第17話 七日分
一週間延ばすと決めても、朝の景色は変わらなかった。
ホテルの廊下には同じ洗剤の匂いが残り、ロビーの隅には折り目のついた新聞が何部か重ねられている。外へ出れば、空気は朝から湿っていた。昨夜降った雨が道路の窪みにまだ残り、雲の切れ間から落ちる白い光をぼんやり映している。
変わったのは、手帳の中だけだった。
帰国予定日に引いていた細い線。その先に、会社から知らされた新しい日付を書き足す。
七日分。
数字にしてしまえば、それだけだった。
昨日までなかった日付が七つ増えたからといって、街が自分を歓迎するわけでも、調べ物が急に簡単になるわけでもない。
澪は手帳を閉じた。
ほどなく、蓮から迎えに着いたという連絡が入る。
鞄を持って部屋を出た。
*
ブラックタイドの一階では、朝から荷の積み替えをしていた。
入口近くに停められた小型トラックの荷台へ、文字のない木箱が二つ運び込まれている。
作業しているのは見覚えのない男たちだった。
一人が箱の角を持ち上げた拍子にシャツの裾がめくれ、腰に差した拳銃が一瞬だけ覗いた。男は気にした様子もなく服を戻し、向かいにいたブラックタイドの作業員も視線すら向けない。
蓮も足を止めなかった。
澪も何が入っているのかは聞かなかった。
自分の仕事に必要がないことまで知る理由はない。それだけだった。
ただ、階段へ足をかけたところで、木箱が荷台の床を滑る鈍い音が背後から響いた。
二階へ上がる。
グレイは窓際の大きな机にいて、ベンはすでにモニターへ向かっていた。
ソファは空いていた。
澪の視線が、ほんの一瞬そこへ行く。
それから自分の机へ向かい、鞄を置いた。
そこで初めて、机の横に見覚えのないものがあることに気づいた。
二段の書類トレーだった。
薄い金属製で、新品ではない。角が少しへこみ、上段の縁には黒い油性ペンを消したような跡が残っている。
「それ、余ってたやつ」
ベンがモニター越しに顔を出した。
「ミオの紙、増えすぎだから」
「すみません」
「何で謝るの。床まで侵略される前に出しただけ」
確かに、机の右端にはここ数日で増えたコピーが重なっていた。
「ありがとうございます」
澪はトレーを少し持ち上げ、使いやすい位置へ寄せる。
「下は空けといた方がいいよ」
「まだ増えます?」
「増えないと思う?」
言われて、澪は黙った。
増える気がした。
昨日まで机の端に置いていた資料を上段へ移していく。よく見るものを手前に。まだ意味の分からないものを奥に。
何度も使う資料は、もう題名を見なくても厚みで分かる。
引き出しを開ければ、予備の鉛筆がどこにあるかも分かる。
手を伸ばせば、クリップの箱に当たる。
そこまでして、澪はふと手を止めた。
三週間だけ借りるはずだった机だ。
椅子も、引き出しも、天板に残った浅い傷も、自分のものではない。
それなのに、物の置き方だけはいつの間にか決まっていた。
「何してんの」
階段から声がした。
澪は顔を上げた。
レオだった。
黒いTシャツの裾に乾ききっていない泥がついている。片手には茶色い紙袋を下げていた。
「整理です」
「見りゃ分かる」
レオは澪の机の横まで来て、新しく置かれたトレーへ目を落とした。
「増えたじゃん」
「ベンさんが出してくれました」
「へえ」
それだけ言うと、興味を失ったように向きを変え、グレイの机へ向かう。
「西の倉庫。これ」
紙袋から帳票の束を出した。
その底から、切断された小さな金属製の封印具が転がる。
細いワイヤー部分と、番号の刻まれた本体が二つに分かれていた。
貨物やコンテナの扉に取りつけ、一度切れば元には戻せないものだ。記録された番号と照合することで、途中で荷が開けられていないかを確認する。
グレイが番号の刻まれた方を指先で摘まんだ。
「どこにあった」
「西の倉庫。棚の裏」
「今日の荷か?」
「違う。古い」
「いつのだ」
レオが番号を見る。
「半年くらい前じゃね」
「“くらい”か」
「番号から分かるのそこまで」
グレイは封印具を机へ置いた。
「ベン」
「はいはい」
「番号当たれ」
ベンが椅子ごとこちらへ滑ってくる。
そのやり取りを聞きながら、澪は資料を新しいトレーへ収めていった。
下では、さっきの木箱を扱う音がまだ時々響いている。
二階ではベンが古い貨物番号を調べ、蓮が港湾局へ電話をかけ、グレイは別の帳票に目を通している。
その中で、自分は明日も使う資料の置き場所を決めている。
ここが普通の会社ではないことは、もう知っていた。
何を見ても平気になったわけではない。
ただ、驚いて立ち止まることは、最初の頃より少なくなった。
