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第14話 青灯




 翌日は、朝から蒸し暑かった。


 雨は降っていないのに空は白く濁り、旧港の建物の隙間には夜の水気がまだ残っていた。開けた窓から入り込む風も生ぬるく、紙をめくる指先にまで湿気がまとわりつく。


 ブラックタイドの二階では、朝から蓮とベンが別々の電話をしていた。


 澪は机に広げた搬送記録を、一枚ずつ日付順に並べ直している。


 旧管理会社から引き継ぎを受けた会社について、新しく分かったことはほとんどなかった。今も登記上は存在し、港湾書類の代行や通関補助を行っている。過去には名義を他業者へ貸した記録もある。


 けれど、それが今回消えた貨物とどう関係するのかは分からない。


 そもそも、関係があるのかどうかもまだ確かではなかった。


 澪は会社名の横に小さく日付を書き足し、鉛筆を置いた。


 窓際では、レオが煙草の箱を弄っていた。


 一本取り出しかけて、戻す。


 しばらくして、また箱を開ける。


 結局吸わず、ポケットへ押し込んだ。


 澪は一度だけそれを見て、資料へ戻った。


 少しして、グレイが外から戻ってきた。


 濃い色のシャツの肩に薄く汗が滲んでいる。


「水城」


「はい」


「今日は六時で切れ」


「何かありますか」


「お前じゃない。蓮を少し借りる」


 蓮が電話を切り、顔を上げた。


「どこです?」


「港湾局。向こうの担当が今夜しか空かねぇ」


 蓮が腕時計を見る。


「分かりました」


 澪は資料へ視線を戻した。


 帰りの足がなくなる。


 そう考えたのと、ほとんど同時だった。


「俺送る」


 レオが言った。


 グレイが一度だけそちらを見る。


「車は?」


「ある」


「寄り道すんなよ」


「分かってる」


 昨日、「そのうち連れてく」と言われたことが一瞬頭に浮かんだ。


 澪は何も言わなかった。


 今日とは限らない。


 そう思った。


          *


 六時を少し回った頃、澪は最後の資料をファイルへ戻した。


 外はまだ明るい。


 ただ、昼間の白っぽい光はもう弱くなり、倉庫街の壁には夕方の影が長く伸びている。


 グレイと蓮はすでに出ていた。


 ベンは階下で何かを探しているらしく、時々物を動かす音だけが上がってくる。


 澪が鞄を肩へ掛けると、ソファにいたレオが立ち上がった。


「腹減ってる?」


「少し」


「じゃあ飯食ってく」


 あまりにも普通に言われて、澪は一拍遅れて顔を上げた。


「ホテルに戻る前にですか」


「ああ」


「寄り道しないって言われてませんでした?」


 レオが止まる。


「……聞いてたのかよ」


「同じ部屋にいましたから」


「飯は寄り道じゃねぇだろ」


 澪は黙って見た。


「何」


「グレイさんに確認した方がいいんじゃないですか」


「分かったよ」


 少し面倒そうに言い残し、レオは階段を降りていった。


 数分もしないうちに戻ってくる。


「東側ならいいって」


「そうですか」


「お前がうるせぇから」


 澪は何も返さなかった。


 たぶん、自分が言わなくても確認したのではないかと思った。


 ただ、それを口にする必要もなかった。


          *


 その日は車だった。


 旧港の中心を抜け、大通りへ出ると思っていたのに、レオは途中で右へ曲がった。


 澪は窓の外を見る。


「ホテル、そっちじゃないですよね」


「知ってる」


「どこ行くんですか」


「飯」


 それ以上は説明しなかった。


 車は、澪がまだ歩いたことのない一角へ入っていく。


 古い港の東端。


 倉庫街と住宅地の境目のような場所だった。


 道幅は狭く、低い建物が肩を寄せるように並んでいる。中心部ほど露店は多くない。日が落ち始めているのに、人通りもまばらだった。


 レオは小さな路地の入口で車を停めた。


「ここから歩く」


 澪は外へ出る。


 海からの湿った風に、どこか甘い香辛料の匂いが混じっていた。


