第二十話 鏡の中の沈黙
銀の櫛が、滑らかに私の髪を通り抜ける。微かな摩擦音だけが、高い天井に吸い込まれていった。
窓の外には、帝都の夜景が広がっている。しかし、そこにあるのは旅路で見てきた、薪の爆ぜる音や酔客の笑い声が混じる、あの愛おしい混沌ではない。等間隔に配置された魔導灯の列は、呼吸を忘れた巨人の歯並びのように無機質で、冷たい。
この宮廷には、風の気まぐれも、夜の湿り気さえも、誰かに管理されているような窮屈さが漂っていた。
「セリーナ様、少し……お痩せになりましたか?」
背後に立つリリアの声が、静寂に波紋を広げた。かつてアウグスト先生と共に数多の苦難を越えてきた彼女の声は、低く、深い慈愛を帯びている。昼間の謁見の間で耳にしたどの言葉よりも、その響きには確かな「命の重み」があった。
私は鏡越しに、私を護る近衛聖騎士の瞳を見つめた。
元は高貴な血を引くリリアの顔立ちは、峻厳な修行を積みながらも、どこか聖画の乙女を思わせる清廉な美しさを湛えている。洗練された教養と信仰に裏打ちされたその佇まいは、立場が違えば彼女こそが姫と呼ばれてもおかしくないほどに気高い。
この張り詰めた宮廷において、彼女の存在だけが、私を現実へと繋ぎ止める唯一の錨だった。
「……そうかしら。自分ではよくわからないけれど」
自分の声が、驚くほど乾いて響く。
脳裏には、数時間前の光景が焼き付いて離れない。皇帝レオニス・フォン・ヴォルルフ。アウグスト先生から聞かされていた、情熱ある若き王の面影を、私は彼の中に必死に探した。送られてきた手紙に溢れていた、あの大胆で、時に繊細な筆跡の揺らぎ。文字の端々に宿っていた、私を渇望する生身の「熱」。
だが、玉座に座っていた男の瞳は、磨き上げられた黒曜石のようだった。光を反射はするが、その奥に広がるはずの心を何一つ通さない。彼が発した歓迎の言葉。その響きには、命が持つはずの「余韻」が欠落していた。一音の狂いもなく並べられた、凍りついた儀礼の羅列。私の耳には、それが祝辞ではなく、完成された台本をなぞる虚無の調べにしか聞こえなかった。
「リリア。……陛下は、あの手紙の中ではもっと、笑っていたような気がするの」
私がぽつりと零すと、リリアの櫛を持つ手が止まった。鏡の中の聖騎士は、静かに瞼を伏せる。
「……陛下を取り囲む方々の視線が、あまりに冷たすぎます。特に、エリアス卿。旅の間は、私たちの歩幅を静かに見守ってくださっていたはずなのに。今のあの方は、まるで陛下の心を氷に閉じ込める儀式を司っているかのようで……。あんなに遠い方ではなかったはずです」
「ええ、そうね。……あの方は、何かを諦めてしまったのかしら」
私は視線を落とした。
謁見の間、レオニスの背後に控えていたエリアス・ヴァルト。冷徹ながらも確かな知性で一行を導いた彼は、今や魔導士団の要職として、ずっと遠い存在に思えた。彼が言葉を発するたび、世界の「色」が塗りつぶされ、レオニスの言葉さえも、帝国の規律という冷たい型に嵌められていく。
「リリア、手を」
促すと、リリアは静かに頷き、銀の櫛を置いて右手を差し出した。
私はその手を、両手で包み込む。幾多の祈りを捧げ、聖なる盾を掲げてきたリリアの手は、固く、そして驚くほど熱かった。アウグスト先生と共に死地を乗り越えてきた者だけが持つ、静かな覚悟の熱。その手のひらから伝わる、力強くも不揃いな鼓動。
私は深く息を吐き、その熱を自分の体内に取り込むように目を閉じた。
「……温かい。リリアだけが、私をここに繋ぎ止めてくれる。この熱こそが、本当の命の音だわ」
「セリーナ様……。私は騎士です。陛下の手紙にあった情熱が、この凍てついた宮廷のどこかにまだ残っていると信じたい。ですが、今のあの方は、脱ぐことのできない『皇帝』という重責に、その身を焼かれているように見えます。……それが、私には悲しいのです」
