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第7話 熱




 翌朝、澪は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


 喉が痛かった。


 飲み込むと、粘膜の奥を薄い紙やすりで撫でられるような感覚がある。身体も重い。昨夜はいつもより早めに眠ったはずなのに、目を開けても疲労が抜けていなかった。


 枕元の時計を見る。


 六時四十三分。


 まだ少し早い。


 澪はもう一度目を閉じた。


 眠れば治るかもしれない。


 そう思ったが、身体の内側にこもった熱が気になって、結局五分もしないうちに起き上がった。


 足を床へ下ろした途端、頭が重く沈む。


「……あ」


 思ったより駄目かもしれない。


 洗面所まで歩き、鏡を見る。顔色が悪いというより、頬だけが少し赤い。


 ホテルの部屋に体温計はなかった。


 フロントへ電話すると、少し待つように言われた。十分ほどして届けられたものを脇に挟み、ベッドの端で待つ。


 三十八度二分。


 数字を見た瞬間、急に具合が悪くなったような気がした。


 昨日までは普通だった。


 倉庫へ行き、ブラックタイドへ戻り、夜にはホテルで簡単な夕食も取った。雨にも濡れていない。


 疲れだろうか。


 ここ数日のことを考えれば、身体の方が遅れて音を上げても不思議ではない気はした。


 澪はしばらく体温計を眺めてから、電話を取った。


          *


 ブラックタイドへ連絡すると、蓮が出た。


『神谷です』


「水城です。おはようございます」


『おはようございます。どうしました?』


 声を出した途端、喉が思った以上に掠れた。


 向こうで少し間があった。


『……風邪ですか』


「たぶん。熱が少しあって」


『何度です?』


「三十八度二分です」


『それは少しじゃないです』


「そうですか」


『そうです』


 いつもより即答だった。


 澪はベッドへ腰掛ける。


「今日はホテルで仕事します」


『しなくていいです』


「でも昨日の続きが――」


『水城さん』


 柔らかい声のまま遮られた。


『青葉にも連絡してください。今日は休んでください』


 反射的に「大丈夫です」と言いそうになった。


 口を開く。


 そこで、この前レオに言われた言葉が頭を掠めた。


 大丈夫じゃねぇのに、大丈夫って言う意味もねぇし。


 澪は一度、口を閉じた。


「……分かりました」


『他に症状は?』


「喉と、身体が重いくらいです。咳は少し」


『食事は取れそうですか』


「まだ分からないです」


『水分はあります?』


「はい」


『薬は』


「持ってきてないです」


 日本から常備薬を少し持ってくればよかった、と今さら思った。


『ホテルで手配できるか確認してみます。こっちでも見ます』


「そこまでしてもらわなくても」


『それは具合が良くなってから言ってください』


 澪は黙った。


 言い返せない。


「……すみません」


『謝らなくていいです。青葉への連絡が終わったら、今日は寝ててください』


「はい」


『熱が上がるようなら連絡を。明日になっても続くなら、病院も考えましょう』


「分かりました」


 受話器を置く。


 それから東京へ連絡した。


 上司から返ってきた言葉も、ほとんど同じだった。


 今日は休むこと。


 仕事は後でいい。


 熱が上がる、強い症状が出る、翌日になっても改善しない場合は医療機関を手配する。


 澪は二度目の「分かりました」を言い、ようやく諦めた。


          *


 午前中は、ほとんど眠っていた。


 何度か目を覚ました。


 カーテンの隙間から差す光の位置が変わるたび、どれくらい時間が経ったのか確認する。


 十一時過ぎ。


 十二時半。


 二時前。


 水だけは意識して飲んだ。


 昼食を頼む気にはなれず、昨夜残していたクラッカーを二枚だけ食べた。


 熱は三十八度を少し超えたままだった。


 悪化してはいない。


 下がってもいない。


 午後二時を過ぎた頃、扉が叩かれた。


 澪は目を覚ます。


 一瞬、何の音か分からなかった。


 もう一度。


