第6話 ひとつ増えたもの
翌朝、澪はブラックタイドへ戻った。
ホテルを出る許可が出たのは、前日の夜だった。
単独では動かないこと。訪問先と移動経路は事前にブラックタイド側で確認すること。予定にない場所へは立ち寄らないこと。状況に変化があれば、その場で予定を取りやめること。
いくつも条件はついた。
けれど、一度自分の近くへ銃弾が飛んできたあとでは、窮屈だと文句を言う気にもならなかった。
ヴァレリオへ来て八日目。
ホテルの前には蓮が迎えに来ていた。
「おはようございます」
「おはようございます。昨日は進みました?」
「報告書は出せました。資料も少し」
「それならよかったです」
車へ乗る。
旧港へ近づくにつれて、窓の外に見覚えのあるものが増えていった。
交差点の角に出る果物屋。赤い庇の食堂。建物から建物へ不規則に渡された電線。その向こうに覗く港のクレーン。
一週間ほど前までは、すべて同じ「知らない街」に見えていた。
今は違う。
ここを曲がれば市場がある。
あの先は道幅が急に狭くなる。
雨が降れば、この辺りには大きな水溜まりができる。
銃声が鳴れば、店の人間は何をするべきか知っている。
そういうものまで含めて、少しずつ一つの街として見えるようになっていた。
それがいいことなのかは、まだ分からない。
ブラックタイドへ着く。
狭い階段を上がり、蓮の後ろから事務所へ入った。
「おはようございます」
ベンがパソコンの向こうから片手を上げた。
「お、戻ってきた」
「戻りました」
「昨日静かだったよ」
軽い調子で言われ、澪は少しだけ笑った。
「一日だけじゃないですか」
「一日でも静かなものは静か」
「お前が喋んなきゃ毎日静かだろ」
ソファから声が飛んだ。
レオだった。
黒いTシャツにカーゴパンツ。膝の上には金属の部品があり、古い布で汚れを拭っている。
「朝から感じ悪いなあ」
「朝じゃなくても同じ」
「自覚あるんだ」
「うるせぇ」
澪はそちらを見る。
レオも一度だけ顔を上げた。
視線が合う。
「……おはようございます」
「ん」
それだけだった。
グレイは窓際の大きな机から顔を上げた。
「水城」
「はい」
「今日から外へ出る時の条件は聞いてるな」
「聞いてます」
「勝手に動くな。それだけ守ればいい」
「分かりました」
グレイはまた書類へ戻った。
澪も、これまで自分が使っていた机へ向かう。
前回置いていったメモ用紙も、そのまま残っていた。
鞄を足元へ置き、椅子を引く。
座ってみると、ホテルの机より古く、少しだけ軋んだ。
それなのに妙に落ち着いた。
澪はその理由を考えず、資料を開いた。
*
午前中は、ホテルで整理した資料とブラックタイド側の控えを突き合わせる作業に使った。
一日離れていたからといって、新しい答えが勝手に増えているわけではない。
一文字違う住所も、そのままだった。
ただ、蓮が新しく取り寄せた書類の中に、同じ倉庫名が記された半年前の搬送票が一枚混ざっていた。
「神谷さん、これ見てもいいですか」
「もちろん」
澪は紙を手元へ寄せた。
何度かコピーされたらしく、端の文字が少し潰れている。
倉庫名。
所在地。
電話番号。
住所は、澪がこれまで正しいと考えていた方だった。
「こっちは合ってますね」
蓮が椅子を寄せる。
「作成日は……半年前ですか」
「はい」
二人で、これまでの書類を並べた。
古い書類は正しい。
新しい一部の書類にだけ、同じ一文字の誤りがある。
「古い登録情報が残った、ではなさそうですね」
澪が言う。
「逆ですからね」
「途中から別の情報を参照するようになったとか」
「あり得ます」
「誰かが一枚間違えて、それがコピーされた可能性もありますよね」
「それもあります」
結局、まだ一つには絞れない。
澪は新しい書類へ鉛筆で小さな印をつけた。
最初の赤丸とは分けておく。
同じ違和感でも、確度は同じではない。
「午後、この倉庫に確認へ行けそうです」
蓮が言った。
澪は顔を上げた。
「今日ですか」
「はい。グレイが先方と、そこまでの経路も確認しています。車で近くまで行けます。最後の数分だけ徒歩になりますけど」
そこで蓮はソファを見る。
「僕とレオが同行します」
「俺?」
レオが布を持ったまま顔を上げた。
