第二十二話 記述の剥落
葡萄酒の熱が、私の喉を滑り落ち、胃の奥で小さな波紋を広げていた。雨の匂い、湿った土、そして太陽に焼かれた皮の苦み。数百年分の記憶が液体という記述になって、私の血管へと流れ込み、視界の「彩度」を一段階跳ね上げさせていく。
――あら。世界が、少しだけ優しくなっているわ。
いつもは鋭い剃刀のように私を切り裂く世界の定義が、今夜は不思議と柔らかい。大理石の床に刻まれた『歴史』の文字が、水面に浮かぶ油膜のようにゆらゆらと踊り、シャンデリアの光は、無数の温かな金色の針となって私の網膜を心地よく撫でる。先ほど、少女の髪に差し込んだ青い花。その記述の残響が、まだ私の指先に微かな湿り気として残っていた。
「美しい奇跡だ。セリーナ姫」
上座から響いたのは、皇帝レオニス・フォン・ヴォルルフの、深く、落ち着いた声。若き皇帝としての鋭さと、国を背負う者特有の重みを知る者の響き。彼の瞳は、磨き上げられた黒曜石のように静かだったけれど。今の私には、その奥に潜む「静かな疲弊」が、古い書物の背表紙のように鮮明に視えていた。
「お褒めいただき嬉しいです。陛下。……この部屋の空気が、あまりに生真面目な『嘘』で固まっていましたから。……少しだけ、ほぐせたのなら幸いです」
私は、空になったグラスを卓上に置いた。トン、という澄んだ音が、晩餐会場の張り詰めた空間に通る。周囲の閣僚たちは、先ほどの「海の幻影」の畏怖に打たれ、私をただの少女ではなく、尊ぶべき「異界の聖女」として凝視していた。
「嘘、か。……お前が言うと、この宮殿のすべてが砂上の楼閣のように思えてくるから不思議だ。アウグストが、進んで君をここに送り出した理由……少しだけ、分かった気がする」
レオニスは、私を年若い客人として、慈しむような、けれどどこか「同類」を見つめるような眼差しで視ていた。彼が纏っている皇帝という名の冠。その一番深い階層に隠された、剥き出しの『渇望』というインクの匂い。あの日、私の元へ届いたあの「呼び声」と同じ匂いが、この至近距離では隠しようもなく漂っていた。
「陛下。……貴方のその冠は、少し、重すぎるのではありませんか?」
葡萄酒がもたらした微かな陶酔が、私の唇をより素直に、より危うく変えていく。私はリリアの制止の気配を無視し、彼へと僅かに身を乗り出した。
「記述が摩耗して、中身が零れ落ちそうだわ。……貴方が本当に望んでいるのは、帝国を救うための『剪定』ではなく。……この、息苦しいほどに整った物語の頁を、誰かに、優しくめくってほしい……ただ、それだけなのでしょう?」
レオニスの黒曜石の瞳が、一瞬だけ、激しく揺れた。親書に書かれた「蹂躙」という言葉。それは、この孤独な皇帝が、理ことわりの外にいる私にだけ許した、精一杯の「救い」への問いかけだったのだと、今の私には理解できた。
「……過ぎた言葉だ。姫。だが、君のその『視る』力。この帝国の未来には、不可欠なものだ」
レオニスは穏やかに、けれど世界の主としての絶対的な意思を持って、背後の影へと声をかけた。
「エリアス。……セリーナ姫の待遇を再定義せよ。学園の寮ではない。……宮殿西棟の『白亜の塔』を、彼女の居室として開放する」
「な……! 陛下、それはあまりに異例です! あそこは……」
「国賓と言ったはずだ。アウグストの客人であり、我が帝国の『希望』である彼女を、街の騒めきに晒しておくわけにはいかない」
レオニスの声には、場を黙らせるだけの、静かな、けれど抗いがたい加速度が宿っていた。各々は、私の足元の海の残響を視て、言葉を飲み込み、深く頭を垂れた。
「……エリアス。姫をご案内してくれ。リリア殿、貴殿の武勇はアウグストより聞いております。姫の護衛という『重責』、引き続き頼みます」
レオニスは、最後に私をじっと視つめ、口元を僅かに緩めた。それは皇帝の仮面の下にある、一人の男としての、不器用な労いの笑み。