 ノック。


 ベッドから起き上がり、足元へスリッパを引っかける。


 覗き穴を見る。


 黒い髪。


 見覚えのある横顔。


「……え」


 レオだった。


 澪はチェーンをかけたまま、扉を少し開けた。


「何してるんですか」


 言った声が、自分でも驚くほど弱かった。


 レオが眉を寄せる。


「それ俺の台詞」


「え?」


「顔ひでぇぞ」


「……失礼ですね」


「褒めてねぇ」


 片手に紙袋を二つ。


 もう片方には、ペットボトルの水が何本か入った袋を提げている。


「これ」


「何ですか」


「いろいろ」


「いろいろ」


「蓮とベンに言われたやつと、店で適当に」


 前より少しだけ正直だった。


「グレイに届けろって言われた」


「ありがとうございます」


 受け取ろうとすると、レオが袋を少し引いた。


「持てんの?」


「持てます」


「今ふらついてたじゃん」


「見てたんですか」


「見りゃ分かる」


 澪は少し黙る。


 確かに、ここで意地を張る意味もない。


 レオが扉の向こうで待っている。


 勝手に入ろうとはしない。


 澪はチェーンへ手をかけた。


「……どうぞ」


 扉を開ける。


 レオが入った。


 室内を一度だけ見回してから、紙袋をテーブルへ置く。


 澪も後ろから覗き込んだ。


 水。


 スポーツ飲料らしい薄い色の飲み物。


 クラッカー。


 バナナ。


 リンゴ。


 スープ。


 薬局の紙袋。


 それから、なぜか大きな板チョコレート。


 小さな袋からは、飴が三種類出てきた。


 澪はしばらく無言で眺めた。


「……多くないですか」


「知らねぇ」


「自分で買ったんでしょう」


「何が食えるか分かんなかったから」


 澪は板チョコを持ち上げる。


「熱がある人に、これ買います?」


「甘いもんなら食えるかと思って」


「たぶん今は無理です」


「じゃあ治ったら食え」


 次に出てきたのは、小さな瓶の蜂蜜だった。


「これは?」


「喉にいいって店のババアが言ってた」


「聞いたんですか」


「薬探してたら勝手に言われた」


「そうですか」


 レオは少し目を逸らした。


 澪はそれ以上聞かなかった。


 薬の箱を手に取る。


 成分名と用量を読む。


 普段飲んでいる薬との問題はなさそうだった。


「これ、食後ですね」


「じゃあ食え」


「食欲ないんです」


「朝は?」


「何も」


「昼」


「クラッカー二枚」


 レオの眉間に皺が寄った。


「それ食ったって言わねぇだろ」


「二枚は食べました」


「枚数の話してねぇ」


 冷蔵庫の前へ行きかけ、レオが止まった。


 振り返る。


「開けていい?」


「あ、はい」


 澪が頷く。


 レオは中を覗いた。


「何もねぇじゃん」


「ホテルですから」


「昨日何食った」


「ルームサービス」


「今日も頼め」


「そんなに食べられません」


「スープなら」


 紙袋に入っていた缶を指す。


 澪も見る。


「温められないでしょう」


 レオが黙った。


 二秒ほど缶を見る。


「……ホテルに頼めば?」


「頼めると思います」


「じゃあ頼め」


「命令ですか」


「食わねぇと薬飲めねぇんだろ」


 それはそうだった。


 澪は電話へ手を伸ばす。


 簡単なスープだけ頼んだ。


 受話器を置くと、レオは窓際の椅子へ腰を下ろした。


「届いたら帰る」


「待つんですか」


「また寝て、食わねぇだろ」


「そこまで信用ないですか」


「クラッカー二枚」


「……分かりました」


 反論する材料がなかった。


          *


 スープが届くまで、二人はほとんど話さなかった。


 澪はベッドへ戻る。


 レオは窓際の椅子へ座っていた。


 途中で一度、胸ポケットから煙草を取り出す。


 指で一本押し上げる。


 そこで澪を見る。


 何も言わず、また箱へ戻した。


 澪は見ていたが、触れなかった。


 窓の外では、午後の雨が降り始めていた。


 最初はまばらだった粒が、やがてガラスを細かく叩き始める。


 レオは外を見る。


 澪も目を閉じた。


 誰かが部屋にいるのに、話さなくていい。


