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第9話 連絡





 翌朝、熱はなかった。


 三十六度八分。


 喉にはまだ少し違和感が残っていたが、身体の重さはほとんど消えている。


 青葉貿易へ連絡すると、体調が戻っていることを確認された上で、無理をしないことを条件に仕事へ戻っていいと言われた。


 ブラックタイドへ電話した時、蓮は一度だけ念を押した。


『本当に大丈夫ですか』


「はい。今日は本当に」


『その言い方、信用していいんでしょうね』


「体温も平熱です」


『なら分かりました。迎えに行きます』


 電話を切ったあと、澪は少しだけ笑った。


 大丈夫という言葉の信用が、この数日でずいぶん下がった気がする。


 身支度を整える。


 鏡を見ると、まだ少し顔色が薄い。


 化粧で隠すほどでもないと思い、そのままにした。


 鞄へ資料を入れる。


 最後に会社の携帯電話を手に取った。


 画面には、短い名前が一つ残っている。


 LEO


 結局、まだ一度も使っていない。


 澪は携帯を鞄へしまった。


          *


 ブラックタイドへ着くと、ベンが真っ先に顔を上げた。


「生還」


「大げさです」


「二日いなかったからね」


「病気で休んだだけです」


「でもチョコまだ食べてないでしょ」


「何でそこ気にしてるんですか」


「俺のじゃないけど気になる」


 蓮が後ろから、


「仕事させてあげてください」


 と淡々と言った。


「はーい」


 澪は自分の机へ向かう。


 レオはソファにいなかった。


 澪は一度だけ室内を見回し、それから鞄を開いて資料を取り出した。


 階下から物音がした。


 しばらくして、階段を上がってくる足音。


 レオが姿を見せた。


 黒いTシャツの袖口に、薄く油汚れがついている。


 澪を見る。


 一度だけ。


「治った?」


「はい」


「熱は」


「ないです」


 レオは数秒だけ澪の顔を見た。


「ならいい」


「それだけですか」


「何が」


「昨日まではもっといろいろ聞かれたので」


「元気なら聞くことねぇだろ」


 それだけ言って、レオは冷蔵庫へ向かった。


 澪も席につく。


 机の上には、二日分の資料が積まれていた。


 仕事へ戻った実感が、ようやく出てくる。


          *


 午前中は、溜まっていた書類の確認に追われた。


 澪が休んでいる間にも、港側から新しい控えが届いていた。


 住所の件について決定的なものはない。


 ただ、誤った一文字が入っている書類は、今確認できている範囲では、すべて同じ時期以降に作られていることが分かった。


「この月からですね」


 澪が言うと、蓮が横から書類を覗き込んだ。


「それ以前は全部正しい?」


「今見てる分では」


「じゃあ登録変更か、元データ変更か」


「あるいは、どこかで作った一覧をそれ以降ずっと使ってるか」


「ありそうですね」


 澪は日付を書き留める。


 まだ原因までは分からない。


 でも、「いつから」は少し狭まった。


 それだけでも前進だった。


 昼前、青葉貿易から連絡が入った。


 東京から送った書類を、澪の宿泊先へ届ける手配をしたという。フロントに預けてもらうので、ホテルへ戻った時に受け取ってほしいとのことだった。


 澪はメモを取った。


 今日は外部訪問の予定はない。


 夕方までブラックタイドで作業し、そのあと蓮か誰かにホテルまで送ってもらう。


 いつも通り。


 そう思っていた。


          *


 午後四時を過ぎた頃、グレイが外から戻ってきた。


 蓮と短く話したあと、澪を見る。


「水城」


「はい」


「今日は六時までにホテルへ戻れ」


「何かありましたか」


「港の南側で少し揉めてる。お前に関係あるかは分からん」


「分かりました」


「蓮が送る」


 それ以上の説明はなかった。


 澪も聞かなかった。


 分からない段階で、無理に情報を増やしても判断材料にはならない。


 五時半を少し回った頃、蓮と事務所を出た。


 レオは別の仕事で外に出ていた。


 ホテルまでは問題なく着いた。


 車を降りる前に、蓮が言う。


「今日はこのまま出ないでくださいね」


「分かってます」


「本当に?」


「神谷さんまで信用なくしてません?」


「ここ数日で少し」


 澪は笑った。


「出ません」


「何かあったら電話してください」


「はい」


 車を降りる。


 ホテルのロビーへ入ると、空調の冷気が肌に触れた。


 外の湿気から急に切り離されたような感覚がする。


 フロントへ向かい、名前を告げる。


「東京から書類が届いていると思うんですが」


 スタッフが確認する。


 少し待つように言われた。


 澪はロビー脇のソファへ座った。


 そこへ、一人の男が近づいてきた。


「日本の方ですか」


 日本語だった。


 澪は顔を上げる。


 三十代半ばくらい。


 薄いグレーのシャツに、濃紺のパンツ。仕事帰りに見えなくもない格好だった。髪は短く整えられ、手には小さな革の鞄を持っている。


「はい」


 澪は答えた。


 男は少し安心したように笑った。


「やっぱり。さっきフロントでお名前が聞こえて、日本の方かなと思って」


「そうですか」


「お仕事ですか?」


 よくある会話だと思った。


 海外で日本人同士が出会えば、珍しくはない。


「はい」


「僕もです。こっち長いんですか?」


「いえ」


 短く返す。


 男は気にした様子もなく続けた。


「ヴァレリオ、治安悪いでしょう。女性一人だと大変じゃないですか」


 澪は少しだけ男を見る。


「そうですね」


「どの辺で仕事してるんです?」


 質問が一段、具体的になった。


「その辺です」


「港?」


 すぐ返ってきた。


 澪の中で、何かが少し止まった。


