第18話 残っていた名前
翌朝、ブラックタイドの二階へ上がると、レオはいた。
窓際ではなく、ソファの端に浅く腰掛けている。片脚を投げ出し、昨日とは違う黒いTシャツを着ていた。
澪は階段を上がりきったところで、一度だけそちらを見た。
右手の甲には、小さな白いテープが貼られている。
それを確認してから、自分の机へ向かった。
「おはようございます」
グレイとベン、それから少し遅れて上がってきた蓮へまとめて声をかける。
ベンがモニター越しに片手を上げた。
「おはよ。今日も湿度百パーセント」
「百ではないと思います」
「体感」
「それなら分かります」
鞄を椅子へ置く。
昨日増えた二段の書類トレーは、朝になっても当然そこにあった。上段には昨日までの資料。下段には、まだほとんど何も入っていない。
手帳を取り出していると、ソファの方から声がした。
「何」
「はい?」
「さっきから」
レオがこちらを見ていた。
澪は一瞬考える。
「……何がですか」
「手」
レオが右手を少し上げた。
白いテープが見える。
「見てただろ」
「洗ったんだなと思って」
「洗えって言ったのお前じゃん」
「グレイさんも言ってました」
「お前まで言う必要あった?」
澪は少しだけ黙った。
昨日、帰ろうとしてからわざわざ足を止めたことを思い出す。
「……洗ってなさそうだったので」
「失礼だな」
「洗ったならいいです」
「何でお前が満足してんの」
レオの口元が少しだけ動いた。
澪は答えずに椅子へ座った。
ベンがこちらを見たような気がしたが、何も言わなかった。
*
昨日、港湾局で見つけた会社について、午前中に少しだけ情報が増えた。
〈マレイ・トランスポート〉。
二年ほど前に設立され、一年半ほどで登記上の活動を停止している。
扱っていたのは、港湾周辺の小口輸送と書類代行。
従業員数の記録はない。
資本金も大きくない。
それだけなら、この街では珍しい会社でもなかった。
「登録住所、旧市街ですね」
澪が書類を見ながら言った。
蓮が横から覗き込む。
「建物自体はまだあるみたいです」
「会社は?」
ベンがモニターを見たまま答える。
「電話は繋がらない。っていうか、この番号もう使われてない」
「今は何が入ってるんですか」
「地図だと古い商業ビル。一階が店舗で、上が小さい事務所区画」
グレイが机の上で煙草の箱を一度転がした。
「見に行くか」
澪は顔を上げた。
「いいんですか」
「外から見るだけならな」
「中に入れそうなら?」
「勝手に入るな」
「入りません」
即答すると、グレイが一度だけ頷いた。
「蓮」
「はい」
「大家か管理人がいるなら話を聞け。レオ、お前も行け」
ソファで靴紐を結び直していたレオが顔を上げる。
「俺?」
「嫌か」
「別に」
レオは立ち上がり、ローテーブルの鍵を取った。
「何で俺まで」
「知らねぇ住所見に行くのに二人だけで行かせる方が面倒だ」
「俺が行くと面倒増える時もあるだろ」
「自覚あったのか」
「あるよ」
ベンが吹き出した。
レオはそちらへ何か言い返しかけ、グレイの顔を見てやめた。
澪は資料を鞄へ収めた。
*
旧市街へ向かうにつれて、道幅が狭くなっていった。
昨夜の雨が石畳の隙間に残り、路地の端では茶色い水が細く流れている。建物同士の間隔は近く、二階の窓から突き出した物干し竿には色褪せたシャツが揺れていた。
褪せた漢字看板。
布の日除け。
香辛料と湿った土、それに時折混じる油の匂い。
その隙間を、小さな配達用バイクが縫うように走っていく。
運転は蓮だった。
レオは助手席。
澪は後部座席で資料を膝に置いている。
「この辺ですね」
蓮が速度を落とした。
目的の建物は、大通りから一本入った場所にあった。
三階建ての古い商業ビル。
一階には雑貨店と時計修理店が入り、上階へ続く外階段の脇には小さな会社名のプレートがいくつも並んでいる。
そのうち二つは、名前を外した跡だけが残っていた。
「ここですね」
蓮が車を停める。
レオが先に外へ出た。
ドアを閉めるより前に、周囲へ視線を走らせる。
向かいの路地。
二階の窓。
入口の奥。
通りの角。
それから、澪たちへ顎をわずかに動かした。
「いいよ」
澪は車を降りた。
もう、その確認について理由を尋ねることはなかった。
建物の入口は開いていた。
古びた階段の壁には、湿気で浮いた塗装がまだらに残っている。二階へ上がる途中、階下の時計修理店から金属を削る細い音が聞こえた。
目的の部屋は、二階の一番奥だった。
扉には何も書かれていない。
鍵がかかっている。
蓮が管理人を探しに行き、澪とレオは廊下に残った。
突き当たりの窓が一つ開いていた。
湿った風が入り込み、澪の髪の先を少し揺らす。