澪は空いたままの下段を一度見て、次の資料を上へ置いた。
*
午前中は、港湾局で控えた会社名の整理に使った。
候補は五社。
似た名前。
同じような業種。
設立から数年で消えた会社。
住所だけを変えて残っている会社。
登記だけでは、実際に何をしていたのか分からない会社。
澪は一社ずつ別紙へ書き出した。
「全部追います?」
「一度は」
蓮が資料を指で押さえる。
「でも、今の段階で絞りすぎない方がいいですね。担当者が言っていた“別会社”と同じものかも分かってないので」
「そうですね」
澪は頷いた。
一社は二年ほどで消えている。
一社は今も営業しているらしい。
残りの三社は、登記上の住所に本当に事務所があったのかさえ分からない。
「午後も保管庫、入れてもらえるそうです」
蓮が言った。
「行きます」
「早いですね」
「まだ半分以上残ってますから」
「そうでした」
蓮が少し笑う。
その時、奥でベンが声を上げた。
「これ、出てる」
手には、朝レオが持ち帰った封印具がある。
グレイが顔を上げた。
「何が」
「番号。うちの古い記録にも一回だけある」
「いつだ」
「五か月前」
窓際にいたレオが振り返った。
「半年じゃねぇの?」
「一か月違うだろ」
「だいたい半年じゃん」
「お前の“だいたい”は信用ならないんだよ」
レオが何か言い返しかけたところで、グレイが片手を上げた。
「どの荷だ」
ベンはモニターへ向き直る。
「ちょっと待って」
数回キーを叩く。
スクロール。
もう一度入力する。
さっきまで軽かった表情が、少し変わった。
「……港の外には出てる」
「うちが運んだのか」
「途中まで。最後は別」
「相手は」
「管理会社経由になってる」
澪の手が止まった。
蓮も顔を上げる。
「旧管理会社ですか」
「いや」
ベンが首を振った。
「切り替わった後」
部屋の空気が、一瞬だけ静まったように感じた。
澪は机の上に並べた五社の名前を見る。
「会社までは分かります?」
「ここには出てない。管理会社経由ってだけ」
「そうですか」
それ以上は言わなかった。
五か月前に使われた封印具。
管理会社経由の貨物。
今調べている会社群。
近いところにあるようには見える。
けれど、まだ線を引くには早い。
グレイが封印具を机へ戻した。
「番号だけ残せ。今はそれでいい」
澪も自分のメモへ番号を書き写した。
丸はつけなかった。
*
昼を過ぎた頃、空が急に暗くなった。
窓の外を見た蓮が軽く眉を寄せる。
「来ますね」
ほとんど同時に、大粒の雨が屋根を叩き始めた。
最初はまばらだった音が、数秒で一枚の膜のようにつながる。
道路が白く煙った。
向かいの建物の輪郭まで薄くなる。
ベンが立って窓を閉めた。
「これ、車でも嫌だな」
グレイが蓮を見る。
「保管庫の担当に確認しろ。向こうが帰るなら今日はやめろ」
「はい」
蓮が電話をかけた。
短いやり取りのあと、受話器を置く。
「三時まではいるそうです」
「道路は?」
レオが聞いた。
「北側はまだ通れるそうです」
「まだ、だろ」
蓮も窓へ目を向ける。
「十分待ちます。弱まらなければ今日はやめましょう」
澪は机の上の資料を閉じた。
保管庫には昨日見切れなかった紙が残っている。
行けるなら行きたい。
ただ、今日行かなければ消えるものでもない。
「行きてぇの?」
顔を上げると、レオが見ていた。
「見られるなら」
「外見えてる?」
「見えてます」
「だったら――」
「危ないなら行きません」
レオの言葉が止まった。
澪は窓の外へ目を戻した。
「資料は逃げないので」
数秒して、レオが小さく息を吐いた。
「ならいい」
それだけだった。
十分ほどすると、雨脚は少しずつ弱くなった。
蓮が車の鍵を取る。
澪も資料を鞄へ収めた。
その横で、レオが壁際に掛けてあった薄い上着を取る。
「俺も出る」
グレイが一度だけ視線を上げた。
「三番か」
「ああ」
「遅れるな」
「分かってる」
レオは先に階段を降りていった。
*
港湾局の保管室は、昨日より蒸していた。
雨で湿度が上がったせいか、古い紙の匂いが濃い。天井では扇風機が軋みながら回っているが、熱気を動かしているだけだった。
澪と蓮は昨日の続きから箱を開けた。
最初の一時間は何もなかった。
その次も、同じような書類ばかりだった。
搬送許可。
倉庫使用申請。
通関補助。
臨時代理申請。
古い紙をめくるたび、指先に薄く埃がつく。
窓の外では雨が何度か強まり、そのたびガラスが細かく鳴った。
澪は一枚を取り上げた。
搬送補助申請書。
会社名に目が止まる。
午前中に書き出した五社のうち、一社。
二年ほどで消えた、小さな会社だった。
