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第13話 街の音




 それから二日ほど、澪の周りでは何も起こらなかった。


 ホテルのロビーにいた男について、新しい情報は出ていない。なぜ青葉貿易の名前を知っていたのかも、分からないままだった。


 旧管理会社から業務を引き継いだ会社についても、表向きの登録以上のものはまだ見つかっていない。


 仕事は、むしろ地味になった。


 日付を揃え、記録を照らし合わせ、同じ貨物番号がどの段階で誰の手を通ったのかを拾う。合わないものには印をつけるが、理由までは決めない。分からないものは分からないまま横へ置き、新しい資料が来た時にもう一度見る。


 そういう作業を一つずつ続けていた。


 雨季の空も似たようなものだった。


 降ると思えば晴れ、晴れたと思えば海の向こうから濃い雲が流れてくる。


 その朝の旧港には、夜の雨があちこちに残っていた。石畳の窪みに溜まった水へ古びた看板の文字が逆さに映り、荷台を引く男がそこを踏んで、水面を崩して通り過ぎる。


 蓮の車を降りた澪は、ブラックタイドの建物の前で足を緩めた。


 見覚えのないトラックが一台停まっている。


 後部の扉は開いており、中には木箱が四つ積まれていた。文字らしいものはほとんどない。端に数字が振られているだけで、中身を示すような印はなかった。


「今日は荷物があるんですね」


 澪が言うと、蓮は一度だけトラックを見る。


「そうみたいですね」


 それ以上の説明はなかった。


 澪も聞かなかった。


 階下の倉庫へ入ると、レオが二人の男と話していた。


 一人は港の作業員らしい。もう一人は白いシャツの袖を肘まで捲り、腰に拳銃を下げている。


 隠そうともしていない。


 レオは木箱の角へ片手を置き、もう片方の手に持った紙を見ていた。


「三つじゃねぇの」


「四つだ」


「紙は三つ」


「一個は別口だ」


「だったら一緒に積むなよ」


「行き先は同じだ」


「知るか。こっちの記録と数が合わねぇだろ」


 白いシャツの男が面倒そうに舌打ちした。


「細けぇな」


「あとで揉めんのこっちなんだよ」


「グレイに言え」


 レオが紙から顔を上げる。


「今、俺が聞いてんだけど」


 声は荒げていなかった。


 それでも男は一瞬黙った。


「……別で切りゃいいんだろ」


「最初からそうしろ」


 レオが紙を男の胸へ押し返した。


 拳銃を腰に下げた人間と、何の荷物か分からない木箱。


 その間で交わされているのは、数量と伝票の話だった。


 それがかえって、澪には妙に現実的に見えた。


 二階で過ごす時間が増えてから、レオが仕事をしている姿をまともに見る機会はあまりなかった。ソファで横になっているか、煙草を弄っているか、気づけばどこかへ出ている。


 けれど、箱の数も書類の数字もきちんと見ている。


 雑なのと、仕事が雑なのは違うらしい。


 澪が階段へ向かうと、レオがこちらを見た。


「ミオ」


「おはようございます」


「おう」


 それだけだった。


 すぐ男たちへ視線を戻す。


 澪も立ち止まらず、二階へ上がった。


 背後で木箱を引きずる音がする。


 何が入っているのかは知らない。


 知ろうともしていない。


 それでも毎朝、その荷物の上を通って仕事をする。


 この場所へ初めて来た時より、そのことに驚かなくなっている自分がいた。


 慣れるというのは、安全になることとは違う。


 澪は席に着き、鞄から資料を出した。


          *


 昼前、遠くで銃声がした。


 一発。


 わずかな間を置いて、二発。


 澪の手が止まった。


 もう、何の音なのかを考える時間は要らなかった。


 ベンもパソコンから顔を上げ、蓮がペンを置く。


 窓際にいたレオは、外を一度見ただけだった。


「西か?」


 ベンが聞く。


「多分」


「市場?」


「もっと向こう」


 グレイは受話器を取った。


 誰も立ち上がらない。


 誰も窓へ駆け寄らない。


 その反応を見てから、澪は外へ目を向けた。


 通りの方が速かった。


 店先に出ていた老婆が椅子を抱えて中へ入り、向かいの商店では男がシャッターを半分まで下ろす。


