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第16話 三日先




 翌朝、雨は止んでいた。


 雲はまだ低く、ホテルの窓から見える街は薄い灰色に沈んでいる。昨夜の水が路面のあちこちに残り、庇の端から落ちる雫が、歩道の縁にできた浅い水溜まりへ一定の間隔で波紋を作っていた。


 澪は支度を終えたあと、机の上の手帳を開いた。


 帰国予定まで、三日。


 細い線を引いた日付の先には、何も書かれていない。


 会社からは、必要なら延長できると言われている。


 昨日は決めなかった。


 仕事は終わっていない。それでも、仕事というものは、終わろうと思えばどこかで区切れるし、終わらせまいと思えばいくらでも続く。


 澪はしばらく予定表を見てから、手帳を閉じた。


 ちょうどその時、携帯電話が鳴った。


 蓮からだった。


『下に着きました』


「今行きます」


 澪は鞄を取り、部屋を出た。


          *


 旧港へ近づくにつれて、街の色が変わっていく。


 ホテル街の磨かれたガラスが減り、雨で黒ずんだ石壁と錆びた庇、低く張り出した看板が増える。道路の端では、昨夜流されたごみを男が竹箒で集めていた。


「昨日の書類なんですけど」


 運転しながら蓮が言った。


「旧印の?」


「はい。あれ自体は、たぶん説明がつきます。ただ、担当者から別の話が出ました」


 澪は助手席から蓮を見る。


「何ですか」


「旧管理会社が倉庫から完全に手を引いたあとも、何件かだけ、別会社名義の搬送処理に関わっていたらしいです」


「引き継ぎ先じゃなくて?」


「そこが曖昧なんですよ」


 蓮は交差点の手前で速度を落とした。大型トラックが泥水を跳ねながら横切っていく。


「担当者も社名までは覚えてないそうです。小さい会社だった、としか」


「記録は?」


「残ってる可能性があります。紙で」


 澪は少し黙った。


 この街では、紙が妙によく残る。


 残っているのに、必要な一枚だけ見つからないこともある。


「見られるんですか」


「午後なら。港湾局の保管庫に入れてもらえるそうです」


「今日?」


「ええ」


 蓮は前を見たまま続けた。


「ただ、量は多いみたいです。一日で全部見るのは無理だと思います」


 澪は窓の外へ視線を戻した。


 三日。


 その数字だけが、また頭の隅へ浮かんだ。


          *


 ブラックタイドの一階には、朝から荷が入っていた。


 金属製の台車が床を転がり、倉庫の奥で木箱を動かす鈍い音が響いている。


 澪が階段へ向かう途中、奥でレオの姿が見えた。


 黒いTシャツの袖を捲り、作業員と何かを確認している。開いた木箱の隙間から、布に包まれた細長い金属が一瞬だけ覗いた。


 それが何なのか、澪には分からなかった。


 分からないまま、足を止めなかった。


 最初にここへ来た頃なら、もう少し長く見ていたかもしれない。


 あるいは、見ないようにしたかもしれない。


 今はただ、ブラックタイドにはそういう荷もあるのだと知っている。


 知っていることと、慣れていいことは、たぶん別だった。


「ミオ」


 後ろから呼ばれて、振り返る。


 レオが作業台へ手袋を置いていた。


「おはようございます」


「おう」


 それだけだった。


 澪は二階へ上がった。


          *


 二階では、ベンが紙の束と格闘していた。


「最悪」


 澪が席へ着くと同時に言う。


「何がですか」


「昨日頼んだ一覧。全部紙で来た」


 机の上には、数十枚のコピーが積まれている。


「データは?」


「ないって」


「本当に?」


「聞いた。二回」


 後ろを通った蓮が覗き込む。


「ヴァレリオですから」


「その言葉で全部済ませるのやめようよ」


 ベンが眼鏡を押し上げる。


 澪は少し笑ってから、自分の資料を広げた。


 午前中は、昨日までと大きく変わらなかった。


 搬送日。


 倉庫番号。


 荷主。


 受取先。


