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第3話 怖いなら怖いって言え

 




雨は、夜のうちに止んでいた。


 朝のヴァレリオには、まだ水の匂いが残っている。


 石畳の窪みに溜まった濁り水。建物の壁を伝った雨跡。軒先から落ちる最後の雫。雲の切れ間から陽が差し始めると、濡れた街全体がゆっくり蒸されるように湿気を吐き出した。


 ヴァレリオへ来て六日目。


 澪はホテルのエントランスで、迎えを待っていた。


 昨日と同じく、ブラックタイドから誰かが来ることになっている。


 誰か、というところまでしか聞いていなかった。


 ガラス扉の向こうを、人が横切る。


 スーツ姿の男。


 荷物を抱えた女。


 バイクを押す青年。


 そのたび、以前なら気にも留めなかった手元や腰の辺りへ視線が向く。


 銃を持っていないか。


 そんなことを本気で考える自分に、まだ慣れない。


 けれど、一度知ってしまったものを、知らなかった頃と同じようには見られなかった。


 腕時計を見る。


 約束の時間を三分過ぎていた。


 その時、ホテルの前へ古い濃紺のセダンが滑り込んできた。


 運転席の扉が開く。


 降りてきた男を見て、澪は少しだけ目を見開いた。


 レオだった。


 白いTシャツの上に黒いシャツを羽織り、袖を肘まで捲っている。髪は相変わらず適当に流しただけで、左眉の上の傷が朝の光の下では少し目立った。


 澪を見つける。


「乗れ」


 挨拶より先だった。


「神谷さんは?」


「別件」


「そうなんですか」


「グレイに拾ってこいって言われた」


 なるほど、と澪は思った。


 自主的に来たわけではないらしい。


 それなら少し納得できる。


「……お願いします」


 助手席へ乗る。


 ドアを閉めると、革と古い煙草の匂いがした。


 レオがエンジンをかける。


 澪はシートベルトを引いた。


 金具を差し込んだつもりが、うまく噛まない。


「それ」


「はい?」


「入ってねぇ」


 見れば、確かに浮いている。


「あ」


 もう一度差し込む。


 今度は小さく音がした。


 レオはそれを確認してから車を出した。


 交通規則を気にする人なのだろうか。


 そう考えかけて、初めて会った日に二挺の拳銃を構えていた姿を思い出す。


 やはり、よく分からない。


 車は朝の通りへ入っていった。


 しばらく、会話はなかった。


 ラジオもついていない。


 エンジンの低い振動と、濡れた路面をタイヤが踏む音だけが続く。


 澪は窓の外を見ていた。


 何か話した方がいいのだろうか、と一度だけ思う。


 でも、すぐにやめた。


 別に話さなくても困らない。


 レオも沈黙を気まずそうにはしていなかった。


 信号が赤になる。


 停まる。


 向かいの屋台で、店主が鉄板へ火を入れている。


 青になる。


 また走る。


 それだけだった。


 不思議と楽だった。


          *


 午前中は、静かに過ぎた。


 昨日見つけた一日のずれは、他の貨物にも似た例があった。処理日の違いと考えてよさそうだった。


 一方、一文字違う住所については、まだ何も分からない。


 同じ誤記がある。


 ただ、それだけ。


 けれど、捨てるには気になる。


 澪は資料の端へ小さく番号を振り、照合した書類を分けていった。


 神谷は朝から外出している。


 ベンはパソコンと一階を往復しながら、何かの基板を弄っていた。


 グレイは電話の相手と低い声で話している。


 レオは澪をホテルから連れてきたあと、一度外へ出ていた。


 昼前に戻ってくる。


 何をしてきたのか、澪は聞かなかった。


 自分に必要なことではないと思った。


 正午を少し過ぎた頃。


「おい」


 入口から声がした。


 澪は顔を上げる。


 レオが立っている。


「飯行くぞ」


「私ですか?」


「他に誰がいるんだよ」


 ベンがパソコンの向こうから顔を出した。


「珍しい組み合わせだね」


「グレイが一人で出すなって言ってるからだよ」


「なるほど」


 ベンはそれ以上何も言わず、また画面へ視線を戻した。


「近くで何か買えばいいんですよね」


「そう」


 澪は資料を閉じた。


          *


 昼の旧港は、朝より騒がしかった。


 日差しが戻り、濡れた石畳からむっとする熱気が立ち上っている。屋台の煙と、魚と油と香辛料の匂いが狭い通りに滞留していた。


 レオは半歩ほど前を歩いている。


 澪はその後ろをついていった。


 人の流れ。


 路地。


 停められた車。


 店の奥。


 意識しなくても、視線が動く。


 その時だった。


 レオの歩調が落ちた。


