなっていた。
筆が止まった理由を、間違いだと思っていた。自分が鈍いから、自分が影を読めないから、また何かを失敗したのだと思っていた。
でも、今は違う。
ノアは黒点を見つめたまま、ゆっくり続けた。
――児童本人の所在、同意、契約内容、移送記録は未確認。
――現地で確認を要する。
黒点が、紙の奥へ沈んだ。
セラが、小さく笑った。
笑った、というより。
刃物の角度が変わったような顔だった。
「覚えが早いですね」
「早い、でしょうか」
「前回よりは」
それは褒め言葉なのか判断しづらかった。
だが、ノアは少しだけ肩の力を抜いた。
セラは通達符をたたみ、立ち上がる。
「行きます」
「はい」
「今回は、公開の裁きではありません。寄付式です」
「寄付式……」
「孤児院を救った聖人様を、皆で褒める日です」
セラは扉へ向かう。
ノアは帳面と予備の紙束を鞄に入れた。
前回より重く感じなかった。
軽くなったわけではない。中身は同じだ。紙も、ペンも、影審局の記録官章も。
ただ、自分が何を持っているのかを、少しだけ分かっていた。
「セラさん」
「何ですか」
「所有印が本当に出ていた場合、子供たちは……」
言いかけて、ノアは口を閉じた。
セラが振り返る。
「分からないことは」
「分からないと書く」
「はい」
それだけ言って、セラは廊下へ出た。
聖ルメリア孤児院は、王都の北区にあった。
白い石壁。
尖塔のある小さな礼拝堂。
門には花飾りが掛けられ、庭には寄付者たちの馬車が並んでいる。
孤児院というより、祝典会場に見えた。
門前では、子供たちが揃いの服を着せられていた。
薄い灰色の上着に、白い襟。
靴は磨かれている。
髪も整えられている。
けれど、列の後ろにいた小さな男の子だけが、何度も足首を気にしていた。
掻く。
袖で隠す。
また掻く。
ノアは思わずそこを見た。
何も見えない。
影は、ただ地面に落ちているだけだ。
黒くて、薄くて、輪郭が揺れているだけ。
ノアには、やはり影の意味は読めなかった。
「見えません」
小さく言うと、セラは前を向いたまま答えた。
「見えたふりをしないなら、それでいいです」
「はい」
「でも、気にしたことは書けます」
ノアは立ち止まりかけた。
すぐに帳面を開く。
――門前に児童複数名。
――揃いの服、整えられた髪、磨かれた靴。
――列後方の男児一名、足首を繰り返し気にする。
――影の異常は、記録官ノア・リヴェルには判別不能。
ペンは止まらなかった。
庭の中央には、大きな影写盤が設置されていた。
寄付式用の簡易盤だ。透明な黒硝子のような円盤で、寄付者と代表者の影を映し、救済事業が正当なものかを確認するためのもの。
善行に嘘が混じっていないことを、皆の前で示す。
そういう名目の道具だった。
盤の前に立つ男がいた。
四十代ほど。
柔らかな金髪を後ろへ撫でつけ、白い外套を着ている。
胸元には、聖ルメリア孤児院の救済章。
彼が笑うと、周囲の寄付者たちも安心したように笑った。
「本日は、子供たちの未来のためにお集まりいただき、心より感謝いたします」
声はよく通った。
「彼らには、食事を。寝床を。教育を。そして、働く場所を。飢えず、凍えず、道端で死なずに済む人生を、我々は与えたいのです」
拍手が起こる。
子供たちは、教えられたように頭を下げた。
ノアの隣で、セラが静かに立っている。
「聖人様ですね」
ノアは思わず呟いた。
「そう呼ばれています」
「セラさんは、そう思いませんか」
セラは答えなかった。
ただ、影写盤の右下を見ていた。
そこだけ、黒が濁っている。
水に墨を垂らしたように。
薄い線が、盤の底を這っている。
代表者の影からではない。
子供たちの足元から、細い糸のようなものが伸び、盤の右下で絡んでいる。
ノアには、意味は分からない。
だが、気持ちが悪かった。
美談の拍手の下で、何かが小さく擦れている。
「補修係の方ですね」
近くにいた影審局員が声をかけてきた。
青い章をつけた第三等影読官だった。
「聖ルメリア孤児院の件は、寄付式用盤の軽微な濁りです。式の進行に支障はありません」
セラは軽く頭を下げた。
「補修依頼を受けています」
「ええ。ですから、式後に盤面を整えてください。来賓も多い。妙な騒ぎにしないようお願いします」
第三等影読官の目が、ノアの章へ流れた。
見習い記録官。
しかも第七等補修係付き。
言葉にはされなかったが、何を思われたのかは分かった。
ノアは帳面を抱え直した。
セラは影写盤を見たまま言う。
「この濁りは、盤面ではありません」
「何ですって」
「子供たちの影から来ています」
第三等影読官の眉が動いた。
「軽率な断定は控えてください。今日は救済事業の寄付式です」
「断定はしていません」
セラは淡々と言った。
「だから補修します」
彼女の指から、黒い糸が落ちた。
地面に触れる前に、糸は影の中へ沈む。
子供たちの足元にある薄い影が、ぴくりと震えた。
その瞬間、庭の拍手が少し遠のいた気がした。
影写盤の右下に絡んでいた線が、一本ずつ浮かび上がる。
細い。
古い。
途中で切られ、結ばれ、別の影に縫い込まれている。
セラは微笑んだ。
「きれいに整えていますね」
「何を……」
「救済の影です」
セラは代表者の方を見る。
白い外套の男は、まだ笑っていた。
子供たちの未来を語っている。
温かな食事、清潔な寝台、読み書きの教育、働く場所。
その言葉の一つ一つに、嘘痕は出ていない。
ノアにも分かった。
影写盤の中央は澄んでいる。
代表者本人の影には、傷がない。
彼は嘘をついていない。
「ノア」
セラが呼んだ。
「はい」
「書けますか」
手が震える。
でも、ノアはペンを抜いた。
「はい」
帳面を開く。
影写盤の右下で、黒い糸がほどけていく。
子供たちの足元に、小さな印が浮かび始めた。
輪。
数字。
商会印。
金額。
足首に巻かれた、見えない札のように。
ノアは息を止めた。
子供たちは何も知らない顔で、拍手の中に立っている。
ただ一人、列の後ろの男の子だけが、また足首を掻いた。
セラの声が、静かに落ちた。
「売る前に食べさせれば、救ったことになると思う人はいます」
黒い糸が、もう一度影の中で光った。
「今日は、その救済を縫いましょう」
ノアは震える手で、最初の一行を書いた。
――聖ルメリア孤児院寄付式用影写盤、右下に濁りあり。
――濁りは代表者本人の影ではなく、児童複数名の足元の影より接続。
――児童の足首位置に、札状の影反応あり。
――記録官ノア・リヴェルは、現時点で所有印と断定できない。
――ただし、商会印、数字、金額に類似する影反応を確認。
紙の上に、黒点が浮いた。
昨日よりも多い。
けれどノアは、ペンを離さなかった。