「聞いてないんですか」
「聞いてねぇ」
「今言いました」
「お前が勝手に決めんなよ」
「俺が決めた」
グレイが書類から顔を上げずに言った。
レオは黙る。
「……はいはい」
布をまた部品へ押し当てた。
不満そうではある。
けれど、本気で断る気もないらしい。
澪はそれ以上見ず、手元の紙へ戻った。
*
昼になり、ベンが冷蔵庫を開けた。
「飲み物いる人」
「水お願いします」
蓮が言う。
「俺コーラ」
「自分で取って」
「何で聞いたの?」
「親切で聞いただけ」
「親切って何だっけ」
澪が小さく笑うと、ベンがこちらを見る。
「水城さんも、好きなの取っていいよ」
「いいんですか」
「うん。飲み物は勝手にどうぞ。毎回聞かれる方が面倒だし」
「それ言うと親切が台無しですよ」
「本音と親切は両立するから」
「初めて聞きました」
澪は冷蔵庫の前へ行った。
扉を開ける。
冷気が腕へ触れた。
ペットボトルの水。
缶ビール。
コーラ。
調味料の瓶。
その奥に、見覚えのある黄色があった。
澪は少しだけ手を止めた。
レモンソーダ。
二本入っている。
この前飲んだものと同じラベルだった。
一本取る。
「それ気に入ったんだ」
ベンが横から覗き込む。
「この前飲んだら、おいしかったので」
「俺には酸っぱすぎる」
「そうですか?」
「絶対コーラの方がうまい」
「好みじゃないですか」
「正論」
ベンはあっさり引き下がった。
誰が買ったのかは聞かなかった。
水や酒と一緒に、飲み物を補充しただけなのだろう。
栓を開ける。
軽い音とともに炭酸が弾けた。
席へ戻ろうとした時、ソファのレオと目が合った。
ほんの一瞬。
レオはすぐ膝の上へ視線を戻し、金属部品の同じ場所を布で擦った。
澪もそのまま通り過ぎた。
一口飲む。
前と同じ、甘さより酸味の強い味だった。
*
午後、三人は車で事務所を出た。
運転は蓮だった。
レオは助手席、澪は後部座席に座る。
旧港の中をゆっくり進み、途中で何度か道を変えた。
「遠回りしてません?」
澪が聞く。
「少し」
蓮が答える。
「昨日までに確認した道を使ってます」
「なるほど」
前回襲われた辺りには近づかなかった。
やがて車は比較的広い通りの端へ停まった。
ここから先は荷車と作業車が多く、車で入る方が時間がかかるらしい。
「歩くのはここからです」
蓮がエンジンを切る。
レオは先に降りた。
辺りを一度見る。
特に何も言わない。
澪も降りた。
目的の倉庫までは五分もかからなかった。
蓮が少し前を歩く。
その後ろを澪。
レオは最初、澪の右にいた。
通りの端へ寄ったところで、人の流れに押されるように位置が入れ替わる。
澪が車道側へ出た。
少しして、レオがまた外側へ回った。
最初は偶然だと思った。
露店の前で道が細くなり、再び横並びになる。
また澪が外側になる。
次の瞬間には、レオが車道側を歩いていた。
何度か続いて、澪は横目で彼を見る。
レオは前を見ている。
何も言わない。
わざとなのだろうか。
聞くほどでもないと思った。
澪も黙って歩いた。
交差点へ出るたび、レオの視線が動く。
路地。
停車した車。
店の窓。
通り過ぎる人間の手元。
澪には、そのすべての意味までは分からない。
けれど、最初に会った時ほど不思議には思わなくなっていた。
*
倉庫は、灰色の壁に大きな鉄扉をつけた古い建物だった。
側面の看板は塗装が剥げ、会社名の一部が読みづらくなっている。
中へ入ると、外より少し暗い。
湿った木材。
油。
埃。
天井近くで回る大きな換気扇の音。
積まれた木箱とパレットの間に、フォークリフトが通れる幅の通路が延びている。
奥から男が一人歩いてきた。
三十代後半くらい。
痩せた身体に灰色のシャツ。胸ポケットにはペンが何本も差してある。
「神谷さん」
英語で挨拶する。
蓮も応じた。
澪も名刺を出す。
「青葉貿易の水城です。本日はありがとうございます」
「こちらこそ」
男は愛想よく笑った。
続いてレオへ視線を向ける。
笑顔が少しだけ固くなった。
「ブラックタイドも一緒なんですね」
「最近この辺りの状況が少し悪いので、念のためです」
蓮が答える。
「ああ……なるほど」
男は頷いた。
レオは挨拶もせず、少し離れた壁際へ立った。
