第8話 何もしなくていい
翌朝、熱は三十七度台まで下がっていた。
最初に測った時は三十七度六分。しばらくして水を飲み、もう一度測ると三十七度四分だった。
昨日よりは明らかに身体が軽い。
喉の痛みはまだ残っているし、立ち上がると少し頭が重い。それでも、洗面所まで歩くだけで億劫だった昨日とは違った。
青葉貿易へ連絡すると、今日も休むように言われた。
「熱、下がってきてるんですけど」
『昨日三十八度超えてたんだから、今日はまだ休んで』
「仕事は――」
『逃げないって昨日も言ったでしょう』
昨日と同じことを言われた。
澪は少しだけ黙った。
「……はい」
『明日の朝また連絡ください。それまでは仕事しないこと』
「分かりました」
電話を切る。
次にブラックタイドへ連絡すると、今回も蓮が出た。
『水城さん。具合どうですか』
「昨日よりはいいです。三十七度台まで下がりました」
『それならよかったです』
「今日も休めって言われました」
『当然です』
「神谷さんまで」
『僕は昨日からそう言ってます』
わずかに笑う声がした。
『食事は取れそうですか』
「昨日よりは」
『何か足りないものは?』
澪はテーブルを見る。
スポーツ飲料。クラッカー。果物。蜂蜜。三種類の飴。大きな板チョコレート。
「……たぶん、しばらく困らないです」
意味を察したのか、蓮が少し笑った。
『そうですか』
その向こうからベンの声が混ざった。
『水城さん? 生きてる?』
『縁起でもないこと言わないでください』
『いや、元気ならよかった』
「昨日よりは元気です」
『じゃあチョコ食べられるね』
澪は板チョコを見る。
「まだ無理です」
『あれ俺の選択じゃないからね』
「聞いてません」
『一応言っとこうと思って』
蓮がため息をつく気配がした。
『ベンは無視していいです』
「そうします」
『ひどい』
少しだけ笑って、電話を切った。
部屋はまた静かになった。
澪はベッドへ戻り、昨日もらった飴を一つ取る。
包みを開くと、レモンの匂いがした。
*
午前中は、空港で買った文庫本を読んだ。
十数ページ進んだところで眠くなり、そのまま一時間ほど眠った。
昼にはルームサービスで、米を柔らかく煮たものを頼んだ。味は薄かったが、昨日のスープよりは食べられた。
薬を飲む。
水を飲む。
体温を測る。
三十七度三分。
順調に下がっている。
それから、することがなくなった。
仕事をするなと言われれば、思った以上に時間は長い。
普段なら資料を開くところだった。メールの控えを整理したり、報告書の直したい部分を考えたり、何かしら手を動かしている。
今日はそれをやめた。
文庫本を開く。
少し読む。
閉じる。
窓の外を見る。
雨は降っていなかった。
厚い雲の下で、街の輪郭が白っぽい湿気に霞んでいる。遠くに見える港のクレーンだけが、空へ細い線を伸ばしていた。
枕元には会社の携帯電話がある。
その中には、昨日一つだけ番号が増えた。
LEO
何かあったらかけろ、と言われた。
けれど、熱は下がっている。
食事も取れた。
変な人も来ていない。
用事はなかった。
澪は携帯へ伸ばしかけた手で、代わりに文庫本を取った。
*
午後になると、一度だけ雨が降った。
突然窓を叩き始め、十五分も経たないうちに止んだ。
ヴァレリオへ来てから、こういう雨にも少し慣れた。
通りは濡れ、車が通るたびに水を跳ね上げる。けれど人はすぐに庇から出て、止まっていた屋台も何事もなかったように動き始める。
夕方近く、体温は三十七度一分まで下がった。
このままなら、明日には仕事へ戻れるかもしれない。
そう思った頃だった。
扉が叩かれた。
澪は文庫本から顔を上げる。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
ベッドを降り、覗き穴を見る。
黒い髪が見えた。
澪は少し目を瞬いた。
レオだった。
昨日と違って、手には何も持っていない。
チェーンをかけたまま扉を開ける。
「……何してるんですか」
「何って」
「今日は届け物ないですよね」
「ねぇよ」
「じゃあ、何しに?」
レオが少し黙った。
「様子見」
「電話でもできますけど」
「来たんだからいいだろ」
あまり答えになっていなかった。
澪はしばらく彼を見る。
レオも特に言い訳を増やそうとはしない。
「熱は」
「三十七度一分です」
「下がったじゃん」
「はい」
「飯は」
「食べました」
