第29話 「沈黙の海と、響き始めた声」
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第29話 「沈黙の海と、響き始めた声」
朝の五時半。
第29話 「沈黙の海と、響き始めた声」
灯台荘の台所は、二十二人の気配で静かに目覚め始めていた。松本恵美があかりを抱きながら味噌汁の準備を手伝っていると、玄関の古い木の扉が遠慮がちにノックされた。
海人がドアを開けると、そこに立っていたのは三十七歳の男性——高橋 悠真 たかはし ゆうま だった。
瘦せた体、深い目の下の影、左腕に残る古い火傷の痕。
彼は濡れたコートを肩にかけ、ほとんど視線を合わせずに立っていた。「……漂着者、です。
三日前まで、港の倉庫で寝てました。
名前は……高橋悠真。
もう、どこにも行けないと思って……ここを、探しました。」澪がすぐに温かいお茶を差し出した。
悠真は受け取ったものの、手が微かに震え、茶碗の縁をただ見つめている。
海人は静かに彼の横に立ち、声のトーンを低く抑えた。「ここは、理由を聞かない場所だ。
ただ、生きてるってだけで、座っていい。
ゆっくり、話したくなったらでいいよ。」午前中、悠真は台所の隅の椅子に座ったまま、ほとんど動かなかった。
あかりが近づき、小さな灯台模型を差し出しても、ただぼんやりと見つめるだけ。
恵美が心配そうに海人に囁いた。「悠真さん……何か、すごく深いところで凍えてるみたい。」海人は頷き、午後、悠真を機械室へ連れて行った。
薄暗い部屋にÓlafur Arnaldsの《Only The Winds》が流れ始めた。
弦の低い響きが、まるで遠い海の底から這い上がってくるように部屋を満たす。悠真が初めて、掠れた声で口を開いた。
「……俺は、漁師だった。
十年前、嵐の夜に船を出した。
妻と、五歳の息子を……陸に残して。
船は沈んだ。
俺だけ、奇跡的に浮かんで……助かった。
でも、家族は……俺が生きてるのに、待ってるはずの家族は……
それ以来、声が出なくなった。
海を見るのも、風の音を聞くのも、怖くて……
でも、この灯台の光だけは、毎晩、遠くから見えて……
『まだ、生きてていいのか』って、訊いてくるみたいで。」海人は悠真の隣に腰を下ろし、しばらく沈黙を共有した。
やがて、静かに言った。「悠真さん。
生き残った罪は、重いよね。
ここにいる俺たちも、みんな少しずつ『生きてる罪』を背負ってる。
でもこの灯台は、罪を許す場所じゃない。
ただ、罪を抱えたまま、朝を迎える場所だ。
風が吹いても、波が来ても、灯りは消えない。」夕方、岩場で二十二人は輪になった。
桜の花びらが風に舞う中、奏と響子が《re:member》を奏で始めた。
悠真は岩に寄りかかり、目を閉じていた。
途中、あかりが恐る恐る近づき、彼の膝に小さな桜の花びらを置いた。「……おじちゃん、泣かないで。
灯台さん、ずっと光ってるよ。」悠真の目尻から、初めて涙がこぼれた。
彼は震える手であかりの頭に触れ、
「……ありがとう。
俺、十年ぶりに……誰かに触れられた。」夜。
二十二個の杯にハーブティーが注がれた。
海人は皆の顔をゆっくり見回し、穏やかで力強い声で言った。「今日は、悠真さんが来てくれた。
沈黙の底にいた声が、ようやくここで響き始めた。
私たちは、完璧に癒される必要なんてない。
ただ、誰かと一緒に、朝を迎えられるだけで……
それは、もう立派な再生なんだ。」恵美があかりを抱き、悠真に優しく微笑んだ。
「悠真さん、ここはいつでも帰れる場所です。
海の音が怖くても、灯台の光は、ずっとここにありますから。」悠真は杯を両手で包み、初めて小さな声で答えた。
「……ただいま。」最上部。
海人は星空の下、遥に語りかけた。(遥……
また一つ、深い海の底から上がってきた命が、ここに灯ったよ。
沈黙だった声が、春の風に乗り始めた。
この灯台は、これからも、
言葉を失った者たちの「ただいま」を、静かに待っている。)(第29話 完)




