第15話 期限
青灯へ行ってから、二日が過ぎていた。
朝から、細い雨が降っている。
窓を叩くほど強くはない。灰色の空から途切れなく落ちる雨が、ホテル前の舗道を暗く濡らし、通りを走る車が水を弾く音を低く響かせていた。
澪は部屋の机に置いた手帳を開いた。
三週間の出張も、残り四日。
来た時には長いと思っていた日数が、今は妙に短く見えた。
荷物が減ったわけではない。むしろ資料は増え、机の上にはコピーと付箋が重なっている。消えた貨物についても、まだ「ここでなくなった」と言い切れる地点には辿り着いていなかった。
それでも、帰国日は最初から決まっている。
仕事が終わったかどうかとは別に、航空券には日付がある。
澪は手帳を閉じた。
その直後、蓮から迎えに着いたと連絡が入った。
*
ブラックタイドへ着くと、階下の倉庫には見慣れない小型トラックが停まっていた。
荷台の横では作業員が二人、雨を吸った帆布を掛け直している。濡れた木と油の匂いが、湿った空気に混じっていた。
二階へ上がると、グレイが電話をしていた。
「ああ。レオが今見てる。三番倉庫だ」
受話器を肩へ挟み、机に置いた紙へ何かを書きつける。
「現物が合ってるなら急がなくていい。……いや、帳簿は持ってこさせろ」
ベンはパソコンの前で画面を睨み、蓮は昨夜持ち帰った資料を仕分けていた。
澪は自分の席へ鞄を置く。
「水城さん」
蓮が顔を上げた。
「午後、少し席外します」
「どこか行くんですか」
「港湾局です。旧管理会社の件で、昨日連絡した担当者が会えるそうなので」
グレイが電話を切った。
「向こうが話す気になったうちに聞いとけ。明日には気が変わるかもしれねぇ」
「そういう言い方すると怖いんですよ」
「ヴァレリオで役人の予定なんか信用する方が悪い」
蓮は小さくため息をついた。
澪は資料を机へ広げる。
数十分後、階段を上がってくる足音がした。
レオだった。
黒いシャツの肩が雨で濡れている。片手には透明な袋に入れた書類の束、もう片方には油のついた軍手を持っていた。
「三番、帳簿が古い」
入ってくるなり言う。
グレイが顔を上げた。
「数は」
「現物は合ってる。紙が一個前のまま」
レオは袋から伝票を抜き、グレイの机へ置く。
「あと右奥の扉、鍵死んでる。今日中に替えた方がいい」
「誰か触った形跡は?」
「今んとこねぇ」
「分かった」
それで話は終わった。
レオは軍手をゴミ箱へ放り、階下へ降りていく。
澪は机に置かれた伝票へ一度だけ目をやった。
レオは二階の机に向かっている時間が少ない。
そのせいで何をしているのか見えにくいだけで、港や倉庫ではこうして荷と帳簿を照らし合わせ、車両や出入口まで見て回っているらしい。
少しして戻ってきたレオは、濡れた前髪を指でかき上げ、冷蔵庫から水を取った。
「おはようございます」
澪が言うと、一瞬こちらを見る。
「おう」
それだけだった。
*
午前中、青葉貿易から電話があった。
澪は二階の窓から少し離れた場所で、会社の携帯を耳に当てた。
東京はすでに昼を過ぎている。
上司の声の向こうに、コピー機の音と、誰かが別の電話に応じる声が聞こえた。
『予定通り戻れそう?』
「はい。今のところは」
『“今のところ”ってことは、何かある?』
澪は机に広げた資料へ目を落とした。
旧管理会社。
引き継ぎ先。
倉庫記録。
受領されていない貨物。
線は少しずつ増えている。
けれど、まだ一本にはなっていない。
「確認しきれていない資料があります。現地でしか取れないものも、まだいくつか」
『あと四日か』
「はい」
電話の向こうで紙をめくる音がした。
『一応、延長できるか人事と総務には確認してある』
澪は顔を上げた。
「延長ですか」
『必要なら。まだ決定じゃないよ。水城さんの判断もあるし』
「私の?」
『もちろん。こっちから勝手に一週間追加、とはしない』
澪は少し黙った。
『現地、危ないんでしょ』
「……安全とは言えないです」
『だったらなおさら。続ける価値があるのか、残り四日で一度考えて。戻ってから日本側で詰められるなら、その方がいい』
「分かりました」
『今日明日で決めなくていいから』
通話を切る。
携帯を机へ置いても、澪はすぐには資料へ戻らなかった。
延長。
その選択肢は、きちんと考えたことがなかった。
予定通り帰るか。
仕事を終わらせるか。
どちらかだと思っていた。
「延びんの?」
少し離れたところから声がした。
振り返る。
レオは低いテーブルに置いた配送伝票を見ていた。今朝持ち帰ったものらしい。濡れた箇所を布で押さえながら、数字を確かめている。
「まだ分かりません」
「帰んの、いつだっけ」
「四日後です」
レオの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに伝票の端を持ち直す。
「ふうん」
それだけ。
澪も仕事へ戻った。
*
昼前、蓮が新しいコピーを持ってきた。
「水城さん、これ見てもらえます?」
「はい」
差し出されたのは、旧管理会社が倉庫管理をしていた頃の搬送確認書だった。
澪は一枚目を見る。
日付。
貨物番号。
倉庫番号。
管理会社の印。
二枚目。
三枚目。
四枚目で、指が止まった。
「……これ」
「気になりますよね」
