第10話 間違った住所
ノックがあったのは、電話を切ってから二十分ほど経った頃だった。
澪はすぐには扉へ近づかなかった。
まずフロントへ電話する。
「すみません。今、私の部屋を訪ねている人がいるんですが」
名前を告げ、確認を頼む。
少し待って返ってきたのは、黒い髪の男性が一人、フロントを通して上がったという答えだった。
澪は受話器を置き、覗き穴を見る。
レオだった。
濡れている。
黒いシャツの肩から胸元にかけて雨の跡が広がり、前髪の先から小さな雫が落ちていた。
澪はチェーンを残したまま扉を少し開ける。
「確認した?」
「しました」
「なら開けて」
「はい」
チェーンを外す。
けれど、レオは部屋へ入ろうとしなかった。
廊下の奥へ一度視線を走らせる。
「男、まだ下にいるかも」
「見ました?」
「いねぇ」
短く答える。
「顔、もう一回」
「さっき電話で言いましたけど」
「細かく」
澪は男の特徴をもう一度説明した。
三十代半ばくらい。短く整えた髪。薄いグレーのシャツ。濃紺のパンツ。小さな革鞄。
レオは途中で一度も口を挟まなかった。
「何分くらい喋った」
「五分もないと思います」
「近づいてきた時、どっから来た」
澪は少し考える。
「ロビーの奥です。たぶん、ソファの向こう側から」
「最初からいた?」
「分かりません」
「お前がフロントで名前言った時は?」
「見てないです」
「そ」
レオはそこで初めて、少しだけ息を吐いた。
澪は濡れた彼の肩を見る。
「入らないんですか」
「今はいい」
「でも濡れてますよ」
「乾く」
「そういう問題ですか」
「死なねぇし」
澪はもう一度、濡れた肩を見た。
昨日まで自分が熱を出していたせいか、その言い方には少し引っかかった。
澪が何か言う前に、レオは廊下の壁へ背を預ける。
「下、見てくる」
「私も――」
「お前はここ」
即答だった。
澪は一瞬黙る。
レオも黙った。
「……今は、です」
「何が」
「今は、ここにいた方がいいのは分かります。でも、何も教えないまま置いていかれるのは嫌です」
大げさに言うつもりはなかった。
ただ、そこだけは違うと思った。
レオは澪を見る。
雨に濡れた前髪の向こうで、暗い目が少し細くなる。
「分かったら言う」
「はい」
「分かんねぇ時は」
「分からないって言ってください」
「……分かった」
澪は頷いた。
レオはそれ以上何も言わず、廊下を歩いていった。
*
戻ってきたのは十五分ほどあとだった。
今度は部屋へ入った。
「どうでした?」
「グレイからホテルに連絡入れてもらった。フロントとも話した」
レオは濡れた髪を乱暴に掻き上げる。
「男は?」
「受付じゃ分かんねぇ。宿泊客かどうかも、今は確認取れてない」
「防犯カメラは?」
「ある。けど、録画見られる担当がもう帰ってる。確認は明日の朝」
「そうですか」
澪は小さく頷いた。
「じゃあ、今日は分からないですね」
「まあな」
「本当にただの宿泊客だった可能性も」
「ある」
レオは否定しなかった。
それが少し意外だった。
危険だと決めつけて、話を大きくするのかと思っていた。
「グレイには、他に何か?」
「今夜は部屋から出んなって。あと、ホテルにも話つけた。誰かがお前を訪ねてきても、勝手に上げない。部屋番号も教えない」
「……そこまで」
「今さらだろ」
澪は反論しかけ、やめた。
二度銃撃に巻き込まれている。
今日の男が無関係だったとしても、用心する理由そのものはなくならない。
「分かりました」
「素直じゃん」
「必要だと思うので」
「そ」
レオは窓の方へ行き、カーテンの隙間から外を見た。
雨は本降りになっていた。
ホテルの前を走る車のライトが、濡れた道路の上で長く伸びている。