慈悲深く語るリリアの瞳には、皇帝を想う憂いが滲んでいた。私は目を開け、再び鏡を見た。壁に並ぶ歴代の皇帝たちの肖像画。どれもが威厳に満ちているが、私には見えてしまう。あれは肖像画ではなく、人間を記号へと変えていく、この場所の「呪い」の跡なのだ。
そのとき、部屋の隅で小さな衣擦れの音がした。影が動く。そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。エリアス・ヴァルト。扉を叩く音すらさせず、かつて旅を共にしたときと同じ、音のない気配でそこに佇んでいた。
「夜分に失礼。……セリーナ様、そしてリリア殿」
エリアスの声は、以前よりも低く、響きを抑えられていた。リリアが瞬時に立ち上がり、私を背に庇う。その一連の動作には、熟練の戦士だけが持つ無駄のない気高さがあった。
「エリアス卿。いくら閣下でも、深夜に王女殿下の私室へ立ち入るのは、近衛聖騎士として見過ごせません。……旅路での情誼があればこそ、今は警告に留めます」
リリアの毅然とした態度に対し、エリアスは表情を変えなかった。だが、その瞳の奥には、かつての旅の間に見せたあの冷徹さとは異なる、重苦しい沈黙が宿っていた。
「……無作法は承知している。だが、君たちが感じている『違和感』の正体を、伝えておく必要があると考えた。……セリーナ様。陛下は今、この国を繋ぎ止めるための『芯』として、自らの心さえも凍らせることを強いられているのだ」
エリアスが一歩前へ出た。その足音は、静寂に沈む部屋の中で、重く響いた。
「陛下は君を愛している。それは旅を共にした私が、誰よりも理解しているつもりだ。だが、愛ゆえに、君をこの『完璧な静止』の中に招き入れた。……君の歌声があれば、この帝国の崩壊をわずかでも先延ばしにできる。それが陛下の、そしてこの国の、残酷なまでの生存本能だ。手紙を書いていた頃の彼は、まだ『一人の男』でいられた。だが、玉座に座った瞬間、彼は『帝国』という怪物にならねばならなかった。……君なら、その『音』が聞こえるはずだ」
「……あの方は、あんなに冷たい言葉を望んでいらしたの?」
私は、リリアの肩越しにエリアスを真っ直ぐに見据えた。エリアスは微かに目を伏せた。
「望んだわけではない。だが、そう振る舞わねば、この宮廷を覆う『死の沈黙』に飲み込まれてしまうのだ。……セリーナ様、君が今見ているのは、陛下が死に物狂いで維持している『秩序』という名の仮面だ。私は、君をここに連れてきた責任がある。だからこそ言おう。今の陛下を救いたいと願うなら、君はその喉を、この静止を打ち砕くために使わねばならない。……かつてアウグストが、そうしたように」
エリアスは一歩下がり、以前よりも深く、懃に頭を下げた。
「お休みを。明日の晩餐会は、今日よりもずっと多くの『嘘』が君を囲むだろう。……リリア殿、手を休めるな。アウグストが君に託したのは、剣の技だけではないはずだ。その慈悲こそが、今の彼女には必要なものだ」
エリアスが影に溶けるように去った後、部屋には再び重苦しい沈黙が戻った。リリアの拳は、固く握りしめられていた。彼女は悔しさに唇を噛み締め、だがすぐに、私を安心させるように柔らかな表情を作った。私はそっと立ち上がり、リリアの背中にしがみついた。
「いいのよ、リリア。……その手の熱が、私には何よりも心強いの」
鏡の中の二人の影は、青白い月光に照らされて、静かに揺れていた。完璧な静止が支配する宮廷で、二人の小さな呼吸と、不揃いな鼓動だけが、消え入りそうな命の火を灯し続けていた。