澪たちは事務机を借りた。
持ってきた書類を二枚並べる。
「確認したいのは、こちらの住所なんです」
正しいもの。
一文字だけ違うもの。
男が紙を見る。
「入力ミスじゃないですか」
返事は早かった。
「その可能性もあると思っています」
澪は答える。
「ただ、作成者が違う書類にも同じ誤記があるので、共通の参照元があったのか確認したくて」
「うちではないですね」
「こちらでは、この住所を登録したことは?」
「ないです」
男は今度は少し間を置いて答えた。
「倉庫の住所はずっとこっちです」
正しい方を指す。
蓮が書類へ視線を落とした。
「では、この誤った住所について心当たりは?」
「ありません」
「元の搬送データは確認できますか」
「うちに残ってるのは受入記録だけです。作成元までは分からないですね」
「そうですか」
澪はそれ以上押さなかった。
返事が少し早かった。
それは気になった。
けれど、レオを見た時から男が多少緊張していたことも覚えている。
単に早く話を終わらせたいのかもしれない。
ブラックタイドの人間と同席しているだけで、警戒する理由がこの街にはあるのだろう。
今の段階では、それ以上の意味を置けない。
澪はノートへ短く書き留めた。
倉庫側では誤住所の登録なし。元データ不明。
事実だけ。
蓮が残りの確認をしている間、澪は机の向こうへ何となく目をやった。
木箱や段ボールに混じって、黒い樹脂製のケースがいくつか積まれている。
送り状らしいものは見当たらず、側面には白い数字だけが記されていた。
何の荷物だろう。
一瞬そう思った。
けれど、今回確認しに来た貨物とは別のものだ。
澪は視線を手元の書類へ戻した。
その時、少し離れた場所にいたレオも同じ方を見ていた。
目が合う。
レオは何も言わなかった。
澪も聞かなかった。
*
倉庫を出ると、外の明るさに目が眩んだ。
往路と同じ道を戻る。
蓮は少し先を歩いていた。
澪は、さっき聞いた内容を頭の中でもう一度並べる。
倉庫の正式な住所は正しい。
誤った住所を登録した覚えもない。
古い書類には正しい住所が残っている。
なら、どこか途中で別の情報が混ざった。
それが単純な入力ミスなのか、同じ資料を参照した結果なのかはまだ分からない。
「前」
隣から声がした。
澪は顔を上げる。
目の前に、水溜まりを避けるため斜めに置かれた木箱があった。
足を止める。
「あ」
「考えすぎると転ぶぞ」
「前は見てました」
「今ぶつかりそうだっただろ」
「……あれは見えてました」
「嘘」
即答された。
澪は木箱を避ける。
「少し考えてただけです」
「それを見てねぇって言うんだよ」
反論しようとして、やめた。
たぶん、今回はレオの方が正しい。
数歩歩く。
車が一台、すぐ脇を通り抜けた。
澪が無意識に端へ寄る。
レオが一歩外側へ出た。
まただ。
澪は横を見る。
「何」
「……いえ」
聞かなかった。
聞けばたぶん、「別に」と言う気がした。
代わりに前を見る。
レオもそれ以上何も言わなかった。
*
ブラックタイドへ戻る頃には、空が少し暗くなっていた。
雨が降るほどではない。
ただ、海の方から灰色の雲が広がり始めている。
事務所へ入ると、午前中とほとんど同じ音がした。
ベンのキーボード。
紙をめくる音。
下の倉庫から何かを動かす音。
澪は自分の机へ座った。
持ち帰ったメモを広げる。
確認できたことは少ない。
疑問は一つ増えた。
それでも、それでいい。
分からないことを、分からないまま残しておく。
澪は赤いペンを取り、一文字だけ違う住所の横へ新しい注記を加えた。
ふと喉が渇き、冷蔵庫を見る。
昼に一本飲んだ。
もう一本、同じレモンソーダがまだ残っている。
澪はそれを眺めただけで、今度はペットボトルの水を一本取った。
扉を閉める。
その向こうのソファでは、レオがいつの間にかバイクの部品を脇へ置き、目を閉じていた。
眠っているのかもしれない。
澪はキャップを静かに回した。
紙をめくる音がする。
ベンが何かを打ち込む。
遠くでフォークリフトの警告音が鳴った。
ホテルで一人だった昨日より、ずっと騒がしい。
澪は水を一口飲み、また書類へ目を落とした。
それなのに今日は、その騒がしさが少しも気にならなかった。




