第三十七話(125) ハドラ家の命運
寸止めのつもりでルシアスに短剣を突き立てたが、勢い余って傷つけてしまった。
椅子がひっくり返って、床で首元を押さえる。
ほとんど血は出ていないのに、大袈裟に痛がるのだった。
「殺すつもりなら、とっくに死んでるさ」
ルシアスの鼻息が荒い。
「く、狂ってる」
「狂ってるのはどっちだ? さっさと座れ」
取り乱しながらも椅子を戻し、そこに腰掛けるのだった。
「お前の敗因は、俺を甘く見たことだな」
ここからは裏表のある男の芝居を続けなければならない。
「ドラコがお前の兄貴ではなく、俺を選んだことを重く受け止めるべきだったんだ。それを軽視したからリュークは死んだ。兄貴を殺したのはお前のせいだぞ?」
焦点が定まらぬ目で首を振る。
「嘘だ。殺されるはずがない」
脅しは必要だと考えていたが、ここまで効果的だとは思わなかった。
「お前が送り込んだ私兵のことを言ってるのか?」
「まさか、それも?」
「当然だろう? 俺が幻に見えるか?」
ルシアスが首元を押さえる。
「いや、そんなはずがないだろう?」
「十二人もいれば充分だと思ったか?」
「あぁ、十二、じゃあ、やっぱり護衛の数を読み違えたか」
ガレットがいなければ作戦は成功していたが、それを正しく教えてやる必要はない。
「ルシアス、お前の読みは当たっていたさ」
僕の言葉に不思議がる。
「では、どうして兄上は失敗したんだ?」
「話してもいいが、その前にお前の作戦を教えろ」
終わった話だが、知らない情報があるかもしれない。
「隠れ家には必要最低限の護衛しかいないと聞いていた。それでも数が分からない以上は無謀な作戦は立てられない。だから兄上には制圧できる場合に限り、作戦を実行するようにと指示を出しておいたんだ。それなのに兄上は判断を誤って作戦を決行してしまった。今回は居場所を知るだけで充分だったのに、なんで僕がいない時に限って積極的になるんだよ」
第二部隊はないと見てよさそうだ。
「判断を誤ったのはリュークじゃない。お前だと言ってるだろう? リュークは完璧に計画を遂行したのだからな。俺以外みんな死んだよ。神祇官や護衛兵だけではなく、王妃や王太子もな。唯一の誤算は、お前が送り込んだ私兵が誰一人として、俺に勝てなかったということだ」
自分を大きく見せるにはハッタリも必要である。
「戦ったことのないお前が作戦を立てたから兵士は死んだんだ。リュークの責任ではないぞ? 全部お前の責任だ。お前は俺という敵の力量を見誤った。敵の戦力を把握せずに作戦を立てるなど、兵士に『死にに行け』と言ってるようなものではないか。実戦から逃げるのは構わない。だったら『引っ込んでろ』って話だ」
ルシアスに謀反気を起こさせないために徹底的に力量差を思い知らせる必要があった。
「それだけの腕があったのならば、父上を助けられたのではないか? 王妃や王太子も見殺しにしているじゃないか。目的は何だ? お前は一体なにがしたいというんだ?」
説明に矛盾があってはならない。
「最初はお救いするつもりでいたさ。そのために、お前と違って命まで懸けたのだからな。しかし三種の神器の存在を知った瞬間、急に神のような閃きが降りてきたのさ。俺が敵兵の数を確認している時、もうすでに味方は全滅していた。ということは、俺が敵を全滅させれば、三種の神器は俺の物にすることができると思ったんだ。そして実際に、俺は神に選ばれた。神はお前ではなく、俺を選んだのさ」
ルシアスが不気味に笑う。
「それは神ではなく、悪魔の閃きだけどな」
僕も同じように笑ってやった。
「君には負けたよ」
僕に対する呼び方が『お前』呼びから『君』呼びに変わった。
「僕は確かに負けたかもしれない。でもそれは腕力ではなく、君の野心を見抜けなかったからだ。それが悔やんでも悔やみきれないんだな。未だに分からないよ。君はフィンス陛下の従兄で、お父上も立派なお方だ。兄上のように家名を守ることを誰よりも強く考えていると思ったんだけどね。それが王妃や王太子を見殺しにしてしまうとは、やはり今でも考えられないんだ」
ルシアスの考察はどれも当たりだ。
「フィンスの従兄とか、エムル・テレスコの息子とか、そんな呼び名はたくさんだ。二度と俺の前でその二人の名前を口にしてみろ。その舌を切り取ってやるからな」
饒舌を取り戻し、調子に乗りそうだったので、短剣をチラつかせてやった。
「分かった、分かった、約束する、二度と口にしない」
