第4話 レモンソーダ
その日の午後、澪は予定していた仕事の半分も進められなかった。
襲撃について青葉貿易へ報告を入れ、東京の上司と何度か電話を繋ぎ、その合間に現地担当者からも状況を聞かれた。話すたび、同じ出来事を少しずつ違う言葉にして説明することになった。
旧港で発砲があったこと。
自分の近くへ弾が飛んできたこと。
ブラックタイドの人間と一緒にいたため怪我はなかったこと。
相手が誰なのか、目的が何なのかは分かっていないこと。
そこまで言うと、電話の向こうは必ず少し静かになった。
『水城さん本人は、どうしたい?』
上司にそう聞かれた時、澪はすぐには答えられなかった。
帰国を命じられるかと思っていた。
少なくとも、今日はホテルへ戻って、そのまま日本へ帰る準備をするよう言われても不思議ではなかった。
けれど会社の判断は、ひとまず現地での外回りを止める、というものだった。
ブラックタイド側で安全を確保できる範囲に滞在し、書類照合を続ける。新しい訪問先には行かない。状況が悪化すれば即座に撤収する。
それなら続けられる。
そう思った。
だから、
「今の条件なら、続けたいです」
と答えた。
言い切ったあとで、少しだけ不安になった。
それが正しい判断なのかは分からない。
昨日までなら、仕事の途中で帰ることへの抵抗の方が大きかった。
今は違う。
銃口が向く可能性を知ってしまった。
だからといって、恐怖だけを理由に今すぐ帰るのも違う気がした。
自分が何を優先しているのか、まだうまく整理できない。
『分かった。ただし、無理だと思ったらすぐ言って。こっちから止める可能性もあるからね』
「はい」
それならいいと思った。
自分の判断だけですべてを背負わなくていい。
会社にも判断する役割がある。
その上で、自分がどうしたいかも聞いてもらえた。
電話を切ると、澪はしばらく受話器を見ていた。
事務所には、紙をめくる音とパソコンのファンの音が戻っている。
さっきまでの張りつめた空気が、少しずついつもの形へ戻り始めていた。
いつもの、と考えてから、澪は妙な気持ちになる。
ブラックタイドへ通い始めて、まだ三日目だった。
*
外へ出ないことになったため、そのあとの仕事は事務所の中だけで済んだ。
蓮が港側へ確認を入れ、必要な書類は使いの者に届けてもらう。ベンは何かの通信機器を直している。グレイは下の倉庫と二階を何度か往復していた。
レオはしばらく窓際にいた。
煙草を吸うでもなく、外を見ている。
何を見ているのか、澪には分からなかった。
昼の襲撃のことを考えているのかもしれない。
あるいは何も考えていないのかもしれない。
澪は手元の書類へ戻った。
集中しようとする。
一文字違う住所。
同じ誤記。
今日新しく届いた資料には、それと同じ間違いはなかった。
何か分かったわけではない。
むしろ分からないものが増えただけだった。
それでも、一枚ずつ整理する。
しばらくすると、腹の奥が小さく鳴った。
澪は動きを止めた。
そういえば、昼食を食べていない。
食べに出た先で撃たれ、そのまま戻ってきた。
電話と報告で、それどころではなくなっていた。
時計を見る。
三時を過ぎている。
今から何か食べると夕食が入らなくなるかもしれない。
そう考えていると、向かいからベンが顔を上げた。
「水城さん、お昼食べた?」
「……まだです」
「やっぱり」
蓮も書類から顔を上げる。
「僕らもまだですね」
「お前ら仕事してたの?」
ソファの方からレオが言った。
「してますよ」
「見えなかった」
「レオよりはしてます」
「うるせぇ」
蓮は気にせず時計を見る。
「何か頼みます?」
「この時間だと、近所の店は昼休みに入ってるところもありますね」
ベンが言う。
「下にクラッカーならあるよ」
「それ昼食じゃないでしょう」
「昨日のやつまだ残ってる」
「だからそういう問題じゃなくて」
澪はそのやり取りを聞きながら、鞄の中を探した。
日本から持ってきた小さな菓子が一つ残っている。
「私、これで大丈夫です」
取り出した袋を見て、蓮が少し困った顔をした。
「それだけですか?」
「夕方なので」
ソファの方から、レオが口を挟んだ。
「それで足りんの?」
「大丈夫です」
少し間があった。
「……またそれ」
澪は顔を上げる。
昼間の車内を思い出した。
「これは本当に大丈夫です」
「知らねぇ」
「じゃあ言わないでください」
言ってから、自分でも少し驚いた。
レオも一拍遅れて眉を上げる。
ベンが何か言いかけた気配がしたので、澪はそちらを見なかった。
レオは何も返さず、立ち上がった。
「どこ行くの?」
ベンが聞く。
「飯」
「一人だけ?」
「お前も欲しいなら金出せ」
「そういう意味じゃないんだけど」
レオは聞いていなかった。