 路地で遊んでいた子どもが、大人に腕を引かれた。一人は途中で落とした何かを拾おうとしたが、そのまま引きずられるように建物へ消える。


 誰も空を見上げない。


 誰も音の正体を確かめない。


 分かっているから動く。


 数分後、もう一度、遠くで乾いた音がした。


 一発だけだった。


 それきり静かになる。


 グレイが電話を置いた。


「こっちには来ねぇ。昼に出るなら東へ行け」


 ベンが椅子を回す。


「じゃあ食べに行こう。腹減った」


 蓮が腕時計を見る。


「まだ十一時半ですけど」


「朝食ってない」


「それを堂々と言わないでください」


 窓の外では、半分まで下がったシャッターの脇を、もう別の男が荷車を押していた。


 数分前に銃声がした街とは思えない。


 いや、この街だからこそなのかもしれない。


 止まっていたら生活できない。


「ミオも行く?」


 ベンに呼ばれ、澪は振り返った。


「はい」


「レオも来いよ」


「何で俺まで」


「警護」


「便利だな、それ」


 そう言いながらも、レオはソファから立ち上がった。


          *


 向かったのは、旧港の東側にある小さな食堂だった。


 ブラックタイドから歩いて十分もかからない。


 雨は上がっていたが、地面から湿気が立ち上っている。路地に張り出した布の日除けから水滴が落ち、軒先では扇風機がぬるい空気を掻き回していた。


 ベンと蓮が先を歩く。


 澪はその後ろ。


 レオは澪の横より少し後ろにいた。


 車道側だった。


 最初の頃は偶然だと思っていた。


 けれど、澪が人を避けて外側へ寄ると、しばらくしてレオの位置も変わる。


 何も言わない。


 澪が内側へ戻れば、そのまま歩く。


 今では気づいても、わざわざそちらを見ることはなくなった。


 食堂は古い集合住宅の一階にあった。


 入口は開け放され、油と香辛料、茹でた麺の匂いが通りまで流れている。


 四人掛けの丸いテーブルにつく。


 ベンがメニューを開き、店員へ注文しようとしたところで、レオが紙面を横から覗いた。


「それ辛ぇやつだろ」


「そうだけど」


「別のにしろ」


 ベンが顔を上げた。


「何で?」


「蓮、辛ぇの無理だろ」


「かなり無理です」


 蓮が即答する。


 レオは顎で澪を示した。


「ミオも得意じゃねぇし」


 澪は少し眉を上げた。


「食べられますよ」


「食えるのと好きなのは別だろ」


 言われて、澪は黙った。


 確かにそうだった。


 ベンがレオを見る。


「よく覚えてるね」


「うるせぇ。早く頼め」


「はいはい」


 レオはメニューから目を離した。


 それ以上、澪の方を見ることもなかった。


 ほどなくして、麺と炒めた肉、青菜、それに薄いスープが運ばれてくる。


 今日は確かに辛くなかった。


 ベンが一口食べ、満足そうに頷く。


「平和」


「黙って食え」


 食べ始めてしばらくすると、食堂の奥に置かれたラジオから音楽が流れた。


 古いロックだった。


 スピーカーが少し割れていて、ギターだけが不自然に大きく聞こえる。


 澪は食事を続けながら耳を傾けた。


「この曲、知ってるのか?」


 不意にレオが言った。


 澪は顔を上げる。


「聞いたことあります」


「日本でも流れてんの?」


「父がこういうのを聴いてたので」


「へえ」


 レオがラジオへ目を向ける。


「レオも好きなんですか」


「嫌いじゃねぇ」


「聞いてたんですか」


「昔いたとこで、ずっと流れてた」


「どこですか」


 一瞬だけ、レオの視線が戻った。


「港」


 それだけだった。


 どこの国の、何という街の港なのか。


 いつ頃の話なのか。


 澪は聞かなかった。


 言う気があるなら、レオが言うだろうと思った。


 曲はサビに入った。


 古いスピーカーが音を割る。


「私は詳しくないですけど、こういうのは好きです」


「じゃ、似たようなもんじゃん」


 レオはもう料理へ視線を戻している。


 大した話ではない。


 偶然、同じ曲を知っていただけだ。


 澪も箸を動かした。


 それでも、さっきより曲が少し耳に残った。