「今日は帰らないんですか」
「もう少しいる」
「警護?」
「一応」
澪はそれ以上聞かなかった。
机の上には、東京から届いた封筒が置いたままになっている。
まだ開けていなかった。
「仕事してもいいですか」
「勝手にすれば」
「ここ、私の部屋ですけど」
「じゃあ聞くなよ」
澪は少し笑い、封筒を手に取った。
*
中に入っていたのは、青葉貿易側で保管していた過去の搬送記録の写しだった。
数日前に東京を出た国際便で、追加資料として送られていたものらしい。今日になってホテルへ届くと連絡があったため、受け取るよう言われていた。
澪自身が個別に指定した資料ではなかった。
東京側でも今回の件を洗い直す中で、確認しておいた方がいいと判断したらしい。
数年前まで遡るほど古いものではない。
今回消えた貨物と同じ港を経由した案件を、半年ほど前まで遡ってまとめたものだった。
澪は一枚ずつ確認する。
レオは窓際にいた。
話しかけてこない。
雨の音だけが続いている。
一枚、二枚、三枚。
どれも見覚えのある形式だった。
荷受人。
搬送番号。
倉庫。
中継業者。
澪は一枚をめくりかけ、手を止めた。
「……あれ」
レオが振り返る。
「何」
「いえ、仕事です」
「そう」
それだけ言って、また窓へ視線を戻した。
澪は紙を机へ置く。
住所がある。
一文字だけ違う。
これまで見ていたものと、まったく同じ間違いだった。
ただし、書類の種類が違う。
港の搬入記録でも、倉庫の受入票でもない。
青葉側が保管していた、中継業者の登録票だった。
澪は鞄からノートを取り出した。
これまで控えていた日付と照らす。
時期は同じ。
誤った住所が現れ始めた頃と重なっている。
けれど、それだけならまだ驚くほどのことではない。
同じ元データを使えば、同じ間違いが複数の書類へ広がることはある。
澪は登録票の下部へ目を移した。
会社名。
聞き覚えがなかった。
ヴァレリオ側の中継会社。
その横に、小さく管理会社名が記載されている。
澪は一度読み流し、次の紙へ移ろうとした。
そこで、また手が止まった。
どこかで見た気がする。
昨日ではない。
倉庫を訪ねた時でもない。
もっと前。
ブラックタイドで最初に資料を並べた時。
澪はノートの後ろのページを開いた。
数日前に控えた会社名の一覧。
その中にあった。
同じ名前。
ただし、その時見たのは今回消えた貨物に直接関係する会社ではなかった。別の倉庫の管理記録に、一度だけ出ていた名前だ。
澪は鉛筆で二つを囲む。
まだ線では結ばない。
まず確認する。
ホテルの電話へ手を伸ばしかけて、やめた。
もう夜だ。
今確認しなくても、紙は逃げない。
明日、蓮と照合すればいい。
「ミオ」
呼ばれて顔を上げる。
レオがこちらを見ていた。
「また考えてんの」
「仕事なので」
「顔怖ぇ」
「そんな顔してました?」
「してた」
澪は紙へ目を戻す。
「少し気になるものがあって」
「ヤバいやつ?」
「まだ分かりません」
「じゃあ分かってから言え」
「そのつもりです」
短いやり取りだった。
レオはそれ以上聞かなかった。
そのことが、澪には少し楽だった。
*
翌朝。
ホテルのロビーにいた男については、結局すぐには分からなかった。
防犯映像には、それらしい人物が映っていた。
正面玄関から一人で入っている。
ただし、ホテルの宿泊記録には該当する人物がいなかった。
出ていく場面は、夕方の人の流れに重なって判然としないという。
ブラックタイドへ着いてその報告を聞いた時、グレイはしばらく黙っていた。
「分からんな」
それだけだった。
「ただの客じゃなかった、とは言えないですか」
澪が聞く。
