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第11話 後ろ





 その日の午後、雨は降らなかった。


 朝のうちは低い雲が港の上に残っていたが、昼を過ぎる頃にはところどころ薄く切れ、湿った青空が覗いていた。


 晴れたからといって、涼しくなるわけではない。


 窓を開ければ、海から運ばれてくる塩気と油の匂いを含んだ空気が入り込み、机の上に重ねた書類の端がわずかに浮いた。


 澪は、紙の上に引いた一本の線を見ていた。


 半年前に営業を終えた管理会社。


 その会社が以前使っていた管理拠点の住所。


 そして、今回の書類に繰り返し現れる、一文字だけ違う住所。


 午前中に分かったのは、そこまでだった。


 蓮が古い契約書をさらに確認していたが、誰が、いつ、その住所を参照元へ入れたのかまでは追えない。ベンの手元にある電子データも、現行のものより古い記録になるほど抜けが増えていた。


「ここから先は、港側の記録も見ないと難しいですね」


 蓮がファイルを閉じた。


「管理会社がなくなった時に、引き継ぎ先がどこだったのかも確認したいです」


「それが分かれば、住所が残った理由も分かるかもしれませんね」


「かもしれません」


 澪はノートを閉じる。


 分かったことより、まだ分からないことの方が多い。


 それでよかった。


 昨日まで単なる誤記かもしれなかったものが、今は確認する価値のある項目になった。それ以上の意味を与えるのは、もう少し後でいい。


 昼を少し過ぎた頃、階下からエンジン音が聞こえた。


 一度だけ高く吹かし、すぐに低い振動へ落ち着く。


 ベンがパソコンの画面を見たまま言った。


「レオだ」


「分かるんですか」


「うるさいから」


「聞こえてんぞ」


 階段の途中から声が返ってきた。


 ベンが肩をすくめる。


「ほら」


 レオが上がってきた。


 黒いTシャツにカーゴパンツ。片手には薄い紙袋を持ち、左手の指先に黒い油が残っている。


 澪はその手を見てから、窓の外へ目を向けた。


「車じゃなかったんですね」


「何が」


「今の音」


「ああ。バイク」


「持ってたんですか」


「持ってる」


 それだけだった。


 知らなかった、と言いかけて、澪はやめた。


 言われていないのだから、知らなくて当然だった。


 ベンが紙袋を覗き込む。


「俺の?」


「違う」


「即答」


「自分で買え」


「冷たいなあ」


 レオは冷蔵庫を開け、ボトルの水を一本取った。


 扉が閉まる直前、奥に黄色いラベルの瓶が見えた。


 澪は一瞬だけそちらを見て、すぐ資料へ目を戻した。


          *


 午後三時を過ぎてから、グレイが電話を受けた。


 短い会話だった。


 受話器を置くと、澪と蓮の方を見る。


「今朝の会社の件だ。古い契約書を持ってる奴が一人見つかった」


 澪が顔を上げる。


「見られますか」


「コピーをこっちへ回させる。ただ、今日中には来ねぇ」


「分かりました」


「それと、水城」


「はい」


「今日は少し早く戻れ」


 また何かあったのかと思ったが、グレイの声音は昨日ほど硬くなかった。


「南の方は落ち着いた。ただ、夕方からまた雨になる。道が塞がる前に帰った方がいい」


 窓の外を見る。


 海側から、濃い雲が近づいていた。


 この街に来てから、天気予報より空の色を見ることが増えた気がする。


「分かりました」


「蓮」


 グレイが呼ぶ。


 だが、蓮が答える前にベンが言った。


「蓮、さっき港湾局の人来るって言ってなかった?」


「あ」


 蓮が腕時計を見る。


「四時でした」


「じゃあ俺行く」


 声がした。


 ソファにいたレオだった。


 澪が振り返る。


 グレイも見る。


「車は?」


「ベンが使ってんだろ」


「部品取りに行くからね」


 ベンが悪びれずに答える。


「俺、バイクだから」


 澪は少し遅れて意味を理解した。


「……バイクで?」


 レオがこちらを見る。


「何」


「私も?」


「他に誰がいんだよ」


「乗ったことないです」


「後ろ乗るだけだろ」


「それで平気なんですか」


