第二十一話 白亜の奇跡
それは、私の意志とは無関係に「視えて」しまうものだった。
宮殿の回廊へ踏み出した瞬間、視界は極彩色の亀裂に侵食される。他人の目には豪奢な大理石に見えるであろう床が、私の足裏に触れるたび、青白い燐光を放って波打つ。それは祝福の光などではない。この空間の「正しさ」を維持するために注ぎ込まれた魔力の残滓が、逃げ場を失って床下でのたうち回っている、その歪な圧の輝きだ。
無機質な石の壁からは、塗り込められた古い沈黙が絶え間なく染み出し、私の肌を冷たく刺す。世界は、音を立てていた。物理的な振動ではない。万物がその本質を露呈させまいと必死に「嘘」を記述し続ける、その絶え間なき摩擦音が、私の鼓動を劈いていく。
「……お似合いです、セリーナ様。貴女は、誰よりもこの色に相応しい」
隣を歩くリリアが、私の視線を受け止めるように低く囁いた。鏡の中の私は、夜に降る雪を固めたような、透き通る白のドレスに身を包んでいる。旅の道中で変質した、数条の白銀の髪。金色のなだらかな流れの中に混じるその無機質な輝きは、リリアの手によって巧妙に編み込まれ、真珠の滴とともに私の「変異」を静かに象徴していた。
私は、自分が生きながらにして、この宮廷と同じ「静止」の側へ足を踏み入れつつあることを、鏡の中の他人事のように自覚する。
晩餐会の扉が開いた瞬間、私の五感は、圧倒的な「腐敗」を捉えた。
視界に飛び込んできたのは、煌びやかな衣装を纏った人間たちの群れではない。それは、己の欲望と恐怖を「虚飾」という名の硬い殻で覆い隠した、標本たちの展示会だった。魔導士団の幹部たちは、瞳の奥に知識への飢えという澱んだ光を宿し、騎士団長はその剛健な体躯を誇示しながらも、その魂の律動は凋落への怯えを隠しきれずに刻んでいる。
彼らが向けてくる社交辞令は、私の耳にはすべて意味を剥奪されたノイズとして処理された。だが、私はかつての級友たちに向けていたような冷めた視線を、今はもう選ばない。彼らがどれほどの「嘘」を重ねようとも、その底にあるのは、明日をも知れぬ帝国への、ひどく人間らしい恐怖であることを知ってしまったからだ。
私は、隣に座るリリアの確かな体温と、運ばれてきた食事の「物質としての重み」だけを座標に、静かに微笑を湛える。
上座。そこには、一人の彫像がいた。レオニス。私は、あの一通の手紙の文字を、脳裏の暗闇で反復する。
『我が国は死にかけている。我々に必要なのは、既存の理を超える、制御不能な「災害」だ』
『来い、鳥籠の姫君。君のそのデタラメな奇跡で、私の死にゆく国を蹂躙してくれ』
――蹂躙。
それは、秩序ある者が最も忌むべき言葉のはずだ。なのに、彼は私にそれを求めた。既存の理を、この美しくも空虚な宮廷の作法を、そして彼自身が演じている「皇帝」という役割さえも、すべてを踏み荒らし、破壊する「災害」になれと。
グラスに注がれた深紅の液体越しに、レオニスの横顔を射抜く。彼が纏う仮面には、目に見えないほど微細な亀裂が走っていた。その亀裂から漏れ出す「音」が、私の頭の中で荒れ狂う。
――蹂躙、蹂躙、蹂躙。
「ウィス王女。少し、お疲れではございませんか?」
不意に横から差し伸べられた声は、春の陽光のような危うい軽やかさを帯びていた。隣に座る魔法学園理事長の娘——まだ幼さの残る頬を薔薇色に染めた少女が、私を覗き込んでいる。彼女の瞳の奥には、親から課せられた野心と、自分を良く見せたいという健気な虚栄心が、薄い霧のように混じり合っていた。
「お気遣い、ありがとうございます。あまりに素晴らしいおもてなしに、少し胸が熱くなってしまいました」
私は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、音のない微笑を返した。彼女が纏う不安の波形が、私の言葉に触れて穏やかに凪いでいく。私は彼女の背景に、夜遅くまで礼儀作法を叩き込まれ、この場に立つために震える手を隠している、一人の少女としての軌跡を観測していた。
「それなら安心しました。……私、お聞きしたのです。ウィス王女殿下は遠い海を越え、船でいらっしゃったのでしょう? 私、一度でいいから船に乗って、水平線の先を見てみるのが夢なのです」
「ええ、船旅はとても素晴らしいものでした。朝霧の中に溶けていく港の風景や、夜の海が歌うような波音……。いつか貴女も、その目でご覧になれる日が来ますわ。その時はきっと、私が感じたよりもずっと美しい色を、貴女の瞳は見つけ出すことでしょう」
淀みなく、かつ相手を敬う完璧な受け答え。私の喉から出る言葉は、この場の「嘘」を暴くためではなく、彼女という存在を肯定するために響く。少女の表情が、一瞬にして輝きを増した。彼女は自らの競争心さえ忘れ、私の言葉が紡ぐ風景に夢中になっている。その無垢な喜びの音階が、晩餐会の不協和音を一時的に和らげていく。
「素敵……! あ、それから、あのアストレイア学園のことも教えていただけませんか? 私たちの憧れなのです。あそこには、世界中から生徒が集まるのでしょう?」