「言えん。宿泊客じゃなくても、ロビーに人を訪ねて来ることはある」
グレイはそこで言葉を切る。
「だが、お前に青葉の名前を出した理由も分からん。しばらく気をつけろ」
「はい」
決めつけない。
ただ、警戒は解かない。
澪にも異論はなかった。
ホテル側には昨夜のうちに話が通っている。澪の部屋番号は外部の人間に知らせず、訪問者があれば先に本人へ確認する。
それ以上のことは、まだしない。
澪は自分の机へ向かった。
鞄から昨夜の登録票を出す。
「神谷さん、これ見てもらっていいですか」
蓮が隣へ来る。
「もちろん。何かありました?」
「この管理会社なんですけど」
名前を指す。
蓮の視線が止まった。
「……ああ」
「知ってます?」
「知ってるというか」
蓮は少し考えてから、自分の机へ戻った。
「今はもうない会社です」
澪は顔を上げた。
「ない?」
「半年くらい前に畳んでます」
蓮はファイルを一冊取り出した。
ページをめくる。
「ここです」
ヴァレリオの港湾関連業者一覧。
該当する会社名。
状態欄には、営業終了。
「何をしてた会社なんですか」
「倉庫管理と貨物の振り分けですね。自前の倉庫を持つというより、複数の倉庫の管理を請け負う会社だったはずです」
「この住所は?」
澪は例の一文字違う住所を指した。
蓮が登録票を見る。
少し黙る。
「……会社の登記住所じゃないですね」
「じゃあ、何の住所ですか」
「待ってください」
別のファイルを出す。
古い契約書。
倉庫一覧。
紙をめくる音が続く。
ベンも気づいたのか、パソコンから顔を上げた。
「何探してるの?」
「この会社の旧データ」
「名前は?」
蓮が答える。
ベンがキーボードを叩く。
しばらくして、画面を見たまま眉を寄せた。
「これ?」
モニターが二人の方へ向けられる。
古い業者データ。
会社名。
責任者。
電話番号。
そして、管理拠点。
澪は画面を見る。
一文字違う住所が、そこにあった。
これまで「誤記」として囲んできた文字列と、完全に同じだった。
「……あれ」
ベンが小さく言った。
澪は何も言わず、手元の資料へ視線を落とす。
正しい倉庫住所。
一文字違う住所。
半年前に営業を終えた管理会社。
そして、その会社が以前使っていた管理拠点。
時期も、誤った住所が書類に現れ始めた頃と近い。
それでも、まだ分からない。
会社がなくなった後も、古いデータが参照元として残っていただけかもしれない。
以前のテンプレートを誰かが使い続けた可能性もある。
誰かが意図的に住所を置き換えた、と考えるには早すぎる。
「この会社が管理してた倉庫って、分かりますか」
澪が聞いた。
「いくつかあります」
蓮が一覧を追う。
「今回確認してる倉庫も?」
指が止まった。
「……ありますね」
澪は黙った。
赤いペンへ手を伸ばす。
一文字だけ違う住所。
その横に、管理会社の名前を書く。
小さく丸で囲む。
少し迷ってから、その二つの間に細い線を一本だけ引いた。
これまで、違和感のそばに印を増やすことはあった。
線を引いたのは初めてだった。
「これで何か分かります?」
ベンが聞く。
澪は紙を見たまま少し考えた。
「まだ」
答える。
「でも、偶然同じ文字を間違えただけではないかもしれません」
蓮が小さく頷いた。
それ以上は誰も言わなかった。
窓の外では、朝の荷役が始まっている。
フォークリフトの警告音。
鉄同士がぶつかる硬い音。
荷役の男たちが飛ばす怒鳴り声。
いつも通りの港の音だった。
澪は紙の上に引いた細い線を見る。
一文字。
それだけだったものに、初めて別の名前が繋がった。
答えではない。
けれど、もうただの誤字とも言い切れなくなっていた。




