第5話 空いた椅子
翌朝、澪はブラックタイドへ行かなかった。
行けなかった、という方が近い。
前日の襲撃について、青葉貿易とブラックタイドの双方で安全確認を進めることになり、その結果が出るまではホテルから出ないよう指示された。
調査が中止になったわけではない。
今日はホテルに残って、日本側にある資料の整理と報告書の作成を進める。
そう決まった。
合理的だと思う。
澪自身、異論はなかった。
それでも、朝八時を過ぎてもホテルの部屋にいることだけが、少し妙だった。
窓の向こうでは、ヴァレリオがいつも通り動き始めている。
低い雲の下を白いバスが走っていく。交差点では何台ものバイクが信号待ちをし、その脇を果物を積んだ小型トラックがゆっくり曲がっていった。
数日前までは、どれも知らない街の景色だった。
今は旧港のある方角くらいなら分かる。
港のクレーンの向こう。
さらに少し奥。
あの辺りにブラックタイドがある。
澪は窓から離れた。
今日は行かない。
ただそれだけのことなのに、意識しているのが少し変な気がした。
テーブルへノートパソコンを置く。
昨夜持ち帰った資料を、その横へ並べる。
一文字だけ違う住所。
港の搬入記録。
青葉貿易側の控え。
中継業者の書類。
ホテルにいてもできる仕事はある。
むしろ静かな分、進むはずだった。
澪は椅子に座り、画面を開いた。
*
午前十時を過ぎた頃、部屋の電話が鳴った。
澪は資料から顔を上げる。
「はい」
『水城さん、神谷です』
聞き慣れ始めた日本語に、少しだけ肩の力が抜けた。
「おはようございます」
『おはようございます。今、大丈夫ですか』
「はい」
『昨日見ていた港側の搬送記録で、確認したい番号があって』
「少し待ってください」
澪は資料の束へ手を伸ばした。
受話器の向こうで、紙をめくる音がする。
少し離れたところから、ベンの声が混ざった。
『水城さん?』
『そうです』
蓮が答える。
『昨日みたいに昼抜かないでって言っといて』
『自分で言えばいいでしょう』
『電話代わって』
そのやり取りの向こうで、さらに別の声がした。
『ミオ?』
澪の手が一瞬止まる。
レオだった。
『水城さんです。ホテルからです』
蓮が答える。
少し間があった。
『……ああ』
それ以上は何も聞かなかった。
事情はもう知っているらしい。
澪は目的の紙を抜き出した。
「ありました」
『助かります。お願いします』
番号を読み上げる。
蓮が向こうで確認する。
『合ってます。ありがとうございます』
「いえ」
『今日はホテルでそのまま作業ですか』
「はい。報告書と、手元にある資料を整理します」
『分かりました。こちらで必要なものが出たらまた連絡します』
「お願いします」
『あと』
少し離れたところから、ベンが何か言っている。
蓮が小さく息を吐いた。
『昼食、ちゃんと取ってください』
「……はい」
『昨日みたいにビスケットだけで済ませないでくださいね』
「分かってます」
『だそうです』
今度はベンの満足そうな声がした。
澪は少しだけ笑った。
「今日はルームサービス頼みます」
『それなら安心です』
蓮の声もわずかに柔らいだ。
「では、また何かあれば」
『はい。失礼します』
電話が切れた。
澪は受話器を戻す。
レオは、一言しか喋らなかった。
別にそれで困ることもない。
それなのに、その短い声だけが少し耳に残った。
澪はすぐに資料へ視線を戻した。
*
昼前、ホテルの廊下でワゴンの車輪が止まった。
ノック。
澪は覗き穴から相手を確認してから扉を開けた。
頼んでいた昼食だった。
サンドイッチとスープ。それに水。
テーブルへ置き、仕事の続きをしながら食べる。
ホテルの部屋は静かだった。
空調の低い音。
遠くを走る車。
紙をめくる自分の指。