「どんくらい」
「昨日よりはちゃんと」
「曖昧」
「半分以上です」
「ならいい」
昨日と同じ判定だった。
澪は小さく息を吐いた。
「……入ります?」
「いいの?」
「ここで話し続けるよりは」
チェーンを外す。
レオが中へ入った。
昨日とほとんど同じように室内を一度見回し、窓際の椅子へ座る。
澪はベッドへ戻った。
それだけだった。
*
「何か飲みますか」
「いらね」
「そうですか」
会話が終わった。
澪は文庫本を開いた。
レオは窓の外を見ている。
テレビはつけていない。
空調の低い駆動音。廊下を通るカートの車輪。遠くの交差点から時々上がるクラクション。
ページをめくる。
数分経つ。
レオが何も言わないので、澪も何も言わなかった。
昨日は熱でぼんやりしていた。
だから誰かがいても気にならなかったのかもしれない、と少し思っていた。
今日は違う。
頭はかなりはっきりしている。
それでも、話題を探す必要を感じなかった。
ただ一人増えているだけだった。
不思議ではある。
でも、不快ではない。
澪はもう一枚ページをめくった。
向かいでは、レオが胸ポケットへ手を入れた。
煙草の箱を出す。
一本だけ指で押し上げたところで止まり、澪を見る。
そのまま箱へ戻した。
「吸ってきてもいいですよ」
澪が言う。
「いい」
「我慢してません?」
「別に」
またそれだ。
澪は本へ視線を戻した。
「そうですか」
それ以上は言わなかった。
また雨が降り始めた。
今度はさっきより弱い。
細かな雨粒が窓を斜めに流れていく。
レオはそれを眺めている。
澪は本を読む。
しばらくすると、読んでいる文字の意味より、室内の音の方が意識に入ってきた。
雨。
空調。
紙の擦れる音。
レオが椅子に座り直す、小さな衣擦れ。
どれも、会話を要求しなかった。
「ミオ」
突然呼ばれ、澪は顔を上げた。
「はい」
「お前、いつもこんな感じ?」
「こんな感じって?」
「静か」
少し考える。
「そうかもしれません」
「誰かといても?」
「相手によります」
「ふうん」
そこで終わるかと思った。
レオが窓の外へ視線を戻す。
少しして、また言った。
「俺、お前といると」
言葉が途切れた。
澪は本を開いたまま待った。
急かさない。
レオの横顔は窓の方を向いたままだった。
「……何もしなくていい」
澪は少しだけ眉を寄せた。
「何もしなくていい?」
「喋んなくていいし」
「それは、悪い意味ですか」
「違う」
返事だけは早かった。
澪はレオを見る。
本人も、その続きをうまく説明できないらしい。
右手の親指で、煙草の箱の角を何度か撫でている。
「じゃあ」
澪は本へ目を戻した。
「いいんじゃないですか」
「何が」
「何もしなくて」
返事はなかった。
澪も続きを言わない。
雨の筋が窓を流れていく。
また一枚、ページをめくった。
しばらくして、レオが小さく息を吐く音がした。
それが笑ったのか、ただの呼吸だったのかは分からなかった。
*
二人はそのあとも、ほとんど話さなかった。
澪は本を読み、レオは窓を見たり、椅子に深く座り直したりしていた。
誰かが無理に沈黙を埋めようとしないと、時間は思ったより静かに流れた。
どのくらい経った頃か。
レオが椅子から立ち上がった。
「帰る」
「はい」
澪も本を閉じる。
「熱、明日もあったら休めよ」
「会社にもそう言われてます」
「じゃあ聞け」
「聞いてます」
「ならいい」
澪は扉まで見送った。
レオがドアノブへ手をかける。
「レオ」
「何」
「板チョコ、まだ丸ごと残ってます」
「食えよ」
「治ったら」
「じゃあ早く治れ」
澪は少し笑った。
「頑張ります」
「そこ頑張るもんなの?」
「知りません」
「適当じゃん」
「誰かさんに言われたくないです」
レオが鼻で笑った。
ほんの短い音だった。
目元が少し緩む。
傷と鋭い目つきのせいで普段は年齢の分かりにくい顔が、その時だけ少し柔らかく見えた。
「じゃあな」
「はい。おやすみなさい」
レオは一度だけ振り返った。
「……おう」
廊下へ出る。
扉が閉まった。
澪は鍵をかけ、チェーンを戻す。
部屋へ戻る。
ベッドの上には、読みかけの文庫本が伏せてある。
拾い上げ、同じ場所を開く。
一行読む。
もう一度読む。
頭へ入ってこなかった。
澪はページを少し戻した。
窓の外ではまだ弱い雨が降っている。
何もしなくていい。
その言葉だけが、さっきから妙に残っていた。




