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第12話 分からない話




 朝から雨だった。


 激しく降るわけではない。細い雨が途切れずに続き、古い港の石畳を暗く濡らしていた。


 車の窓には細かな水滴が流れ、ワイパーが一定の間隔でそれを払っていく。


 助手席の蓮は、ほとんど喋らなかった。


 澪も同じだった。


 昨日はバイクの後ろだった道を、今日は車で通っている。


 市場の角。大きな交差点。屋台の並ぶ通り。


 見覚えのある景色が順番に過ぎていく。


 ふと、昨日そこを走った時の感覚が蘇った。


 風。


 エンジンの振動。


 急に速度が落ちた時、指の中で引きつれた黒いシャツ。


 腰の横へ回した手。


 澪は窓の外へ視線を移した。


 朝から考えるようなことでもない。


「水城さん?」


「はい」


「どうかしました?」


「いえ」


 蓮はそれ以上聞かなかった。


 ワイパーがまた一度、フロントガラスを横切った。


          *


 ブラックタイドへ着くと、昨日グレイが話していた契約書のコピーが届いていた。


 蓮が封筒を開け、澪と机を挟んで並ぶ。


 古い管理会社が営業を終える前に結んでいた、倉庫管理契約の控えだった。


 紙自体はそれほど古くない。ただ、何度も複写されたらしく、細かな文字がところどころ潰れている。


 澪は端から読んでいった。


 管理対象。


 契約期間。


 連絡先。


 緊急時の搬送先。


 その中に、例の管理拠点の住所もある。


「ここまでは昨日と同じですね」


「ですね」


 蓮がページをめくる。


 最後に、契約終了時の引き継ぎ先が記載されていた。


 会社名が一つ。


 澪はノートを開いた。


 見覚えはない。


「この会社、今もありますか」


「確認します」


 蓮が自分の机へ戻り、ベンにも会社名を伝える。


 しばらくキーボードを叩く音が続いた。


「あるよ」


 ベンが画面を見ながら答えた。


「今も営業中。小さいけど」


「何をしてる会社ですか」


「港湾書類の代行と通関補助。それと――」


 ベンの指が止まった。


「昔、名義だけ貸してた記録がある」


 澪が顔を上げる。


「名義だけ?」


「会社名とか登録を、実際に動いてる別の業者が使うやつ。全部が違法って意味じゃないよ。この辺じゃ、看板と中身が一致してない会社も珍しくないし」


 蓮が画面を覗き込んだ。


「今もですか?」


「そこまでは出てない」


 澪は新しい会社名をノートへ書いた。


 昨日引いた線の先へは、まだ繋がない。


 旧管理会社の引き継ぎ先だった。


 今も存在している。


 過去に名義を貸していた記録がある。


 分かっているのは、それだけだ。


 最初は単なる誤記かもしれなかったものが、今は確認する価値のある項目になっている。それでも、意味を決めるにはまだ早い。


 澪は会社名の横に日付だけを書き添えた。


 丸も、線も引かなかった。


          *


 午前十一時を過ぎた頃、階下から知らない男の声がした。


 低く、少し掠れた声。


 グレイと何か話しているらしい。


 澪は資料から顔を上げただけで、すぐ視線を戻した。


 ここへ出入りする人間を、一人ひとり気にしていても仕方がない。


 足音が階段へ近づいた。


 その時だった。


 低いテーブルの前に座っていたレオの手が止まった。


 ほんの少し前まで、面倒そうに片脚を投げ出し、分解した拳銃の部品を布で磨いていた。


 姿勢はほとんど変わらない。


 立ち上がりもしない。


 それなのに、澪には空気が一段冷えたように感じられた。


 レオは階段の方を見ている。


 眉間に皺が寄ったわけではない。


 口元も動かない。


 ただ、目から余計なものが消えた。


 階段を上がってきたのは、四十代くらいの男だった。


 雨に濡れた上着を開けたまま、片手に細長い黒いケースを持っている。


 グレイがその後ろから続いた。


「そこ置け」


 男がケースを床へ置く。


 かすかな音がした。


 その瞬間、レオの視線が動いた。


 男の顔ではない。


 右手。


 腰。


 開いた上着の内側。


 靴。


 黒いケース。


 もう一度、右手。


 一つずつ見ているのに、速い。


 けれど、忙しなくはなかった。


 何かを探しているというより、起き得ることを先に順番づけているように見えた。


 澪は自分でも気づかないうちに、資料を押さえていた指へ少し力を入れた。


 男もレオを見る。


 一瞬だけ。


「相変わらず感じ悪ぃな、リー」


 軽い調子だった。


 レオはすぐには返さなかった。


 ほんの一拍。


「……お前が勝手に上がってくるからだろ」