書類の日付は、旧管理会社が事業を終えた後だった。
数日ではない。
一か月以上。
それなのに、下部には旧会社の社名と管理印が残っている。
「会社が閉じた後ですよね」
「登記上は、そうです」
「古い書式をそのまま使った可能性は?」
「あります」
蓮が頷く。
「現場なら、しばらく旧様式が残っていてもおかしくないです」
澪も頷いた。
紙だけなら、あり得る。
けれど印まで同じなのが少し引っかかる。
「これ一枚だけですか」
「今のところ」
「前後の日付は?」
「探してます」
澪はコピーを机へ置いた。
古い用紙。
古い印。
引き継ぎ後の処理漏れ。
説明はいくつもできる。
「コピー、別にしておいてもいいですか」
「もちろん」
澪は付箋へ日付だけを書いた。
理由は書かなかった。
まだ分からない。
分からないから残す。
それでいい。
向かいではベンがキーボードを叩いている。
「何か出た?」
「まだ何とも」
「そっか」
ベンはそれ以上聞かなかった。
*
午後、蓮は港湾局へ出た。
雨脚は時間とともに強くなり、窓の外が灰色に霞んでいく。屋根を打つ音で、ベンの電話の声もところどころ聞き取りにくかった。
澪は同じ資料を三度見直した。
集中できていない。
理由は分かっていた。
あと四日。
その数字が、思った以上に頭の片隅へ残っている。
ヴァレリオへ来た時は、三週間も長いと思っていた。
最初に銃声を聞いた日は、むしろ早く帰りたかった。
ホテルへ戻れば、日本へ帰る日を確認したこともある。
それが今は、あと四日と言われると短く感じる。
仕事が終わっていないから。
それは事実だった。
ただ、それだけなのかと考え始めると面倒になり、澪はペンを置いた。
冷蔵庫を開ける。
黄色いラベルのレモンソーダが二本入っていた。
一本取る。
王冠を開けようとして、栓抜きが見当たらない。
「そこ」
レオが低いテーブルの端を指した。
「あ」
澪が手を伸ばす前に、レオが取る。
「貸せ」
瓶を渡した。
軽い金属音。
王冠が外れる。
レオはそのまま瓶を返す。
「ありがとうございます」
「ん」
澪は窓から少し離れた壁へ寄り、瓶へ口をつけた。
冷たい酸味が喉を通る。
しばらく、雨音だけが続いた。
「帰りたい?」
レオが言った。
唐突だった。
澪は瓶を下ろす。
「日本に?」
「ああ」
レオは澪を見ていなかった。
朝の伝票をまとめ直し、クリップで留めている。
澪は少し考えた。
「帰りたくないわけではないです」
「何それ」
「帰ったら帰ったで、落ち着くと思います」
「じゃあ帰りてぇんじゃん」
「そういうことでもないです」
レオが眉を寄せる。
分かりにくいと言いたそうだった。
澪自身にも、まだきれいには説明できない。
「仕事が途中なので」
結局、それだけ言った。
「終わんなかったら?」
「考えます」
「延ばす?」
「まだ決めてません」
レオは何も言わなかった。
クリップを一度押し直し、束をテーブルへ置く。
雨が強くなる。
それ以上、会話は続かなかった。
*
夕方近く、蓮が戻ってきた。
濡れた傘を階下へ置き、上着の袖を払いながら二階へ上がる。
「どうだった」
グレイが聞く。
「話は聞けました」
蓮は鞄からメモを出した。
「管理会社が切り替わったあとも、旧様式の帳票をしばらく使っていたそうです。倉庫に残っていた旧印も、一か月くらいはそのまま使われていたと」
澪と蓮は、昼に見た搬送確認書へ目をやった。
「じゃあ、この日付でも旧印が残っていた可能性はありますね」
「あります」
蓮が答える。
「正式な切り替えと現場の運用がずれてたらしいです。担当者も、当時は珍しくなかったと言ってました」
一つ、説明がついた。
澪は書類を見下ろす。
では、これは違うのかもしれない。
そう思ってから、付箋は剥がさなかった。
説明がつくことと、正しいことは同じではない。
ただし、疑わしいことと、悪いことも同じではない。
今はそれ以上決めなくていい。
*
雨が少し弱まった頃、澪は帰り支度を始めた。
蓮が車の鍵を取り出す。
「行きましょうか、水城さん」
「はい」
澪は最後の資料を鞄へ入れる。
「じゃあ、また明日」
ベンが椅子の背から手を振った。
「お疲れさまです」
グレイにも声をかけ、階段へ向かう。
窓際にいたレオが、一度だけ顔を上げた。
昼間にした会話の続きはなかった。
澪も何も言わず、そのまま階段を降りた。
*
ホテルへ戻る頃には、また雨が降り始めていた。
部屋へ入り、濡れた靴を脱ぐ。
携帯電話を充電器へ繋ぎ、机へ置く。
その横に、朝閉じた手帳がある。
澪はしばらく見てから、もう一度開いた。
帰国予定日に引いた細い線。
四日後。
そこは変わっていない。
延長するなら、その先に日付が増える。
戻るなら、ここで終わる。
仕事だけを考えるなら、残る理由はある。
危険だけを考えるなら、帰る理由もある。
どちらも間違ってはいない。
澪はペンを持った。
けれど、何も書かなかった。
今日、レオに聞かれた。
帰りたいか。
うまく答えられなかった。
そのことが、妙に残っている。
窓の向こうでは、雨に濡れた街の灯りがぼやけていた。
初めて見た時には、知らない街だった。
今も、知らないことの方が多い。
けれど、まったく知らない街ではなくなっていた