と言いつつ、椅子から腰を浮かせた。
「どこへ行くつもりだ?」
ルシアスが立ち上がる。
「いや、喉が痛くて」
「分かってると思うが、お前にはもう選択の余地などないのだぞ?」
短剣の刃先を見せると、ルシアスがゆっくりと座り直すのだった。
「俺がお前を生かしている理由を考えろ。お前にはまだそれだけの価値が残されているということだ。俺をここに閉じ込めて死なせても何の意味もないぞ? それよりも俺の力になれ。屈辱的なことかもしれないが、お前はすでに俺に負けたのだ。いつまでも失敗した策にしがみついてはいけない。だったら、ここで過去を切り捨てて、俺が成功する方に賭けた方がいいんじゃないか? いや、お前にはもう、それしか残されていない。ただし、死を選ぶというのであれば止めはしないがな」
ルシアスは弱りきっていた。ダリス・ハドラの息子とは思えないほど情けない表情をしている。エリゼの兄が、こんな醜い男であることに憤りを覚えた。しかし、それを表情に出してはいけない。彼には、自分にはまだ価値があると思わせなければならないからである。
「俺はお前にしかできない仕事があると言っているのだぞ?」
「仕事?」
「そうだ。俺が成功するにはお前の協力が必要だ」
ルシアスがランプの火を見て固まった。
まるで暗算をしているかのような顔つきだ。
「成功とは、何をもって成功とするかを聞かせてほしい」
ルシアスの欲望に火が点いた。
次は点ったばかりの火種を大きくしてやる必要がある。
「すべてだ。何かを手に入れようと思ったら、すべてを欲しなければならない」
ルシアスのような相手には、謙虚さは美徳にならないのである。
「しかし手に入れたはいいが、手にした物が砂の城であっては形を留めておくことができないではないか。国政を維持しようと思ったら、すでに存在している王族の権威は不可欠で、王政の存続こそが最も合理的といえるだろう。特に七政院の大貴族は血統主義によって自己も守られているので、これを強く支持することこそが、すべてと断言してもいい。彼らを反政府主義者にするのではなく、これからも王政のために働かせるのが、ひいては己を利することになるわけだ。徴税や徴兵を一から作り直すなど労力がバカにならないからな。そこまでは分かるな?」
一つでも言葉選びを間違えば、この潜入捜査は失敗に終わるだろう。
ルシアスの顔が上気し始めている。
話を続けることにした。
「国政運営に必要な七政院を維持するためには、俺が国王になるわけにはいかない。血統主義に反するのだからな。しかし、俺の子を国王に嫁がせることはできる。なぜなら俺には戴冠に必要な三種の神器があるのだからな。現在王位に就いているカグマン王、ハクタ王、カイドル王の三人は、誰も正式に即位したわけではないんだ。そのことはお前も分かっているだろう? つまり正統なる国王を決められるのは俺だけなんだよ。そこでルシアス、お前の力が必要になってくる」
ルシアスがエサを欲しがる犬のような顔で僕を見ていた。
「エリゼに俺の子どもを産ませるんだ。その時、俺はヴォルベ・ハドラになっている。子が国王に嫁いだ時には摂政として玉体を繰ることができる。そうなれば王政は俺たちの思うがままだ。お前はハドラ家の当主として崇められ、名家の礎を築いた名君として歴史に名を残すだろう。その時は俺もお前のことを『義兄上』と呼ばせていただくが、それだけでは不服かな?」
ルシアスが立ち上がった。
それからゆっくりと僕の方に回り込み、その場で立膝をつくのだった。
「ご贔屓を賜り、光栄至極にございます。このルシアス・ハドラ、閣下に忠誠を尽くす所存にございます。閣下のお役に立てるよう、日々精進いたします故、今後ともご寵愛願えれば、これ幸いに存じます」
気持ちの悪い言葉選びをする男だ。
「その『閣下』はやめてくれ。まだ『公子』で結構だ」
指摘したいのはそこじゃなかったが、まあ、いい。
「では、公子、手始めに何をいたしましょう? ご指示いただけますか?」
油断はならぬが、どうやら完全に懐柔できたようである。
「そのような堅苦しい態度では、エリゼの心に閂を掛けてしまうことにもなりかねない。なにしろ俺は父親を見殺しにし、兄貴を殺してしまったのだからな。俺の計画ではお前の妹に子を産ませることが肝要となる。母体を思えば種付けも当面は先になるが、それまでにエリゼの純潔を守ることは絶対だ。もしも約束が守られなかった場合は、ハドラ家がお前の代で終わると思え。名家のご息女は他にもいるのだからな。安産を望める時がくるまでには、エリゼが俺に心を開くように、兄としてよく言い聞かせるのだ」