 同じ番号が別の紙でどう扱われているかを、ひとつずつ照らし合わせていく。


 途中、レオは二度だけ二階へ上がってきた。一度はグレイへ何かを報告し、もう一度は電話を一本かけて、また倉庫へ戻った。


 昼前になって、青葉貿易から連絡が入った。


『水城さん、延長の件なんだけど』


「はい」


『今日中じゃなくてもいいとは言ったんだけど、航空券の変更を考えると、できれば明日の午前中までには決めてほしいって』


「分かりました」


『無理しないでね』


「はい」


 短い通話だった。


 携帯を閉じる。


 明日の午前中。


 昨日までぼんやりしていた期限が、少しだけ形を持った。


「会社?」


 ベンが聞く。


「はい」


「帰る話?」


「そうです」


「もうそんな時期か」


 それだけ言って、ベンはまた紙へ戻った。


 澪も資料を引き寄せた。


          *


 午後、澪と蓮は港湾局へ向かった。


 建物は旧港の北側にある。


 薄汚れた白い壁。回りの悪い天井扇風機。廊下には湿った紙と古い洗剤の匂いが染みついていた。


 案内された保管室には、金属棚が何列も並んでいる。


 箱。


 ファイル。


 封筒。


 色も大きさも違う資料が、年度ごとに押し込まれていた。


「……これ全部ですか」


 澪が言うと、担当の男が肩をすくめた。


「この棚だけだ」


 十分多かった。


 蓮が苦笑する。


「一日じゃ無理ですね」


「ですね」


 担当者が棚の一段を指す。


「会社名が分からないなら、この辺から見るしかない」


 年代だけは合っている。


 澪は最初の箱を引き出した。


 重い。


 蓮が横から支え、二人で机へ運ぶ。


 蓋を開ける。


 そこから先は、ひたすら紙だった。


 搬送許可。


 倉庫使用申請。


 通関補助。


 臨時の代理申請。


 古い社名。


 見慣れない印。


 同じ会社名が二度出てきた。


 澪は控えた。


 一時間ほどして、別の会社名も出た。


 それも控える。


 意味があるかは分からない。


 分からないから、残す。


 日が傾き始めた頃、蓮が椅子の背にもたれた。


「今日はここまでにした方がいいですね」


 澪も手を止めた。


 見終わったのは、棚の一部だけだった。


 まだ半分以上残っている。


「続き、明日も見られますか」


「担当者がいる時間なら」


 蓮は棚を見てから、澪へ視線を戻した。


「でも、水城さん」


「はい」


「帰国、三日後ですよね」


「そうですね」


 蓮はそれ以上言わなかった。


 帰った方がいいとも、残った方がいいとも。


 澪は閉じた箱へ手を置いた。


          *


 ブラックタイドへ戻ったのは、夕方だった。


 雨は降っていなかったが、空はまた暗くなり始めている。


 二階へ上がると、グレイは窓際の机で書類を読んでいた。


「どうだった」


 蓮が簡単に説明する。


 社名はまだ特定できない。


 資料は多い。


 明日以降も確認する価値はある。


 グレイは最後まで黙って聞いた。


「で」


 話が終わると、低い声で言う。


「水城はいつ帰る」


「三日後の予定です」


 澪が答えた。


「予定、ね」


 グレイは椅子へ背を預けた。


「会社は何て」


「延長はできます。まだ決めてません」


「そうか」


 それだけだった。


 澪は少し意外に思った。


「何も言わないんですね」


「何を」


「残った方がいいとか、帰った方がいいとか」


 グレイが一度、澪を見る。


「俺が決めんのか?」


 短い言葉だった。


 澪は黙る。


 グレイはまた書類へ視線を落とした。


「残るなら、こっちは安全の手を増やす。帰るなら、それまでに渡せるもんをまとめる。それだけだ」


「……はい」


 それ以上の言葉はなかった。


 澪は自分の机へ戻った。


 少しして、階段を上がる足音がした。


 レオだった。


 Tシャツの胸元に黒い汚れがつき、腕にも薄く油が残っている。


「終わった?」


 ベンが聞く。


「何が」


