「傲慢」
黒炎に焼かれて心身ともに散りゆく中、かつての記憶を思い出していた。
古い木造アパートの一室。幼い彼の悲痛に満ちた声が漂う。原因は母親の暴行だ。
「なんで私ばっかり! こんな目に合わなくちゃいけないのよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
平手打ちが一つ。平手打ちが二つ。その度に青あざが増えていく。
「なんで! あいつばっかり評価されて! 私は見向きもされないのよ!」
母は同僚の女性に過剰なほどの嫉妬心を抱いていた。しかし、面と向かって相手に言うことはなく、裏で反撃してこない彼を殴った。
何度も。何度も。雨のように降ってくる平手打ち。
時折、生活に余裕が生まれるくらいの金を入れた時、母は優しかった。
「いつもごめんね。お母さんの事。好き?」
震える手を隠して、満面の笑みを作った。
しかし、持ち前の金遣いの荒さが災いして、再び八つ当たりを受ける日々が始まる。
通っている小学校の先生や友達にも助けを求めようとしたが、できなかった。
母からの報復を恐れたからだ。
そんな日々でストレスが溜まり、小学校の下校中の際に倒れた。気づけば病院の中だった。
彼がしばらくぼんやりとしていると、病室の扉が開いた。母だ。
「お母さん」
「倒れないでよ! 病院代かかるでしょ! なんでお母さんに迷惑かけるの! いい加減にしてよ! 大体、お母さんの方がしんどい思いしているのになんで元気なあんたが倒れるの!? おかしいでしょう!」
病室など関係なく、母が喚き散らかした。彼自身、母が心配してくれるのではないか? 心のどこかで一縷の望みがあった。
しかし、そんな小さな願いは甲高い叫び声とともに打ち消された。
「ああああ、金がない。金。金。金」
退院した後も、母が意識を向けることといえば、金。家にある明細書や請求書を見るなり、母が目を血走らせる。
「なんで。いつもいつもいつも!」
母がいつも気にしているのは通帳に書かれた数字の増減。
部屋に漂う缶酎ハイとタバコの臭い。金もないのにそれだけには糸目を付けない。
退廃的な空気が蠢く一室。彼は不快感に心身を犯されながら、眠りについた。
ある日の下校中。いつも通り、不快な臭いと冷たい空気が漂う我が家に向かっていた。
茜色の空。カラスの鳴き声。手を繋ぐ親子。どこかの家から流れたカレーの匂い。
それらが彼の五感を激しく刺激して、彼の足を重くした。
「今日のご飯は一体なんだろう」
食パンと牛乳。賞味期限切れの菓子パン。買い溜めしていたインスタントの焼きそば。
物心がついた時から母の手料理を数回しか口にしたことがなかった。
家に帰りたくない。そう思った彼は家への道を引き返した。
細く小さな足で街灯の光が照らす夜道を進んでいく。もはや自分が今、どこを歩いているのかあまり分かっていなかった。
「おや。そちらの方に迎えに行こうとしていたんですがね。まさか来てくださるとは」
目の前には黒い鳥のような仮面をつけた人が立っていた。声の低さから男性という事は理解できた。
見慣れない格好ではあるが、彼はその声に不思議と安心感を覚えた。
「だっ、誰?」
「私は迦楼羅。君に特別な力を与えるためにやってきたのさ」
「特別な力?」
「ええ。君の体に流れる血はそれを授けるに値する」
迦楼羅が彼の体に指を指した。あまり状況が飲み込めないが自分が今、人生の重要な分岐点にいる。何故かそんな気がしたのだ。
「ねえ。もしその力を手に入れたらお母さんは僕を見てくれる?」
「注目することは間違いありません。ですが本当にそれだけでいいのですか?」
「えっ?」
「君は実の母が数多くの暴力を受けていたはず。身体的なものだけではなく、精神的なものも。現に家路についていないのが母を恐れている証拠です」
図星だった。しかし、今まで母が絶対的な存在だった彼にとって逆らうというのは未知の経験だった。
「君だって薄々気づいているはずです。母は君のことを愛していない。好きでもなんでもない。関心があるのはいつもお金」
そう言いながら迦楼羅が懐から漆黒の羽根を一枚、取り出した。彼はそれを手に取ると指で回して、裏表を確認した。
なんの変哲も無いただの羽根。しかし、言葉にしようがない程の覇気のようなものを感じた。
「力を授けるにあたっての条件は一つ。私に君の力を貸して欲しいだけです。協力してくれるというのならどんな用途で使おうと干渉しません」
彼は心が跳ね上がるのを感じた。今まで他者に必要とされた経験などなかったのだ。
そして、彼は首を縦に振り、力を得た。
その後、彼は自身の母を蹂躙した。かつて自分が体に刻まれた事を何度もやり返した。
部屋の壁や天井が母の血で赤く染まっていく。
「ごめんなさい」
頭を下げて涙ながらに謝罪する母。しかし、彼はその泣き顔が醜悪なものにしか見えなかった。
不快に思った彼は目の前で蹲る売女の脳漿を破壊した。そして、残った胴体を浴槽に捨てた。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははは」
彼は心から笑った。
その日から、彼は自分の力に任せて、ありとあらゆる不利益をねじ伏せた。自分が気に入らなかった人間は片っ端から粛清した。
しかし、自分の恩人である迦楼羅には従順だった。この栄光ある人生を提供してくれたのは間違いなく彼なのだ。
彼へと忠誠としてこれまで多くの人間を手にかけてきた。忌獣対策本部の戦闘員から自分達の組織のアジトを暴こうとする他の団体。
このまま自分が自由気ままに身勝手に尊大に振る舞い続けられる。そう思っていた。
しかし今、彼の存在は消えかかっていた。もう自由な人生は訪れない。
自分の鬱憤を晴らすために弱いやつに危害を加える。結局、どんなに強大な力を手に入れても母と変わらなかった。
「ああ、惨めだな」
ポツリとこぼした言葉を最後に彼は灰となって消えた。
隼人は尊が消えていくのをただ、その場に座って眺めていた。完全に消え去ったのを確認すると一気に体から力が抜けた。
自分でも気がつかないくらい気を張っていたのだ。
「松阪君」
「これくらい問題ない。蹴られた場所は大丈夫か?」
「ええ。痛むけどね」
二人ともその場から動けず、言葉だけを返している。隼人は改めて、周囲の状況を確認した。
なぎ倒された木々とえぐれた地面。それらが今回の戦いの激しさを克明に物語っていた。
「綺麗な月だな」
隼人は夜空に浮かぶ美しい満月を眺めながら、ゆっくりと睡魔に身を委ねた。
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