「変に動かなきゃ平気」


 蓮が小さく咳払いした。


 笑いを隠したようにも聞こえたが、澪はそちらを見なかった。


 グレイは数秒考えてから、レオを見る。


「大通りだけ使え。寄り道するな」


「分かってる」


「雨が来る前に着け。途中で何かあったら戻れ」


「はいはい」


「返事が軽い」


「分かったって」


 蓮も窓の外へ目をやった。


「ホテルまでなら、今朝確認したルートで問題ないはずです。南側へ寄らなければ」


「じゃあそれで行け」


 グレイが言った。


 それで決まったらしい。


 澪だけが、まだ決まっていない気分だった。


          *


 階下のガレージ脇に、バイクは停められていた。


 濃紺というより、光の加減ではほとんど黒に見える。


 新しくはない。


 タンクには細かな擦り傷があり、金属部分にも年季が見える。それなのに、エンジン周りだけは妙にきれいだった。使い込まれているのに、放置されている感じがしない。


 レオは鍵を差し込みながら言った。


「荷物それだけ?」


「はい」


 澪は肩に掛けた鞄を見る。


「前にする」


 言われた通り、鞄を身体の前へ回す。


 レオが予備のヘルメットを差し出した。


「被って」


 受け取る。


 思っていたより重い。


 髪を低い位置でまとめ直してから被ったが、顎紐の留め具がうまく噛み合わない。


「貸せ」


「できます」


「できてねぇじゃん」


 レオが手を伸ばす。


 澪は反射的に一歩下がった。


 レオの手が止まる。


 一瞬だけ。


 澪自身も止まった。


 嫌だったわけではない。


 急に顔の近くへ手が来たから、身体が先に動いただけだった。


「すみません」


「別に」


 レオはそれ以上触れず、自分の顎を指した。


「そこ。押して入れる」


 教えられた場所を押す。


 かちり、と音がした。


「できました」


「最初からそうしろよ」


 澪は返事をせず、留め具を指で確かめた。


 レオは自分のヘルメットを被り、バイクへ跨がる。


 長い脚が地面につく。


「乗って」


 澪は後部座席を見る。


 思っていたより高い。


「どっちからですか」


「左」


 教えられた通り、左足をステップへ掛け、身体を持ち上げる。


 スカートではなくパンツで来ていてよかった。


 どうにか跨がったところで、車体がわずかに揺れた。


「動かないでください」


「俺じゃねぇよ。お前が乗ったから揺れたんだろ」


「……そうですね」


 レオの肩が少し揺れた。


 笑ったのかもしれない。


「手、どこに置けばいいですか」


「後ろに掴むとこある」


 澪が探す。


 座席の脇に小さなグリップがあった。


 両手でそこを掴む。


「これ?」


「それでもいい」


 それでも。


 澪はその言葉だけ少し気になったが、聞き返さなかった。


 代わりにエンジンがかかる。


 腹の下まで低い振動が響いた。


 思っていた以上だった。


 澪がグリップを握り直す。


「怖かったら言えよ」


 その言葉に、少しだけ目を上げた。


 ヘルメット越しには、レオの後頭部しか見えない。


「……はい」


 バイクが動き出した。


          *


 最初の角を曲がっただけで、澪は後ろのグリップへさらに力を込めた。


 車で走るのとはまるで違う。


 空気が直接身体へ当たり、道路の凹凸が座席からそのまま伝わってくる。


 建物が近い。


 人も近い。


 道端の屋台から上がる油の匂いも、排気ガスも、濡れた石の匂いも、窓越しよりずっと強かった。


 レオは飛ばさなかった。


 むしろ普段、車に乗っている時より慎重なくらいだった。


 市場の前では早めに速度を落とし、横道から荷車が出てくれば十分な距離を取る。前の車が急に停まっても困らないよう、車間も広く取っていた。


 グレイに言われたからなのか。


 後ろに澪がいるからなのか。


 考えたところで分からない。


 大きな交差点で止まる。


 澪はようやく少し力を抜いた。


「大丈夫?」


 レオが前を向いたまま聞く。


「今のところ」


「落としたりしねぇよ」


「私が落ちる可能性はあります」