机の上から鍵を取り、階段を下りていった。
扉が閉まる。
少し静かになった。
「……怒りました?」
澪が聞く。
ベンと蓮が同時にこちらを見る。
「いや」
「多分違います」
二人の答えが重なった。
澪は袋を開けた。
小さなビスケットを一枚口に入れる。
甘かった。
*
二十分ほどして、レオは戻ってきた。
片手に紙袋。
もう片方には数本の瓶を抱えている。
「おお」
ベンが椅子を回した。
「ちゃんと全員分ある」
「金取るぞ」
「さっきと話違くない?」
「同じだろ」
紙袋が低いテーブルへ置かれる。
中には焼いた肉を挟んだパンと、小さな包みがいくつか入っていた。
香辛料の匂いが広がる。
澪の空腹が、急に現実味を持った。
「水城さんも食べましょう」
蓮が言った。
「でも」
「四つあります」
数えると、レオとベンと蓮、それに澪の分まである。
グレイの分は別なのかと思っていると、レオがもう一つ小さな包みを机へ放った。
「それグレイ」
「なんで俺が持ってくの?」
「近いから」
ベンが不満そうに立ち上がる。
澪は紙袋の中を見た。
「……私の分も買ってきたんですか」
「余っただけ」
四つしかないのに。
そう思ったが、口には出さなかった。
「ありがとうございます」
「金」
「払います」
「ほんとに払うんだ」
ベンが笑う。
「普通払うでしょう」
「いや、レオが奢ればいいのにって」
「何で俺が」
「助けたついで」
「関係ねぇ」
澪は財布を出した。
レオへ紙幣を渡す。
彼は普通に受け取った。
そこは本当に受け取るんだ、と少しだけ思った。
レオが瓶をテーブルへ置く。
コーラ。
水。
見たことのない茶色い炭酸飲料。
最後に、透明な瓶の中で淡い黄色が揺れた。
ラベルにはレモンの絵がある。
「飲み物、どれ」
レオが言った。
ベンが真っ先にコーラを取る。
蓮は水。
澪は残った二本を見る。
「これ、何ですか」
茶色い瓶を指す。
「知らねぇの?」
「見たことないです」
「薬草みたいな味」
ベンが言う。
「好きな人は好き」
「苦手な人は?」
「すごく嫌い」
澪は黙ってレモンの方を取った。
「じゃあ、こっちで」
栓を開ける。
小さく炭酸が鳴った。
一口飲む。
思ったより酸味が強い。
甘さは軽く、後味に少し苦みが残る。
「おいしい」
思わず口にした。
レオが肉を挟んだパンを食べながら、ちらりとこちらを見る。
「普通だろ」
「日本のより酸っぱいです」
「知らねぇよ」
「そうですよね」
澪はもう一口飲んだ。
冷たい炭酸が喉を通る。
朝からずっと身体のどこかに残っていた緊張が、ほんの少し薄れた気がした。
窓の外では、夕方の光が濡れた屋根を照らし始めている。
さっきまで銃撃の報告をしていた。
自分が狙われたかもしれないとも聞いた。
それなのに今は、知らない国のレモンソーダを飲みながら、少し遅い昼食を食べている。
この街では、何かが起きたあとも時間が進む。
人が撃たれても。
怖くても。
腹は減る。
店は開く。
食事をする。
そうやって続いていくのかもしれない。
澪はパンの包みを開いた。
「辛かったら言えよ」
レオが言った。
「辛いんですか」
「ちょっと」
食べる。
ちょっとではなかった。
数秒遅れて舌が痛くなる。
澪は黙ってレモンソーダを飲んだ。
「……辛い?」
蓮に聞かれる。
澪は飲み込んでから答えた。
「結構」
向かいでレオが鼻から短く息を漏らした。
「言えんじゃん」
澪は瓶を持ったまま彼を見る。
レオはもうこちらを見ていなかった。
昼間の言葉を指しているのだと気づく。
少しだけ腹が立った。
でも、何も言わなかった。
代わりにもう一口、レモンソーダを飲んだ。
酸っぱかった。
*
日が傾く頃には、事務所の空気もすっかり平常へ戻っていた。
蓮は電話。
ベンはパソコン。
グレイは帳簿。
レオはソファへ座り、片足を低いテーブルの下へ投げ出していた。
澪も作業へ戻っている。
時々、ペンの音だけが響く。
誰も無理に話さない。
それで困ることもなかった。
外では、夕方の市場がまた騒がしくなっている。
澪は資料を一枚めくった。
一文字の違う住所は、まだそこにある。
意味は分からない。
昼に自分の近くへ飛んできた銃弾とも、まだ結びつける理由はない。
だから、結びつけない。
ただ残しておく。
机の端には、飲み終えたレモンソーダの瓶が置いてあった。
ラベルの黄色だけが、灰色の書類の中で妙に明るく見えた。
向かい側で、煙草の箱を開ける音がした。
澪が顔を上げる。
レオは一本取り出し、窓を開けた。
湿った夕方の空気が、事務所の中へ入ってくる。
澪はそれを一度だけ見て、また紙へ目を落とした。
事務所にはしばらく、誰の声もしなかった。
その沈黙は、朝の車内より少しだけ長く続いた。