澪は扉を見た。
「会社だった感じ、しませんね」
「何で」
「看板の跡がないので」
レオも扉を見る。
「最初から出してなかったんじゃね」
「そういう会社ってあります?」
「あるだろ」
「普通の会社で?」
「普通がどこからかによる」
澪は横を見る。
レオは特に面白いことを言ったつもりもないらしい。
「ブラックタイドにはあります?」
「看板?」
「はい」
「あるじゃん」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何」
澪は少し考えた。
「……もういいです」
「何だよ」
レオが笑った。
短い。
声だけが、湿った廊下へ少し残った。
ほどなく階段から足音がし、蓮が年配の男を連れて戻ってきた。
薄い灰色のシャツを着た、小柄な男だった。
長くこの建物の管理をしているらしい。
蓮が事情を説明すると、男は一番奥の扉へ目をやった。
「マレイ?」
記憶を探すように眉を寄せる。
「昔、ここに入っていた会社のことで」
「ああ……」
しばらくして、小さく頷いた。
「いたな。長くはなかった」
「どんな会社でした?」
「運送だと言ってた」
「人は何人くらい出入りしていました?」
「さあ」
男は肩をすくめた。
「毎日来る会社じゃなかったからな」
蓮と澪が目を合わせる。
「事務所を使っていなかったんですか」
「使ってないわけじゃない。でも、人がいる日の方が少なかった」
「代表者は?」
澪が資料に記された名前を読み上げる。
男は少し考えたあと、首を横に振った。
「名前は覚えてない」
「どんな人が来ていたかは?」
「何人かいたよ。男。若いのもいたし、年寄りもいた」
「いつも同じ人ではなかった?」
「違ったと思う」
男は手にした鍵の束を鳴らした。
「手紙だけ取りに来る奴もいた」
澪の指が、資料の端で止まった。
「手紙だけ?」
「ああ。郵便物が溜まったら来て、まとめて持っていく。中で仕事してる感じは、あまりなかったな」
「荷物は?」
「ここじゃ見てない」
男は少し笑った。
「運送屋なのに変な会社だとは思ったよ」
その言葉だけで、何かが確定するわけではない。
小規模な輸送会社なら、実際の荷扱いを別の拠点で行うこともある。
登記と郵便受けのためだけに事務所を借りることも、それ自体はあり得る。
「いつ頃までいました?」
蓮が聞く。
男が答えた時期は、資料上の活動停止時期と大きくはずれていなかった。
「急にいなくなったんですか」
「そうでもない。家賃は最後まで払った」
「滞納は?」
「ない」
「揉め事は?」
「俺が知る限りは」
澪はノートへ短く書き込んだ。
少なくとも、この建物で問題を起こして逃げた会社ではない。
「部屋の中を見せてもらうことはできますか」
蓮が尋ねる。
男は一度考えた。
「今は倉庫代わりだぞ」
「構いません」
鍵が回る。
扉の向こうには、小さな事務所があった。
窓。
古い机が二つ。
壁際に棚。
今は段ボール箱と掃除道具が積まれている。
当時のものは、ほとんど残っていなかった。
澪は敷居の前で足を止めた。
隣にいるレオを見る。
レオは室内へ視線を巡らせる。
窓際。
机の陰。
奥の扉。
天井近くまで積まれた箱。
「別に何もねぇよ」
澪は中へ入った。
*
残っていたのは、古いラベルの跡くらいだった。
棚の側面。
剥がした紙の下に、薄く接着剤の色だけが残っている。
机の引き出しは空。
壁にも何もない。
澪は一通り確認してから、窓際に立った。
下の通りが見える。
細い路地に、雑貨店の荷物と自転車がはみ出している。
大型の貨物車両が日常的に出入りできる場所には見えなかった。
「やっぱり、ここで運送業務はしてなさそうですね」
蓮が言う。
「少なくとも、荷物を扱っていたようには見えません」
「名義だけかもしれませんね」
「かもしれません」
そこまでだった。
澪は、それ以上の言葉を足さなかった。
壁際にいたレオが言う。
「こういうの、多いよ」
澪が振り向く。
「こういう会社?」
「住所だけあるやつ」
「ヴァレリオでは?」
「ああ」
「何のために?」
レオは少しだけ間を置いた。
「いろいろ」
「答えになってません」
「答えらんねぇやつもある」
声に、さっきまでの軽さはなかった。
澪はレオを見る。
知らないのではない。
言わない。
その違いくらいは、もう分かるようになっていた。
少しして、レオが窓の外へ目を向けた。
「普通の商売でも使うし、そうじゃないのでも使う。これだけじゃ分かんねぇよ」
「はい」
澪はノートを閉じた。
その答えなら、十分だった。
*
建物を出ると、通りの向こうで男が二人、軒先に寄りかかって煙草を吸っていた。
