神の再臨
双眼鏡が映す光景はあまりにも信じられないものだった。
牛馬によって四方八方へ、無惨に引きちぎられたはずの肉体が再生していく。
ちぎれた四肢がひとりでに動き、胴に吸い寄せられるようにして徐々に接合されていく。飛び散ったはずの血液でさえ意思を持つように動き、急速に回収される。ドレスに血汚れ一つ残さない。
牛馬の尻を鞭で叩いていた処刑人が愕然とする中、四肢を取り戻した彼女は凛として地面に横たわっていた。無表情にすべてを睥睨するさまは紛れもなく上位者のそれ。
「あ、あ……!!」
これが神の寵愛か。それを目の当たりにして、フリューゲル卿はただ狼狽えた声を漏らすことしかできない。
誰が言ったか、駒鳥姫は替え玉だという疑惑を信じ切ったわけではない。本物だろうが偽物だろうがどうでもよかった。処刑という行為をもって神への決別とする目的さえ果たせれば、その真贋は二の次だったので。偽物ならそのまま無惨な死体を晒すだろうし、本物ならば生き返るのだろう、とぼんやりとそう思っていたくらいだ。
その曖昧な認識にはっきりと神の存在が叩きつけられる。駒鳥姫の肉体が再生していく。
技術が発展し、知識が増え、人体構造が解明されたからこそわかる。人間は怪我をしても免疫のはたらきで治癒するが、免疫はこのようにして人体を再生しない。それができるのは人知を超えた神の仕業である。
そして今、自分は神の奇跡を目の当たりにしている。人間の医療技術ではちぎれた四肢をつなげることはできない。その傷口を止血し、義手や義足を用意することくらいだ。止まりたての心臓に衝撃を与えて再稼働させることがせいぜいで、あんなふうに引きちぎれた無惨な死体を再生することなどできない。
今後どのように医療技術が発展したとしてもあの領域には達せない。仮に、優れた医療技術で四肢を接続できるようになったとしても、ちぎれた四肢がひとりでに動いて胴に合流するなどできはしない。人間には不可能な領域だ。
人間の蘇生など、人間ができるわけがない。それができるのは神だけ。いくら技術が発展しようと、決して届かない領域の仕業だ。
知識ではない。本能の部分で理解する。技術の発展がなんだ、神の前では何の意味もない。我々が100年かけて血眼になって積み上げて開発しても届かない行為を、神は瞬きひとつの間に気まぐれで起こせるのだ。
駒鳥神からの独り立ち、支配からの脱却、革新などただの幻想。いや、神はそれすらも見越しているのかもしれない。すべては駒鳥神の手の上で、我々人間はその手の上で右往左往するだけの哀れな生き物なのだ。あぁ、愚かな人間の右往左往は神にとってさぞ楽しい見世物だったろう。
「あぁ……俺達はなんて愚かな……!!」
神への反抗心など忘れ、畏怖と恐怖に塗り潰される。矮小な人間のくせに何を思い上がったことをしていたのだと、つい数時間前の自分を殺したくなる。なんと愚かだったろう。なんと馬鹿だったのだろう。神と人間の差を思い知らされていく。
ただ神の奇跡を見ただけで、今更こうも簡単に手のひらを返すのか。あの革新派の中でも過激なフリューゲル卿が、と急な反転を笑う者もいるだろう。だが、これは実際に目の当たりにしなければわからないだろう。そして見た者は同じように膝を折るはずだ。
知識も技術も超越し、本能、それも生存本能で理解する。『これ』は人間にどうこうできるものではなく、従うしかないのだと。かつての建国の先祖もまた同じ気持ちだったのだろう。それと同じ感慨を抱けることに感謝すらある。
で、あるならば。この運命もまた受け入れなければならない。
エドアルド・フリューゲルは物見塔の壁を打ち壊して現れたものに叩頭する。
「あなたがわたしのロヴィーナを殺したのね?」
愛しい眷属を無惨に殺されて激昂するロビンオレンジ色の大鳥へ。