エリゼに対する酷い仕打ちだが、それも国を思えばこそだ。
「仰せの通りに……いえ」
そこで立ち上がり、椅子に腰掛けた。
「分かりました。妹のことは任せてください」
頭が回る男なので飲み込みは早いようだ。
「常に下女に見張らせ、男を近づけるな。最も信用できる警護をエリゼに付けるのだ。父親の目がなくなったことで、よからぬことを考える者も出てくるだろうからな。エリゼに指一本でも触れる者がいれば、この俺が殺しにいくと、兵士らに御触れを出しておくんだ」
言葉だけではダメだ。
「報酬はこれまでと同じにしろ。求心力の低下を使用人らに感じさせてはならないからな。身近な人間ほど機微に鋭いものだ。俺たちには強力な後ろ盾があり、ダリス猊下が死しても尚、ハドラ家は安泰だと思わせなければならない。そのためにこそルシアス、お前が必要なんだ」
ルシアスが微笑む。
「先ほど公子は『閃きが降りてきた』と言ってましたが、あれは悪魔などではなく、天使が舞い降りてきたのですね」
これからコイツの気持ちの悪い言葉選びに付き合わされると思うと気が滅入った。
「それからハドラ家の私兵に俺を猊下の代わりとして全力で守らせろ。不満がある者はクビにするんだ。それを人任せにするんじゃないぞ。お前の悪いところは、見事な作戦を立てられるのに、それを他人に投げてしまうことだからな。俺も最後に兵士の選別を行う。場合によってはドラコ隊から隊士を引き抜くが、内情を探られるのは出来れば避けたいからな、だからよく吟味するんだ」
ルシアスが訊ねる。
「ドラコ隊の残党をどうするつもりですか?」
そこで悩んでいる振りをする。
「うむ。遅かれ早かれ、俺だけが生き残っていることを知ることになるだろう。しかし、隠れ家で何が起こったかまでは知らぬはずだ。ドラコしか隠れ家の場所を知らなかったのだからな。だが、王妃と王太子を警護していた者まで死んだのだから、そちらのルートから惨劇があったことが伝わる可能性がある。ところがだ、生き残りは俺だけなのだから、それが誰の手によって行われたのかは調べようがないはずだ。ならばドラコを殺した組織にやられたと思わせてやればいい。俺たちはまだ一緒に戦える。ドラコを殺したヤツを見つけ出すという名目で共闘を続けるんだ。奴らは使えるからな、いや、奴らほど使い勝手のいい部隊は他にないのだから、とことん利用してやるさ」
ルシアスがうっとりした目で僕を見る。
「公子の弁舌は惚れ惚れしますね」
背中がゾワッとした。
「問題はお母上のことだ。まず猊下と長兄が亡くなったことを伝えてやらねばならん。頼まれてくれるだろうな?」
「それは当主である僕の務めですからね」
「取り乱したりはしないだろうな?」
「気丈に振る舞うことでしょう」
「息子が父親を殺したんだ。自ら命を絶つということはないな?」
「待ってください」
ルシアスが悪い顔をする。
「母上や妹は王宮が襲撃されたことや、国が三つに分かれたことは知っていますが、詳しい事情までは知らないんですよ? だったら、なにも真実を教えてやる必要はないじゃありませんか。エリゼにしても、その方が何かと都合が良いかと思われます」
そこに良心の呵責を覚えないのが僕とルシアスの決定的な違いだ。
「しかし、夫人は察しのいいお方だぞ?」
「疑惑は持たれるでしょうが、それを解明する能力は持ち合わせてはおりません」
「だがな、俺に対する扱いの変わりようを、どう説明する?」
ルシアスがまた暗算を始める。
「では、こうしてはいかがでしょう? 警備の兵にも詳しい事情は話していませんので、公子にはこれまでと同じように振る舞っていただきます。それでドラコ隊と同じように、母上やエリゼに対しても、父上と兄上は賊に殺されたことにしてしまうんですよ。そうなれば僕にとっても都合がいいですし、なによりも、これまでと変わらぬ態度で生活を送ることができます。その方が楽ではありませんか。いや、これは公子を一流の役者と見込んでのお願いなんですがね」
複雑な話だ。ルシアスには裏表のある男でありつつ、マナ夫人とエリゼに対しては秘密を抱えたまま、これまでのヴォルベ・テレスコを演じなければいけないわけだ。芝居の経験がない僕に、そんなややこしい役柄を演じ切れるだろうか?