 声は低い。


 普段と大して変わらないはずなのに、妙に乾いて聞こえた。


「グレイが通した」


「だからまだ何もしてねぇだろ」


 男の口元にあった笑いが、ほんの少し薄くなる。


 黒いケースへ手を伸ばしかけた。


 その時、レオの右手が動いた。


 銃には触れない。


 けれど、低いテーブルの端へ置かれたそれに、いつでも届く位置まで下がった。


 ごく自然な動きだった。


 澪が見ていなければ、気づかなかったかもしれない。


 グレイが男より先にケースを足元へ引き寄せた。


「レオ」


「分かってる」


 レオの視線は男から外れない。


 その顔を見て、澪は最初の日を思い出した。


 車の陰。


 銃声。


 短い命令。


 あの時と同じ目だった。


 けれど、あの時は状況を見る余裕などなかった。


 今は違う。


 だからこそ分かった。


 レオは怒っているのではない。


 威嚇しているわけでもない。


 撃つかどうかを、もう考え終えているように見えた。


 男は数分もせず帰っていった。


 階段を降りる足音が遠ざかる。


 完全に消えてから、レオはようやく視線を外した。


 布を取り上げる。


 さっきまでと同じように、拳銃の部品を拭き始める。


 何事もなかったように。


 澪は手元の紙へ目を戻した。


 一行読む。


 その途中で、さっきの目がもう一度浮かんだ。


「何」


 レオが言った。


 見ていたつもりはなかった。


「……いえ」


 澪は紙へ視線を落とした。


 黒いケースの中身についても、聞かなかった。


          *


 しばらくして、仕事はいったん途切れた。


 グレイはまた外へ出た。


 ベンは電話。


 レオはソファの端で、今度こそ銃を組み直している。


 小さな金属音が規則正しく続いていた。


 その向こうで、蓮が資料を見ながら言った。


「これ、東京なら完全に“あるある”ですね」


 澪が覗き込む。


 契約書の添付資料に、修正履歴だけが異様に丁寧な表がついていた。


 本文より修正表の方が長い。


「分かります」


 思わず笑った。


「誰かが一回ちゃんと作ろうとして、途中で力尽きたやつです」


「ありますね。引き継ぎで開いたら、説明用の説明用ファイルまで出てくるやつ」


「そうです、それです」


 蓮も眼鏡の奥で目を細めた。


「しかも最終更新者、退職済み」


「最悪ですね」


「最悪です」


 澪は声を抑えて笑った。


 向こうでベンが電話越しにこちらを見る。


 何の話か分かっていない顔だった。


 金属音が止まった。


「何の話」


 レオだった。


「仕事の話です」


「それは分かる」


 拳銃を片手に持ったまま、こちらを見ている。


「何がそんな面白ぇの」


 説明しようとして、澪は迷った。


 口にすると、大して面白くない。


「説明すると、多分面白くないです」


「じゃあいい」


 あっさり言って、また視線を落とす。


 澪も資料へ戻った。


 それだけだった。


          *


 昼になる頃には、雨が少し弱くなった。


 外へ食べに出る予定はなく、ベンが買ってきた麺を皆で適当に分けた。


 グレイはまだ戻らない。


 机を片づけるほどでもなく、書類の間に容器を置いて食べる。


 一口目で、辛いと分かった。


 けれど、食べられないほどではない。


 澪は水を飲む。


 向かいにいたベンが気づいた。


「辛い?」


「結構」


「言えるようになったね」


 澪は目を上げた。


 どこかで聞いた言い方だった。


「それ俺の」


 レオが言った。


 ベンが振り向く。


「何が?」


「……別に」


 澪は何も言わず、もう一口食べた。


 その横では、蓮が唐辛子を器の端へ避けている。


「神谷さん、辛いの苦手なんですか」


「かなり」


「さっき何も言ってませんでしたけど」


「僕は水城さんほど素直じゃないので」


 澪は少し笑った。


 それ以上は返さなかった。


 今度はレオも何も言わなかった。


          *


 午後は、蓮と二人で過去の搬送記録を年代順に並べ直した。


 仕事そのものは地味だった。


 管理会社が営業を終える前。


 終えた直後。


 引き継ぎ先の会社が書類に現れ始めた時期。


 誤った住所が現れ始めた時期。


 並べてみると、完全には一致しない。


 数週間のずれがある。


「ここ、微妙ですね」


 蓮が言う。


「はい」


「引き継いだ直後から間違ってるなら分かりやすいんですけど」


「少し後なんですよね」


 澪は日付を見比べた。


 単純な引き継ぎミスなら、もっと早く誤った住所が混じっていてもよさそうだった。


「この間に何か変わってるかもしれませんね」