 まだ、おかしいと決めるほどではない。


 この街で仕事をしている日本人なら、港関係を思い浮かべても不思議ではないかもしれない。


 そう考える。


 同時に、答える必要もないと思った。


「すみません。仕事のことはあまり話せなくて」


「ああ、もちろん」


 男は笑った。


 引いたように見えた。


 けれど、その場を離れない。


「商社とか?」


 澪は返事をしなかった。


 男が続ける。


「いや、変な意味じゃなくて。日本人珍しいから」


「そうですね」


「青葉――」


 そこで、澪の視線が止まった。


 男も一瞬だけ口を閉じた。


「……って会社、こっちで仕事してるって聞いたことあって」


 澪は表情を変えないようにした。


 名刺は出していない。


 会社名も言っていない。


 服装にも社名はない。


 フロントで告げたのは自分の名前だけだ。


「そうなんですか」


「違いました?」


「どうでしょう」


 曖昧に返す。


 男の笑顔が、ほんの少しだけ固くなった。


 澪は立ち上がった。


「すみません。フロントに確認してきます」


「ああ、はい」


 止められなかった。


 フロントへ向かう。


 歩きながら、男を振り返らない。


 スタッフへ声をかける。


「すみません。預かり物、もう確認できましたか」


「はい。少々お待ちください」


 書類を受け取る。


 封筒には東京本社の差出人。


 澪は署名をした。


 横目でロビーを見る。


 男はまだソファの近くにいた。


 こちらを見ているかどうかは、正面から確認しなかった。


 エレベーターへ向かう。


 ボタンを押す。


 扉が開く。


 中へ入る。


 閉まる直前、ロビーが細く見えた。


 男の姿はまだそこにあった。


          *


 部屋へ入る。


 鍵をかける。


 チェーンもかけた。


 澪は封筒をテーブルへ置いた。


 そこで初めて、少し息を吐く。


 男が本当にただの日本人だった可能性もある。


 青葉貿易の名前を知っていること自体は、絶対におかしいとは言えない。


 港関係の仕事をしていれば、耳にすることもあるかもしれない。


 ただ。


 なぜ、あの場で青葉の名前が出たのか。


 それだけは分からない。


 澪は会社の携帯を取り出した。


 少し考え、まずブラックタイドの事務所へ電話する。


 呼び出し音が続いた。


 出ない。


 もう一度かける。


 やはり出なかった。


 時間を見る。


 六時を少し過ぎている。


 この時間なら誰かいると思っていた。


 でも、レオが言っていた。


 夜は誰も出ねぇ時ある。


 澪は携帯の画面を見る。


 LEO


 何かあったらかけろ。


 助けが必要なのか、と聞かれれば、まだ分からない。


 男は追ってきていない。


 部屋まで来てもいない。


 けれど、気になっている。


 それだけは確かだった。


 澪は登録された番号を選んだ。


 発信。


 一度。


 二度。


『もしもし』


 レオの声だった。


 周囲が騒がしい。


「レオ?」


『ミオ?』


「はい」


 向こうの雑音が少し遠ざかった。


『どうした』


 澪は言葉を選ぶ。


「ちょっと、気になることがあって」


『何』


「ホテルのロビーで、日本人の男の人に話しかけられました」


 少し沈黙。


『今どこ』


「部屋です」


『鍵』


「かけてます。チェーンも」


『男は』


「ロビーにいました。部屋までは来てません」


『何聞かれた』


「仕事のことと、どの辺で働いてるか。あと……青葉の名前を出されました」


 向こうの空気が変わった。


 完全に静かになったわけではない。


 ただ、レオの声だけが少し低くなる。


『お前、会社名言った?』


「言ってません」


『名刺』


「出してないです」


『相手に名前は』


「言ってません。フロントでは自分の名前を言いましたけど」


『顔、覚えてる?』


「はい」


『特徴』


 澪は男の年頃、服装、髪型、持っていた鞄を説明した。


 レオは途中で口を挟まなかった。


『分かった』


「ただ、本当にたまたま知ってただけかもしれないです」


『かもしれねぇな』


 否定しなかった。


『だから一応見る』


「来るんですか」


『行く』


「そこまでしなくても――」


『変だと思ったんだろ』


 澪は黙った。


「……少し」


『じゃあいい』


「何がですか」


『電話して』


 短い答えだった。


 澪は携帯を握り直す。


「勘違いだったら、すみません」


『そん時はそん時だろ』


「でも仕事中ですよね」


『だから?』


「迷惑かなと」


 少し間があった。


『かけてほしくなきゃ、番号なんか渡してねぇ』


 澪は返す言葉を探した。


 見つからなかった。


『部屋から出んな』


「出ません」


『誰か来てもすぐ開けるな』


「ホテルの人でも?」


『フロントに確認してから』


「分かりました」


 また、少し沈黙が落ちた。


「レオ」


『何』


「仕事中だったのに、すみません」


『だから謝んなって』


「でも」


『心配だから』


 澪の言葉が止まった。


 向こうも黙る。


 ほんの数秒。


『……とにかく待ってろ』


 さっきより少しだけ早い声だった。


「はい」


 電話が切れた。


 澪は携帯を耳から離す。


 画面には、通話終了の表示。


 部屋は静かだった。


 外では、また雨が降り始めている。


 窓を細く叩く音が、少しずつ増えていく。


 澪は携帯をテーブルへ置いた。


 心配だから。


 その言葉だけが、少し遅れて耳に残った。


 すぐに意味を決める気にはなれなかった。


 代わりに、澪は扉の鍵をもう一度確認した。






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