「下」


「とりあえず」


 レオは冷蔵庫を開けた。


 手を伸ばしかけて、少し止まる。


 黄色いラベルのレモンソーダが一本だけ残っていた。


 その隣の水を取る。


 澪は机からその動きを見ていたが、何も言わなかった。


「港湾局、どうだった」


 レオが蓋を開けながら聞く。


「資料が多かったです」


「見つかった?」


「まだ」


「そ」


 そこで終わる。


 昨日は帰国のことを聞いてきた。


 今日は聞かない。


 澪は、なぜかそのことに気づいた。


          *


 ホテルへ戻ったあと、澪はシャワーを浴び、髪を乾かしてから机に座った。


 手帳を開く。


 帰国予定日。


 その先の空白。


 今日は港湾局で、見終わらなかった棚を見た。


 まだ確認できることがある。


 それは、残る理由にはなる。


 けれど、仕事はいくらでも続けられる。


 一つ分かれば、その先にまた確認することが出てくる。


 終わるまで残る、では、たぶんいつまでも決められない。


 澪はペンを指の間で転がした。


 ふと、夕方のグレイの声が浮かんだ。


 俺が決めんのか?


 澪は手帳へ目を落とした。


 帰国予定日の横には、まだ何も書かれていない。


 ペン先を紙の上へ近づける。


 少し考えて、小さな印だけをつけた。


 線は消さなかった。


          *


 翌朝。


 澪は蓮を少し待たせ、ホテルのロビーの隅から会社へ電話をかけた。


『はい、水城さん』


「昨日の延長の件なんですが」


『うん』


 澪はガラス越しに外を見る。


 朝の道路を、傘を持った人たちが行き交っている。


「一週間、延ばしたいです」


 口にしてみると、思っていたより普通の言葉だった。


『大丈夫?』


「はい。現地で確認したい資料があります。今戻るより、ここで一度区切りまで見た方がいいと思います」


『分かった。じゃあ航空券とホテル、こっちで調整するね』


「お願いします」


『危ないと思ったら、途中でも戻ってきていいから』


「はい」


 通話を切る。


 携帯を閉じた。


 胸が軽くなるわけではなかった。


 劇的に何かが変わるわけでもない。


 フロントでは従業員が鍵を渡し、ロビーのソファでは宿泊客が新聞を読んでいる。


 いつもの朝だった。


          *


 ブラックタイドへ着くと、ベンが最初に気づいた。


「決めた?」


 澪は鞄を机へ置く。


「一週間、延ばします」


「おお」


 ベンが椅子を回した。


「じゃあまだいるんだ」


「はい」


 蓮はすでに知っているので、書類を整理したまま軽く笑った。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 グレイは一度だけ頷いた。


「ホテル側はこっちからも話しとく」


「ありがとうございます」


 階下で台車の車輪が鳴った。


 少しして、レオが上がってくる。


 黒いシャツの裾を片手で拭きながら、部屋の空気を見た。


「何」


 ベンがすぐに言う。


「ミオ、一週間延長だって」


 レオの足が止まった。


 澪を見る。


「決めたの?」


「はい」


 ほんの少し間があった。


「そ」


 それだけだった。


 レオは冷蔵庫へ向かう。


 扉を開ける。


 中を見て、何も取らずに閉めた。


「水ねぇじゃん」


「昨日お前が最後の一本飲んだだろ」


 ベンが言う。


「買っとけよ」


「自分で買ってきなよ」


「今戻ったばっかなんだけど」


 言い合いが始まる。


 澪は椅子へ座った。


 一週間。


 ただ、日付が七つ増えただけだった。


 机の上の資料は昨日と同じで、外ではまた荷を動かす音がしている。


 それでも、帰国予定日の先に、昨日まではなかった時間ができた。


 澪は最初の一枚を開いた。


 冷蔵庫の前では、まだレオとベンが言い合っていた。





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