それだけ。
ブラックタイドの事務所なら、この時間にはもう少し音がある。
ベンがキーボードを叩く。
蓮が電話で誰かと話す。
下の倉庫から物を動かす音が上がってくる。
グレイの低い声。
ときどきレオが、誰かに「うるせぇ」と言う。
まだ三度しか足を運んでいない場所なのに、今日は妙に静かに感じた。
人の気配に慣れ始めていたのかもしれない。
澪はスープを一口飲んだ。
温かかった。
午後には会社へ送る報告書を仕上げなければならない。
それだけ考えることにした。
*
昼過ぎ、一度だけ窓の外で大きな破裂音がした。
身体が反応した。
椅子から立ち上がりかける。
胸が強く鳴る。
数秒後、下の通りから笑い声が聞こえた。
車のタイヤが何かを踏んだらしい。
銃声ではなかった。
澪はゆっくり椅子へ戻った。
自分の手を見る。
震えてはいない。
それでも、心臓だけが少し速い。
窓の外を見ないまま、澪は小さく息を吐いた。
「……怖かった」
誰もいない部屋で、そう言った。
口にしてから、少しだけ驚いた。
別に何かが変わったわけではない。
胸の鼓動もすぐには戻らない。
ただ、怖かった。
それだけだった。
澪はペンを持ち直した。
報告書の続きを書く。
*
午後、青葉貿易から連絡が入った。
ホテルそのものについては、現時点で変更の必要なし。
ただし、単独での外出は引き続き控えること。
翌日以降については、ブラックタイド側の確認結果を待って判断する。
澪は返事をして、電話を切った。
明日もここで仕事をするかもしれない。
そう思うと、少しだけ調子が狂う気がした。
ホテルの方が静かで、仕事には向いているはずなのに。
澪は机の上の資料へ目をやる。
一文字違う住所。
今日も答えは出ていない。
分からないものは、まだ分からないままだ。
それでいい。
澪はパソコンへ向き直った。
*
その頃、ブラックタイドの二階では、窓を開けても湿気が抜けなかった。
ベンが机の上の小さな部品を落とし、椅子の下を覗き込んでいる。
蓮は戻ってきたばかりで、グレイへ港側の情報を報告していた。
「昨日の連中と繋がるものは、今のところありません」
「そうか」
「ただ、港の南側で見慣れない白い商用バンを見たって話はあります」
グレイの視線が上がる。
「ナンバーは」
「確認できてません。側面に擦ったような傷があったそうです」
「時間は」
「襲撃の少しあとです」
グレイはしばらく黙った。
「それだけじゃ足りないな」
「はい」
「引き続き調べろ」
「分かりました」
窓際の机には、澪が使っていた椅子が空いたまま置かれている。
資料だけが一部残されていた。
レオはソファに座っていた。
煙草を一本吸い終える。
灰皿へ押しつける。
壁の時計を見る。
すぐに視線を戻した。
「見つからない」
床に膝をついたまま、ベンが言った。
「何が」
「部品」
「知らねぇよ」
「手伝って」
「やだ」
「冷たいなあ」
レオは返事をしなかった。
蓮とグレイの話が続く。
「水城さんは、明日もホテルですか」
「今夜まで様子を見る」
「分かりました」
レオが一度だけ顔を上げた。
それだけだった。
少しして立ち上がる。
冷蔵庫を開け、水を一本取った。
扉を閉める。
ソファへ戻ろうとして、足が止まった。
窓際の机へ視線が向く。
そこには、誰も座っていない。
机の端に、澪が置いていったメモ用紙が残っている。
赤いペンで囲まれた一文字。
その横に、小さく揃った日本語の文字。
レオは数秒そこを見た。
何かを読もうとしたわけでもない。
触りもしなかった。
ただ見て、それから水の蓋を開けた。
事務所には、ベンがまだ床を探っている音と、蓮の低い声が続いている。
いつもと同じはずだった。
窓際の椅子だけが、ずっと空いていた