「じゃあちゃんと掴まってろ」


 澪は後ろのグリップを見る。


「掴まってます」


「そこ、急に止まると身体持ってかれるぞ」


「じゃあ、どうすれば」


 レオが少しだけ振り返る。


「俺」


 信号が変わった。


 それだけ言って前を向き、バイクを発進させる。


 澪は数秒迷った。


 次の交差点へ入る手前で、前の車が急に速度を落とした。


 レオも滑らかにブレーキをかける。


 身体が前へ流れた。


「あ」


 咄嗟に、レオのシャツを掴んだ。


 背中の脇。


 黒い布が指の中で引きつれる。


 レオは何も言わなかった。


 車が再び流れ始める。


 澪は手を離そうとした。


「そのままでいい」


 前から声がした。


「でも」


「また急に止まるかもしれねぇだろ」


 確かにそうだった。


 澪は手を戻した。


 ただ、シャツだけでは不安定だった。


 次の段差で身体が揺れ、結局、片手をレオの腰の横へ回す形になる。


 薄いTシャツ越しに、身体の動きが伝わった。


 細く見えるのに、背中は思っていたより硬い。


 澪はそこまで考えたところで、道路を見ることにした。


 その方がいい気がした。


          *


 大通りへ出ると、風が強くなった。


 古い港の密集した建物が少しずつ遠ざかり、ホテル街の高い建物が見えてくる。


 空はさらに暗くなっていた。


 まだ雨は落ちていない。


 赤信号で止まった時、澪はレオの腰から手を離した。


 今度は座席の横を掴む。


 レオがミラー越しにこちらを見た。


「何」


「何でもないです」


 レオは前へ視線を戻した。


 信号が変わる。


 ホテルまで、あと数分だった。


 正面玄関の前へ着いた時、澪は思っていた以上に肩へ力が入っていたことに気づいた。


 レオがエンジンを切る。


「降りれる?」


「たぶん」


「たぶん?」


 澪は返事をせず、慎重に左足を下ろした。


 地面に着く。


「降りられました」


「見りゃ分かる」


 ヘルメットを外す。


 湿気で髪が少し乱れていた。


 手櫛で整えながら、レオへ返す。


「ありがとうございます」


「仕事」


「それでもです」


 レオはヘルメットを受け取った。


 一瞬だけ、最初に会った日のことを思い出す。


 あの時も、似たようなやり取りをした。


 ただし、あの時は銃声の直後だった。


 今はホテルの車寄せで、雨の匂いがするだけだった。


「バイク、どうだった」


「怖かったです」


「即答じゃん」


 澪は少し考える。


「でも、思ってたよりは大丈夫でした」


「何それ」


 澪は答えなかった。


 レオはヘルメットを持ったまま、少しだけ口元を歪める。


「次は最初からちゃんと掴まれよ」


「次もあるんですか」


 一拍。


 レオが澪を見る。


「……あるかもしれねぇだろ」


「そうですね」


 それ以上は言わなかった。


 遠くで雷が鳴る。


 レオが空を見る。


「入れ。降る」


「レオは?」


「戻る」


 澪も空を見上げる。


 雲はもうホテル街の上まで来ていた。


「濡れますよ」


「平気」


 たぶん何を言っても戻るのだろう。


 澪はそれ以上言わなかった。


 ホテルの入口へ向かう。


 自動扉の前で、一度だけ振り返った。


 レオはもうヘルメットを被っていた。


 片足でバイクを支え、エンジンをかける。


 低い音が車寄せに響いた。


 澪が扉の中へ入るのを確認してから、レオは道路へ出ていった。


 その数分後、雨が降り始めた。


 部屋の窓へ大粒の雨が当たる。


 澪は濡れた街を見下ろしながら、肩から鞄を外した。


 掌に、わずかな違和感が残っている。


 開いてみると、指の付け根に細い赤みがあった。


 後ろのグリップを強く握っていた跡だった。


 澪はそこを親指で軽くなぞる。


 それから、途中で掴んだ黒いシャツの感触を思い出した。


 ほんの一瞬だけ。


 すぐに手を下ろし、机の上へ資料を広げる。


 窓の外では、雨がさらに強くなっていた。






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