          *


 帰り道、市場の手前で人の流れが少し詰まっていた。


 西側へ続く道の入口に、男が二人立っている。


 制服ではない。


 警察ではなかった。


 片方は腰の後ろに拳銃を差し、もう片方は肩から短い銃を下げている。


 通る車を止めることもあれば、手を振ってそのまま行かせることもあった。


 基準は澪には分からない。


「何してるんですか」


 声を抑えて聞く。


「さっき揉めた連中の見張り」


 レオが答えた。


「警察じゃないですよね」


「見りゃ分かるだろ」


「道路を止めていいんですか」


「誰が止めんだよ」


 澪は男たちを見る。


 答えになっているようで、なっていない。


 けれど、この街ではたぶん、それが答えなのだ。


 こちらに気づいた一人が、レオを見る。


 顎を軽く上げた。


 レオも同じように返す。


 それだけで、何も言われず通された。


「知り合いですか」


「顔知ってるだけ」


「向こうも?」


「そうなんじゃねぇの」


「ブラックタイドだから?」


 レオが横目で見る。


「それもある」


 そこから先は言わなかった。


 澪も聞かなかった。


 旧港へ来た最初の日も、レオの後ろを歩いた。


 あの時は、この男について行くこと自体が怖かった。


 今は、レオがいることで通れる場所がある。


 安全になったわけではない。


 むしろ、その逆なのかもしれない。


 こういう場所で顔が通るということが何を意味するのか、澪はまだ全部を知らなかった。


          *


 午後は静かだった。


 蓮は引き継ぎ先の会社について古い登録を追い、澪は青葉側の記録と照らし合わせる。


 レオは一度外へ出て、二時間ほど戻らなかった。


 どこへ行ったのかは誰も聞かない。


 夕方近くになって階段から足音がした。


「遅かったね」


 ベンがパソコンの画面を見たまま言う。


「うるせぇ」


 レオが戻ってくる。


 黒いシャツの肩が少し濡れていた。


「降った?」


「向こうだけ」


 それだけ答え、ソファへ荷物を放る。


 冷蔵庫から水を取り、蓋を開けた。


 澪は一度だけ顔を上げ、それから資料へ戻った。


 昼のラジオで流れていた曲が、ふと頭の中に戻ってきた。


 同じ曲を知っていた。


 それだけのことなのに、いつもより少し覚えている。


 理由を考えるほどのことではなかった。


          *


 夕方には、空がまた暗くなっていた。


 澪が書類を鞄へ入れていると、ソファからレオの声がした。


「ミオ」


 顔を上げる。


「はい」


「昼の店」


「はい」


「うるさかったろ」


 澪は少し考えた。


 確かに人は多かった。ラジオも鳴っていたし、店員の声も大きかった。


「普通じゃないですか」


「お前、静かな方が好きだろ」


 手が止まった。


 そんな話をしたのは、熱が下がった日のホテルだった。


 誰かといても静かなのかと聞かれた。


 相手による、と答えた。


 覚えていたらしい。


「嫌いではないです」


「もっと静かなとこある」


「この辺に?」


「ちょい歩く」


 レオはソファへ深く座ったまま、こちらを見ていない。


「飯もうまい」


「そうなんですね」


 澪は鞄の口を閉じた。


 少し間があった。


「……そのうち連れてく」


 澪は顔を上げた。


 レオは煙草の箱を指先で弄っている。


 こちらを見る様子はない。


「はい」


 澪も、それ以上は言わなかった。


 いつ行くのかは決まっていない。


 約束と呼べるほど具体的でもない。


 それでも、最近のレオは時々、まだ来ていない時間の話をする。


 次は。


 そのうち。


 澪はそのことを考えかけて、やめた。


 意味をつけるには早い。


 階下から、何かが落ちる大きな音がした。


「ベン!」


 レオが怒鳴る。


「壊してない!」


「まだ何も聞いてねぇだろ!」


 即座に言い返す声が上がる。


 澪は小さく笑った。


 窓の外では、旧港の夜が始まりかけていた。







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