「そうです。学園は、知識を蓄えるだけの場所ではありません。自分という楽器をどう鳴らすべきか、それを学ぶための静かな温室のような場所でした。貴女のように輝かしい志をお持ちの方なら、きっとあの庭に咲く花々も、喜んで迎えてくれるはずです」
私が彼女の手を優しく包み込むように言葉を置くと、背後でリリアの気配が微かに緩むのがわかった。彼女は聖騎士としての警戒を解かぬまま、私がこの宮廷の毒に染まらず、むしろその毒さえも浄化するように社交をこなす姿に、誇らしげな安堵を滲ませている。
視界の端で、エリアスがわずかに顎を引いた。かつての旅路で、私の危うい感性を誰よりも危惧していた彼は、今、この「社交」という戦場において、私がウィス王女としての責任を完璧に果たしている姿を観測している。彼が抱いていた懸念——私がこの場の異様さに当てられて、制御不能な「災害」として暴発するのではないかという疑念が、静かに霧散していくのが見て取れた。
「……王女殿下、私、貴女とお話しできて光栄です。皆様が仰るような、恐ろしい、不吉な『辺境の魔女』ではまったくないのですね」
ふわり、と場に場違いなほど無垢な声が響いた。少女の頬は葡萄酒の熱に赤らみ、その瞳はうっとりと、恋焦がれるような熱を帯びて私を見つめている。彼女は自分が何を口にしたのか、それが皇帝の御前でどれほどの不敬に当たるのかさえ、その陶酔の中に忘却しているようだった。
晩餐会場からすべての「音」が消えた。食器の触れ合う音も、遠くのさざめきも。ただ、急激に凍りついた空気の軋みだけが、私の鼓動を叩く。
隣に座るリリアの背筋が、鋼のように硬直するのがわかった。彼女の手がテーブルの下で、いつでも主を守るために動けるよう、微かな殺気を孕んで震えている。
エリアスの視線が、痛いほどの緊張を持って私を射抜いた。上座のレオニスは、微動だにしない。だが、彼から立ち上る「静止」の圧力は、会場全体の酸素を奪うほどに鋭利なものへと変質していた。
私は、手元のグラスを見つめた。注がれた深紅の葡萄酒。知識の書物には、「大地の血、太陽の結晶、発酵という名の時間の変質」と記されていた。唇を湿らせる。初めて触れるその味は、驚くほど多層的な「生命の記録」だった。
雨の匂い、土の湿り気、葡萄の皮を噛み砕いたときの苦み。それらが喉を通り、私の内側で「意味」へと変換されていく。
「海を越えてきた私には、そのように賑やかな噂が先に届いてしまうのも、無理のないことです」
私は絶やすことのない微笑みとともに、凍りついた少女の手をそっと包み込んだ。彼女を責めるためではなく、彼女が零した「毒」を、私の体温で溶かすために。リリアの指先の震えを、左手で静かに制する。ここで怒りや困惑を見せれば、この少女は一生消えない不敬の傷を背負うことになるだろう。それは私の望む「調和」ではない。
「貴女が夢見た水平線の先、私がこの手で少しだけ、お見せしてもよろしいかしら?」
私が空いた手を白絹のようなテーブルクロスの上へ、吸い込まれるように置いた瞬間だった。物理法則が、私の意思という「真実」に従って書き換えられる。
テーブルから、瑞々しい緑の蔦が音もなく芽吹き、瞬く間に少女のグラスを包み込んだ。会場中の視線が、呼吸を忘れて釘付けになる。蔦は見る間に成長し、その先端には、白亜の宮殿には存在し得ない、海の香りを孕んだ青い花が次々と開花した。
それだけではない。花弁が零れ落ちるたび、そこから微かな水飛沫が上がり、空中には光の屈折によって「幻の海」が揺らめき始めた。
「ああ……」
少女が感嘆の声を漏らす。彼女の瞳に映っているのは、私が船の甲板から観測した、あの永遠に続く蒼の世界。潮風の音さえもが、精霊たちの囁きとして会場を優しく包み込んでいく。
「噂の中の私は、確かに恐ろしい姿をしているかもしれません。でも、私が奏でる音は、こうして貴女の夢を彩るためにあるのですわ」
私は蔦から一輪の青い花を折り、うっとりと見つめる少女の髪に、そっと差し込んだ。その瞬間、宮殿を支配していた重苦しい緊張は、言いようのない「神性への畏怖」へと昇華された。
魔導士団の面々は、その術式さえ介さない純粋な奇跡を前に、己の無力さを悟ったかのように深く首を垂れる。レオニスの視線が、私を貫く。その瞳の奥にある亀裂が、今は「蹂躙」への予感ではなく、圧倒的な「聖女」に対する激しい渇望へと変わっていた。
「さあ、賑やかな夜を続けましょう。不協和音は、この海の調べがすべて飲み込んでくれましたから」
私は最後の一口の葡萄酒——大地の記憶——を飲み干した。少女は顔を赤らめたまま、まるで女神に触れられた信徒のような眼差しで私を見つめ続けている。リリアの緊張が、深い信頼を込めたため息へと変わり、エリアスが安堵とともに静かに眼鏡を直す。
私がこの帝国で行うのは、暴力による破壊ではない。こうして、人々の心にある「嘘」や「恐怖」を、それ以上の「真実の美しさ」で塗り替えていくこと。それが、ウィス王女である私の、慈悲に満ちた蹂躙なのだから。