 レオは鍵を掛け、半歩先を歩き始める。


 路地はさらに細くなる。


 頭上には洗濯物が渡され、二階の窓から小さなラジオの音が漏れている。遠くでは港のクレーンが動いているらしく、金属が軋む低い音が時々聞こえた。


 そこを抜けた先に、小さな店があった。


 店というより、屋台に屋根と壁を足したような造りだった。


 入口の脇に、青いガラスの灯りが一つ下がっている。


 まだ完全には暗くなっていないのに、その灯りだけが妙にはっきり見えた。


 古びた板に、二文字。


 青灯


 澪は足を止めた。


「ここ?」


「ああ」


 レオはそれだけ言って、中へ入っていった。


          *


 店の中には、四人掛けの卓が三つ。


 奥に小さな厨房がある。


 客は一人だけだった。


 壁際で年配の男が酒を飲んでいる。


 派手な音楽も、テレビもない。


 聞こえるのは、鍋の中で油が弾ける音と、食器が触れ合う小さな音。それから、外を通る自転車のベルくらいだった。


 澪は一度、店内を見回した。


「本当に静かですね」


「だろ」


 レオは一番奥の卓へ向かった。


 自然に、壁を背にする方へ座る。


 そこからなら入口も厨房も見えた。


 澪は向かいへ座る。


 厨房から、年配の女主人が出てきた。


 レオを見る。


 そのあと澪を見る。


 ほんの一瞬だけ間があった。


 何も言わず、水の入ったグラスを二つ置く。


 レオは慣れた様子で短く注文した。


「いつもの。二つ」


 女主人が澪を見る。


 澪もレオを見る。


「何が来るんですか」


「麺」


「辛くないですか」


「辛くねぇ」


 少し間を置いて、


「……多分」


 澪は眉を上げた。


「多分?」


「無理なら残せ」


 それだけだった。


 女主人が厨房へ戻る。


 また静かになる。


 不思議なくらい、気まずくなかった。


 レオは話題を探さない。


 澪も探さなかった。


 外で誰かが笑う声がして、すぐ遠ざかる。


 青い灯りが入口の布を薄く照らしている。


「よく来るんですか」


 しばらくして、澪が聞いた。


「まあ」


「一人で?」


「大体」


 澪はグラスに触れた。


「静かだから?」


 レオが少しだけ目を上げる。


「それもある」


「他には?」


「飯うまいし。遅くまでやってるし」


 一度、厨房の方を見る。


「余計なこと聞かねぇし」


 澪も店の奥を見る。


 年配の夫婦は互いにほとんど話していない。


 片方が皿を出せば、もう片方が何も言わず受け取る。


 そういう店だった。


「合ってますね」


「何が」


「レオに」


 眉が少し動く。


「どういう意味」


「静かで、余計なことを聞かないところ」


「俺が喋んねぇみたいじゃん」


 澪は少しだけ笑った。


「そこまでは言ってません」


「言ってるだろ」


「ベンさんとはよく喋ってますよね」


「あいつがうるせぇだけ」


「レオも返してます」


「返さねぇとずっと喋るんだよ」


 そこで、レオが小さく笑った。


 ほんの一瞬、目元が緩む。


 昼間、危険な相手を見ている時とはずいぶん違う。


 澪はグラスを持ち上げた。


 店の静けさの中では、その変化が妙にはっきり見えた。


          *


 運ばれてきたのは、透き通ったスープに細い麺の入った料理だった。


 青菜。


 薄切りの肉。


 刻んだ葱。


 湯気の中に、八角とは違う淡い香りが混じっている。


 澪は一口食べた。


「おいしい」


「だろ」


 レオはもう食べ始めていた。


 味は濃すぎない。


 辛くもない。


 ホテルの料理よりずっと素朴なのに、妙に落ち着く味だった。


「これ、いつも食べてるんですか」


「大体」


「他のものは?」


「たまに」


「じゃあ、“いつもの”で通じるくらい来てるんですね」


「まあな」


 気にした様子もない。


 澪はもう一口食べる。


 厨房の女主人がこちらを一度見た。


 視線が合う。


 口元だけ、少し笑われた気がした。