 熱でぼんやりした頭には、それがありがたかった。


 ノックの音で目を開けた。


「来た」


 レオが立ち上がる。


「出ていい?」


「……お願いします」


 澪が答える。


 レオが扉を開け、ルームサービスを受け取った。


 ワゴンを中へ入れ、テーブルの近くへ寄せる。


 湯気の立つスープの匂いが室内に広がった。


「食え」


「少しだけ寝てもいいですか」


「冷めるぞ」


「五分だけ」


 レオが澪を見る。


「絶対五分じゃねぇだろ」


「起こしてください」


「自分で起きろよ」


 言いながらも、止めはしなかった。


 澪は枕へ頭を戻した。


 雨の音が近い。


 そのまま、意識が落ちた。


          *


 目を覚ますと、部屋の光が変わっていた。


 一瞬、どこにいるのか分からない。


 視線を動かす。


 窓際。


 レオがまだいた。


 椅子に深く座り、脚を投げ出している。


「……まだいたんですか」


「お前が起きねぇからだろ」


 澪は時計を見る。


「四時半……」


「一時間くらい」


「起こしてくださいって言ったのに」


「起こした」


「嘘」


「二回」


 覚えていない。


 澪はゆっくり起き上がった。


 テーブルの上のスープには蓋がかけ直してある。


「冷めました?」


「たぶん」


「じゃあやっぱり起こしてくれれば」


「起きなかったって言ってんだろ」


 蓋を開ける。


 湯気はもう出なかったが、まだ少し温かかった。


「食えそう?」


「たぶん」


 スプーンを持つ。


 一口。


 身体へ温かいものが入る。


 思っていたより飲めた。


 レオは何も言わない。


 急かしもしない。


 澪は半分ほど食べたところでスプーンを置いた。


「もう無理です」


「じゃあいい」


「基準が適当ですね」


「二枚よりマシ」


「それは……そうですけど」


 薬を飲む。


 水も少し多めに口へ入れた。


 レオがそれを見届けてから、時計を見る。


「じゃ、戻る」


「はい」


 立ち上がる。


 扉へ向かいかけて、レオが止まった。


「携帯ある?」


「会社のならあります」


「貸せ」


「何するんですか」


「いいから」


 澪は机の上に置いていた小さな携帯電話を手に取った。


 海外用に会社から持たされているものだ。


 レオへ渡す。


 何度かキーを押す。


 すぐに返された。


 画面を見る。


 登録された短い名前。


 LEO


 その下に番号。


「これ、レオの?」


「俺の番号」


「ブラックタイドに電話すれば――」


「夜は誰も出ねぇ時ある」


 それだけ言った。


「何かあったらかけろ」


「何かって」


「熱上がったとか。変なの来たとか」


「変なの」


「俺みたいなの以外」


 澪は少し笑った。


「自覚あるんですね」


「うるせぇ」


 レオが扉へ向かう。


 澪はその背中へ声をかけた。


「レオ」


 振り返る。


「ありがとうございました」


 一瞬、間があった。


「また?」


「三回目ですね」


「数えてんの?」


「前にも聞かれました」


「……そうだっけ」


「そうです」


 レオは鼻で短く笑った。


「じゃあ寝ろ」


「はい」


 扉を開ける。


 そこで止まった。


「あと」


「はい」


「大丈夫じゃねぇなら、電話しろ」


 澪は携帯を握ったまま彼を見る。


 あの時と同じ言葉ではなかった。


 でも、少し似ていた。


「……分かりました」


 レオはそれ以上何も言わず、廊下へ出た。


 扉が閉まる。


 澪は鍵をかけ、チェーンも戻した。


 部屋が静かになる。


 雨の音だけが残った。


 テーブルには、食べかけのスープ。


 開いたままの薬の箱。


 三種類の飴。


 食べる気のしない大きな板チョコレート。


 そして、手の中にはひとつ増えた電話番号。


 澪は画面をしばらく見ていた。


 それから携帯を枕元へ置く。


 使うことがあるかどうかは、まだ分からなかった。






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