日付は、旧管理会社が現場から完全に手を引いた後になっている。
「蓮さん」
「はい」
「これ」
蓮が椅子を寄せた。
紙面へ目を落とす。
「……ありましたね」
「一社だけですけど」
「ええ」
二人とも、そこから先はすぐに言わなかった。
会社名が出た。
ただ、それだけだった。
担当者が覚えている会社と同じだとは限らない。
消えた貨物との関係もない。
その会社が、その時期に港湾業務へ関わっていた。
今分かったのは、それだけ。
澪は日付と申請番号をメモした。
「コピーできるか聞いてきます」
「お願いします」
蓮が席を立つ。
澪は申請書を机へ戻す前に、もう一度だけ全体を見る。
住所。
代表者名。
受付印。
どれも今のところ見覚えはない。
紙を伏せた。
*
保管庫を出る頃には、雨は上がっていた。
濡れた道路へ夕方の光が反射し、車が通るたびに細い水しぶきが上がる。
蓮の車へ向かいながら、澪はコピーした申請書をクリアファイルへ入れた。
「一つ、候補は残りましたね」
蓮が言う。
「はい。でも、まだ名前が出ただけです」
「そうですね」
車へ乗る。
蓮がエンジンをかけた。
「水城さんって、こういう時すぐ答え決めませんよね」
澪はシートベルトを締める。
「分からないので」
「普通は、一つ当たるとそこに寄せて見たくなるものなんですけど」
澪は窓の外へ目を向けた。
「間違ってたら困るので」
「現実的ですね」
「仕事なので」
それだけ言うと、蓮は少し笑った。
それ以上は聞かなかった。
車は濡れた道路へゆっくり出ていった。
*
ブラックタイドへ戻った頃には、空が薄暗くなり始めていた。
グレイはまだ机にいて、ベンは朝とほとんど同じ姿勢でモニターへ向かっていた。
「一社ありました」
蓮がコピーを差し出す。
「候補の?」
「そうです。ただ、今のところ一件だけです」
「見せて」
ベンも椅子を寄せる。
澪は自分の机へ戻り、朝置かれた書類トレーへ今日増えたコピーを入れた。
上段の半分ほどが埋まる。
下段はまだ空いている。
ベンの言った通り、そこもそのうち埋まるのかもしれない。
そう考えてから、澪は資料を開いた。
そのまましばらく仕事を続けた。
外では、雨水を踏む車の音が時折通り過ぎていく。
階下から誰かが荷を動かす音がした。
少しして、階段を上がってくる足音が聞こえた。
澪は顔を上げるより先に、レオだと思った。
少し速い。
最後の二段だけ、間隔が詰まる。
そんなことをいつ覚えたのか、澪は考えなかった。
やがてレオが二階へ姿を見せた。
黒いシャツの背中が雨で濡れている。
髪もいつもより乱れていた。
右手の甲に、細い擦り傷がある。
乾きかけた血が一筋だけ残っていた。
澪の視線がそこで止まった。
「何」
すぐに気づかれた。
「手」
レオが自分の右手を見る。
「ああ」
「怪我したんですか」
「擦っただけ」
「何で」
「仕事」
短い。
澪はそれ以上聞かなかった。
レオはグレイの机へ行き、ポケットから鍵を一つ放る。
「三番、終わった。明日の朝出せる」
「相手は」
「問題ねぇ」
グレイの視線がレオの手へ落ちる。
「傷は」
「これ?」
「他にあんのか」
「ねぇよ。擦っただけ」
「なら洗っとけ」
「分かってる」
レオは面倒そうに答えた。
澪は自分の資料を鞄へ入れる。
浅い傷だ。
本人も気にしていない。
グレイも洗えと言っただけだった。
そのまま帰ればいい。
鞄を持ち、階段へ向かう。
二歩ほど進んでから、足が止まった。
「レオ」
「ん?」
振り返る。
さっきまでグレイを見ていた目が、そのまま澪へ向いた。
「洗ってくださいね」
レオは右手をちらりと見た。
「分かってるって」
「ならいいです」
澪はそれだけ言い、階段を降りた。
背後から返事はなかった。
*
ホテルへ戻った夜、澪は港湾局でコピーした申請書を机へ広げた。
会社名。
日付。
受付印。
申請番号。
今日分かったのは、候補に挙げた会社の一つが、その時期に実際に港で仕事をしていたこと。
それ以上ではない。
ノートへ会社名と日付を書き写す。
丸はつけなかった。
窓の外では、雨上がりの街が濡れたまま光っている。
帰国日は一週間先へ動いた。
時間は増えた。
けれど、時間が増えたからといって、答えまで近づいたわけではない。
澪は申請書を閉じた。
鞄へ手を伸ばす。
その時、夕方に見た右手が浮かんだ。
乾いた血。
ほんの浅い傷。
レオ自身もそう言っていた。
澪は手帳を取り出し、明日の予定を確認する。
考えるほどのことではない。
それなのに、頁をめくる指が止まった一瞬だけ、細い傷の形がまだ頭のどこかに残っていた。