「おやすみなさい、陛下。……いつかその王冠が、少しだけ軽くなる物語を、私が書いて差し上げましょう」
私は、リリアに支えられながら、ふわりと完璧なカーテシーをした。視界の端で、海の青い花が、最後の一片を散らせて消えていく。
「……セリーナ様。少し、はしゃぎすぎです」
リリアの苦笑混じりの囁きが、心地よい夜風のように、私の白い髪を揺らした。
――翌朝。
頭の奥で、無数の小さな小人が、鋭い針で私の脳髄をリズムよく突ついている。カーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日までの「温かな黄金」ではなく、私を処刑台へと誘う「冷酷な白」にしか見えなかった。
「……うぅ」
私はベッドの中で、毛布を頭まで被って丸まった。口の中が砂漠のように乾いている。世界の記述がどうとか、王冠の錆がどうとか、そんな高尚なことはどうでもいい。ただ、この不快な拍動を止めてほしい。
「おはようございます、セリーナ様。……お水を持ってまいりました」
枕元で、リリアの凛とした声が響く。彼女の足音は、今朝に限っては、重厚な鉄槌が床を叩く音のように聞こえて、耳に障った。
「……リリアさん。私……昨夜、何か……」
私は、震える手で毛布の端を少しだけ下げ、彼女を覗き込んだ。リリアは、盆に載せた水差しをテーブルに置きながら、いつになく「晴れやかな」微笑みを浮かべていた。
「ええ。とても立派でしたわ。皇帝陛下の王冠を『錆びている』と断じ、頁をめくって差し上げるとまで宣言なされたときは、さすがの私も剣の柄を握る手が震えましたもの」
「………………は?」
脳内の拍動が、一瞬だけ止まった。
――断じた? 錆びている? 私が? 皇帝陛下に向かって?
「それだけではありませんわ。陛下の至近距離で……そう、これくらいの距離まで顔を近づけて、『私が書いて差し上げましょう』と、囁かれたのです。陛下、一瞬だけお顔を赤くされていましたけれど……その後の財務卿への一喝は、それはもう見事なものでした」
リリアが楽しげに語る言葉の一つ一つが、鋭い氷の刃となって、私の心臓を貫いていく。昨夜の記憶。断片的に繋がっていく、葡萄酒色のスライド。至近距離のレオニスの黒曜石の瞳。鼻を突いた、古いインクと、かすかな破壊の匂い。そして。私が発した、あまりに、あまりに「不敬」という記述すら生ぬるい、傲慢な言葉の数々。
「…………っ!」
私の顔から、一瞬で「血の気」という彩度が消失した。青ざめる、という表現では足りない。私の記述そのものが、恐怖によって透明に透けてしまいそうだった。
「……今すぐ、セントリスへ飛んで帰りたい」
「あら。あんなに堂々と『優しくめくってほしい……ただ、それだけなのでしょう?』と言い放った方が、何を仰るのですか」
リリアは、私の白い髪を優しく撫でながら、くすくすと笑った。彼女の目には、私が引き起こした「記述の剥落」が、ただの少女の失敗ではなく、この停滞した宮廷に必要な「嵐」に見えているようだった。
「さあ、お支度を。陛下から『登校の前に、議会へ顔を出すように』と、直々の伝令が届いております。……昨夜の『宣言』の続きを、閣僚の皆様も心待ちにしていらっしゃいます」
「………………私の存在そのものを、一筆で塗りつぶしてしまいたい」
私は枕に顔を埋め、絶望という名の暗い記述の中に、自分を塗りつぶそうとした。けれど、鞄の底にあるインク壺が、カチリと音を立てた。書くといい、と。ルイーズ先生の声が、二日酔いの脳裏に響く。
――ええ、書くわよ。
まずは、昨夜の自分を消しゴムで消すための、猛烈な「弁明」の行を。私は震える足でベッドから降り、リリアさんが用意した「白亜のドレス」へと、死装束を纏うような覚悟で身を包んだ。