こちらを見ている。
ただ、それだけならこの街では珍しくない。
レオが一度だけそちらを見る。
足は止めなかった。
男たちも動かない。
澪たちは車へ向かった。
蓮が運転席へ回る。
澪も後部座席へ乗ろうとした時だった。
「ミオ、右」
レオの声がした。
考えるより先に、澪は一歩右へ寄った。
次の瞬間、背後から来たバイクがすぐ横を抜けていく。
狭い路地には不釣り合いな速度だった。
水溜まりが跳ね、車のドアへ細かな泥水が散る。
バイクはそのまま角を曲がって消えた。
「……危な」
澪が呟く。
「見てなかっただろ」
「後ろは」
「だろうな」
レオは走り去った方向をしばらく見たあと、助手席側へ回った。
蓮が車内から言う。
「この辺、飛ばす人多いですからね」
「道狭ぇのに頭悪いだろ」
「道の問題ではないですね」
「半分くらい道のせい」
「そういうところ雑ですよね」
「うるせぇ」
いつもの調子へ戻る。
澪は後部座席のドアへ手をかけた。
そこで少しだけ動きを止めた。
今の一歩を、自分はほとんど考えずに動いた。
レオの声がしたから。
それだけだった。
「ミオ」
顔を上げる。
助手席のドアを開けたレオがこちらを見ている。
「乗んないの?」
「……乗ります」
澪は車内へ入った。
*
ブラックタイドへ戻ると、ベンはまだ午前中の封印具について調べていた。
「何かありました?」
澪が聞く。
「会社名までは出てない」
ベンはモニターを指した。
「でも、当時の引き渡し時間がちょっと変」
「どういう意味ですか」
「記録上は、うちが荷を渡した十五分後に次の倉庫へ入ってる」
蓮が眉を寄せる。
「距離は?」
「普通に走って三十分くらい」
澪はモニターを見る。
「夜間ですか」
「昼」
「道路状況は?」
「そこまではまだ」
グレイが横から言った。
「先に当日の記録を取れ。道が空いてた可能性もある」
「分かってる」
ベンが答える。
澪も頷いた。
十五分。
おかしいようには見える。
けれど、不可能とはまだ言えない。
入力時刻と実際の到着時刻が同じ意味で使われていない可能性もある。後からまとめて記録されたのかもしれない。機械ではなく人が書き込んだ数字なら、時計そのものがずれていた可能性も残る。
少なくとも、確認する理由にはなった。
「今日の方は?」
グレイが蓮を見る。
「マレイ・トランスポートは、登録住所を実質的な事務所としてはほとんど使っていなかったようです。郵便物の受け取りが中心だった可能性があります」
「人は」
「複数。管理人は代表者を覚えていません」
「荷は?」
「建物では扱っていなかったようです」
グレイは数秒考える。
「じゃあ、拠点は別にあったか、会社だけあったか」
「まだどちらとも」
澪が言った。
グレイがこちらを見る。
「ああ」
それだけ返した。
澪は自分の机へ戻った。
昨日まで空いていた書類トレーの下段に、今日の資料を入れる。
一冊。
まだ、それだけだ。
けれど上段の資料とは分けておいた方がいいと思った。
引き出しからクリップを取り、今日の聞き取りメモと会社資料をまとめる。
迷わず手が動いたあとで、澪は下段を閉じるように資料を奥へ揃えた。
*
日が落ちる頃には、また雨が降り始めていた。
大粒ではない。
窓ガラスを細かく濡らす、長く続きそうな雨だった。
澪は今日のメモをまとめた。
登録住所。
ほとんど使われていなかった事務所。
複数の人間。
郵便物だけを取りに来る人物。
十五分という輸送記録。
どれも、それだけでは何も証明しない。
最後の一行を書き終えたところで、蓮が鞄を閉じた。
「そろそろ出ますか」
「はい」
澪も立ち上がる。
レオは窓際で煙草を吸っていた。
窓は少し開いている。
雨の湿った空気と煙草の匂いが混ざり、カーテンの端が細く揺れていた。
「帰んの?」
「はい」
「雨降ってんじゃん」
「車なので」
「知ってる」
それなら、なぜ聞いたのだろう。
澪は一瞬だけそう思ったが、口にはしなかった。
鞄を肩へ掛ける。
「じゃあ、また明日」
言ってから、鞄の持ち手を握り直した。
レオはすぐには返事をしなかった。
煙草を持った手が、開いた窓の前でほんの少し止まる。
「……ああ」
澪は階段へ向かった。
二段ほど降りたところで、上から声が落ちてきた。
「ミオ」
足を止めて振り返る。
レオは窓際から動いていなかった。
「何ですか」
「明日も保管庫?」
「まだ決めてません。今日の分を確認してからです」
「そ」
今度こそ、それだけだった。
澪は階段を降りた。
外へ出ると、細い雨が街灯の下で白く見えた。
蓮の車までの短い距離を歩く。
明日の予定は、まだ決まっていなかった。