「データの更新とか?」


「それもあります」


 そこまで言って、鉛筆を置く。


 仮説を増やしても意味はない。


 確認できるものから見た方がいい。


 窓の外を、荷物を積んだトラックが通り過ぎた。


 古い建物の窓がわずかに震える。


 ソファではレオが横になっていた。


 眠っているのかと思ったが、目は開いている。


 天井を見ていた。


 澪と一度だけ目が合う。


 すぐに逸らされた。


 口数が極端に少ないわけではない。


 思ったことをそのまま言うことも多いし、ベンとは雑な言い合いもする。


 ただ、自分から話を長く広げることは少なかった。


 今日が特別静かなのかどうかは、よく分からない。


          *


 夕方には雨が上がった。


 雲の切れ間から薄い光が差し、濡れた倉庫の壁を白く照らしていた。


 蓮は電話を受けるため席を外し、ベンは階下へ降りている。


 二階に残ったのは、澪とレオだけだった。


 紙をまとめる音。


 遠くのエンジン音。


 雨樋から最後の水滴が落ちる音。


 沈黙は、気にならなかった。


 澪は資料を年代別に重ね直す。


 向こうではレオがソファの背へ頭を預けている。


 少しして、声がした。


「ミオ」


 澪は顔を上げる。


「はい」


「さっきの」


「さっき?」


「蓮と笑ってたやつ」


 澪は数秒考えた。


「説明用の説明用ファイルですか」


「多分それ」


「聞くんですか」


「悪い?」


「いえ」


 澪は手元の紙を揃えた。


「大した話じゃないですよ」


「いいから」


 少し考え、説明した。


 業務を引き継ぐために作った資料が複雑になりすぎて、その資料を説明するための別の資料が作られること。


 誰も全体を把握しなくなって、それでも更新だけは続いていくこと。


 最後には、何のためにあるファイルなのか分からないものが残ること。


 話しながら、やはり説明すると面白くないと思った。


 レオは途中で遮らなかった。


「……で?」


「終わりです」


「それで笑ってたの?」


「会社員にはちょっと面白いんです」


「分かんねぇ」


「だから言ったじゃないですか」


 澪は少し笑った。


 レオは笑わなかった。


 ただ、こちらを見ていた。


「何ですか」


「別に」


 視線が外れる。


 数秒経ってから、ぼそりと続いた。


「聞きたかっただけ」


 澪は何も言わなかった。


 言う必要がない気がした。


 レオも、それ以上続けなかった。


 部屋にまた静けさが戻る。


 さっきまでと同じはずなのに、少しだけ違って感じた。


 澪はその違いに名前をつけず、資料の続きを揃えた。


 数分後、レオが立ち上がる。


 冷蔵庫を開けた。


 ボトルの水を一本取る。


 扉を閉めかけ、奥へ一度だけ目をやった。


 黄色いラベルの瓶が二本並んでいる。


 レオは何も言わず、扉を閉めた。


 澪も気にせずノートへ日付を書き込む。


「明日も来んの?」


 不意に聞かれた。


 澪は手を止める。


「その予定です」


「そ」


 それだけだった。


 レオは水の蓋を開けた。


 澪もまたペンを動かした。


          *


 帰りは蓮の車だった。


 後部座席から見る雨上がりの街には、あちこちに水たまりが残っている。


 看板の灯りが、その中で赤や青に揺れていた。


「今日は少し進みましたね」


 蓮が前を向いたまま言う。


「はい」


「引き継ぎ先まで出れば、確認する場所も増えます」


「明日、過去の登録も見たいです」


「そうしましょう」


 会話はそれだけだった。


 澪は窓の外を見る。


 昼前に階段を上がってきた男。


 その時のレオの目を思い出した。


 怖い。


 たぶん、それが一番近い。


 けれど、最初の日とは少し違った。


 あの時は、ただ近づきたくないと思った。


 今は。


 そこまで考え、澪はやめた。


 続きを考える理由がなかった。


 ホテルへ着き、蓮に礼を言って車を降りる。


 ロビーへ入る。


 冷えた空調に触れたところで、不意に別の言葉を思い出した。


 聞きたかっただけ。


 仕事の話など、レオには何の役にも立たない。


 聞いても面白くないと言った。


 実際、聞いたあとも分からないと言っていた。


 それでも聞いた。


 澪はエレベーターのボタンを押す。


 扉が開く。


 中へ入り、閉まるのを待つ。


 なぜか、その短い会話の方が、昨日バイクの後ろで腰に触れたことよりも長く残った。


 澪は小さく息を吐いた。


 理由は、まだ分からなかった。







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