「公子は何を悩まれているのです?」
「いや、真実が漏えいした場合のショックが計り知れないと思ってな」
「僕を騙せた公子なら、母上やエリゼを騙すことなど容易いことです」
ルシアスは今も騙されているのだが、僕と一緒に悪だくみをすることによって、自分が騙す側だと信じているようだ。ルシアスを騙し続けるには、僕の二面性をルシアスに見せ続けた方がいいかもしれない。
「しかしだな、女というのは恐ろしいぞ? こちらの芝居に騙されているように見えても、実は見抜いていて、知らない振りや従順な振りをして、突如として欺くということが実際にあるのだからな」
ルシアスが神妙な顔つきで頷く。
「女系が成り立たないのは歴史が証明していますね」
もうすでにルシアスの案を採用すると決めていた。
それでも悩んだ振りをする。
「一番の問題は、こちらが真実の漏えいに気づかなかった場合だ。嫡男を殺した俺を仇として命を狙ってくることも考えられる。娘を利用して寝首を掻くこともあるんだぞ? 自ら命を絶つことも考えられるだろう。最大の懸念は、エリゼに謀反気を起こさせることだ。俺が子を望んでいることを知れば、下男の子を孕んで復讐することも考えられるのだからな。そんなリスクを背負うくらいなら、いっそのこと初めから真実を告白した方がよいと考えたのだが、それでも芝居をしろと言うのか?」
ルシアスは自信があるようだ。
「ならば、幽閉に近い形で隔離するというのはいかがでしょう?」
エリゼの気持ちを思うと計画を続けられないので考えないことにした。
「そんなことが可能か?」
「命が狙われていると吹き込むのです」
ルシアスには嫌悪感があるが、無能ではないことは心に留めておく必要がありそうだ。
「よかろう。そういうことならば警護を増やす説明にもなる。ルシアス・ハドラ、君の案を採用しよう。早速役に立ってくれるとは、俺の人を見る目は確かなようだ」
ルシアスは自分の意見が採用されて嬉しそうだ。州都官邸で父上の仕事をずっと見てきたのが役に立っているようだ。父上がやっていた部下の扱いを、そっくりそのまま真似してやればいいわけである。
「それでは二つ目の仕事の準備も進めてもらおう」
「二つ目というのは?」
「お前と共謀しているオーヒンの貴族と会う算段を取り付けてもらおうと言っているのだ」
「流石は公子、見抜かれておりましたか」
「ここへ来る前にドラコ隊から報告を受けた。もっとも適当に誤魔化してやったがな」
「かたじけない」
ルシアスが反省した。
「報告が出立前であれば、お前の作戦はその時点で失敗に終わっていたぞ。未遂とはいえ、猊下による処断は免れなかっただろう。今後は行動に充分気をつけるのだな。ここはハドラ領とは違うのだ。余所者の行動は目を引くと思え」
「はっ」
完全にルシアスを掌握できたようだ。
「それでは、まずはお母上にご報告せねばなるまいな。用意はいいか?」
「お任せください」
地下室を出た瞬間から、エリゼに対する偽りの日々が始まる。
「それでは参るとしよう」
ハドラ夫人とエリゼにはこれまでと変わらないように接する取り決めだ。
ルシアスの先導に従わなければならない。
「何かあったのですね?」
客間で不安な顔をするハドラ夫人が僕たちを出迎えた。
しかし、エリゼの顔は直視することができなかった。