 澪も小さく会釈した。


 レオは気づいていない。


 たぶん。


 食事の途中、会話は何度も途切れた。


 でも、誰も埋めようとしなかった。


 澪は麺を食べる。


 レオは水を飲む。


 厨房から鍋の蓋が鳴る。


 外を原付が一台通る。


 それだけだった。


 熱を出した日に、ホテルの部屋で言われたことを思い出す。


 お前といると、何もしなくていい。


 あの時は、意味がよく分からなかった。


 今も全部分かるわけではない。


 ただ、話すことが途切れても、何かを失敗した感じがしない。


 澪はそのことだけを、ぼんやり思った。


          *


 食べ終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 青い灯りが、さっきより鮮明になっている。


 レオが立ち上がり、会計をしようとした。


 澪も財布を出す。


「いくらですか」


「いい」


「払います」


「別にいいって」


「自分の分は払います」


 レオがこちらを見る。


「……頑固」


 澪は財布を持ったまま待った。


 数秒して、レオは諦めたように金額を言った。


 澪は自分の分を出す。


「最初から言ってください」


「奢られとけよ」


 澪は何も返さなかった。


 女主人が紙幣を受け取り、二人分をまとめて数える。


 その口元がまた少し笑っていた。


 今度は澪も気づいた。


 何がおかしいのかは分からない。


          *


 帰りの路地は暗かった。


 古い街灯と、店先の灯りだけが道を照らしている。


 澪はレオの半歩後ろを歩いた。


 昼間より静かだった。


 遠くから、港の低い機械音が響いている。


 路地の角を曲がる直前、レオが止まった。


 澪も足を止める。


 向こうから男が二人歩いてくる。


 酒が入っているらしく、声が大きい。


 一人がこちらを見る。


 澪を見る。


 もう一度見る。


 レオが何も言わず、一歩だけ位置を変えた。


 澪の真正面ではない。


 斜め前。


 視線だけが男へ向く。


 男の歩みがほんの少し遅くなった。


 レオは睨みもしない。


 ただ見ていた。


 それで十分だった。


 男は目を逸らし、そのまま通り過ぎた。


 レオは振り返らず歩き出す。


 澪もついていった。


「知り合いですか」


「知らねぇ」


「そうですか」


 それだけだった。


 澪は少しだけ歩く位置を内側へ寄せた。


 レオは何も言わなかった。


          *


 車へ戻る。


 ホテルまでの道は、さほど混んでいなかった。


 レオはラジオを小さくつけた。


 流れてきたのは知らない曲だった。


 澪は窓の外を見る。


 旧港を抜けるにつれ、建物が少しずつ新しくなっていく。


 ホテル街の明るい看板が近づく。


「青灯って」


 澪が言った。


「ん?」


「よく来る場所なんですよね」


「まあな」


「教えてもらってよかったです」


 レオは前を見たままだった。


「飯うまかった?」


「はい」


「ならいい」


 会話はそこで終わった。


 車内には、小さな音量の音楽だけが残る。


 澪は窓へ映るレオの横顔を一度だけ見た。


 左の眉の上にある薄い傷。


 まっすぐ前を見る目。


 片手でハンドルを握る指。


 最初に会った日には、できれば二度と会いたくないと思った男だった。


 銃を持つ時の顔も知っている。


 知らない男を一目で危険かどうか測る目も。


 ベンと言い合っている時の雑な笑い方も。


 そして今日、いつも一人で座る席を知った。


 余計なことを聞かれないから好きだという、小さな理由も。


 澪は視線を窓の外へ戻した。


 青い灯りが、まだ目の奥に残っていた。


 レオについて知っていることが、また一つ増えた。


 それが何を意味するのかは、まだ考えなくてよかった。





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