 澪は気づかず二歩進み、横へ並びかける。


 レオの視線だけが、少し先へ向いていた。


 通りの右側。


 古い雑貨店の前に、一人の男が立っている。


 薄い上着。


 この暑さなのに、右手だけがずっと前を閉じた上着の内側にある。


 商品を見ている様子もない。


 レオと一瞬だけ目が合った。


 男が視線を逸らした。


 それだけだった。


 澪には、それ以上の意味は分からない。


 レオの目が、男から店の窓ガラスへ移った。


 ガラスには、通りの反対側がぼんやり映っている。


 人影が一つ、動いた。


 レオの表情が変わった。


「戻るぞ」


「え?」


「今すぐ」


 声が低かった。


 澪は理由を聞かなかった。


 レオが振り返る。


 澪も来た道へ向きを変える。


 その瞬間だった。


 乾いた音。


 レオの手が澪の肩を掴む。


 身体が強く横へ引かれた。


 次の瞬間、澪が立っていたすぐ後ろで店の窓ガラスが砕けた。


 細かな破片が路面へ散る。


 銃声。


 今度は、最初から分かった。


「中!」


 レオに押される。


 すぐ横の店へ転がり込むように入った。


 澪は自分から身を低くした。


 怖かった。


 けれど今度は、脚が動いた。


「奥行け」


 澪は壁沿いに数歩下がる。


 店主が何か叫びながら裏手へ逃げていく。


 棚から瓶が落ち、床で割れた。


 レオは入口の脇へ身体を寄せた。


 すぐには撃ち返さない。


 一瞬外を見る。


 戻る。


 低い位置へ身体を落とし、別の角度からもう一度覗く。


 澪は息を殺した。


 心臓が速い。


 さっき立っていた男の姿は見えない。


 通りの向こうで足音がする。


 一つではない。


「動くなよ」


 レオが言った。


 銃を抜く。


 低い姿勢のまま、入口の脇から二発。


 銃声が狭い店内に響いた。


 澪の肩が跳ねる。


 外で誰かが叫んだ。


 次いで、何か重いものが倒れる音。


 レオが位置を変える。


 通りの正面には出ない。


 店先に積まれた木箱を使い、身を低くしたまま射線をずらす。


 もう一人の足音が遠ざかっていった。


 レオは追わなかった。


 数秒。


 ただ、音を聞いている。


 それからようやく澪を見る。


「動ける?」


 澪は頷いた。


「声」


「……動けます」


「裏から出る」


 澪もすぐ立った。


 店の裏口。


 狭い路地。


 排水溝には昨日の雨水が残っている。


 レオが先に出る。


 角を確認する。


 手で来いと示す。


 澪はついていく。


 一度だけ足が滑りかけたが、壁へ手をついて持ち直した。


 止まらない。


 何本か路地を抜けると、小さな駐車スペースへ出た。


 朝乗ってきた車が停まっている。


 レオが助手席のドアを開ける。


「乗れ」


 澪は黙って乗った。


 レオもすぐ運転席へ滑り込む。


 エンジンがかかる。


 車が発進した。


 レオは何度もミラーを確認しながら、混雑した通りを抜けていく。


 澪は膝の上で手を組んでいた。


 指先が震えている。


 握っても、止まらない。


 さっき砕けたガラスが頭に残っていた。


 自分が立っていた、すぐ後ろ。


 あと少しずれていたら。


 考えないようにするほど、考えてしまう。


「……あの人たち」


 声が掠れた。


 レオは前を見たまま答える。


「知らねぇ」


「この前の人たちとは」


「分かんねぇ」


 澪は黙った。


 少ししてから聞く。


「偶然だと思いますか」


 レオが答えるまで、間があった。


「分からねぇ」


 意外だった。


 もっと簡単に断言すると思っていた。


「ただ」


 レオの視線は前から動かない。


「最初の一発、お前が立ってた位置のすぐ横だった」


 澪の指が止まる。


「……私を狙った可能性があるってことですか」


「位置だけならな」


 レオは一度だけ横を見る。


「それ以上はまだ分かんねぇ」


 澪は窓の外へ視線を移した。


 市場。


 信号。


 バイク。


 普通の昼。


 数分前まで自分の近くへ弾が飛んできたことと、同じ街には見えなかった。


「大丈夫です」


 気づけば、そう言っていた。


 レオが横を見る。


「何が」


「怪我してないので」


「そういう話じゃねぇ」


「……でも、本当に怪我は」


「手」


 言われて、澪は自分の指を見る。


 まだ僅かに震えていた。


 反射的に両手を握り込む。


 レオがそれを見た。


「震えてんじゃん」


「……」


「怖ぇんだろ」


 澪は返事をしなかった。


 車が赤信号で止まる。


 レオはハンドルへ片手を置いたまま、前を向いている。


「怖いなら怖いって言え」


 澪は膝の上へ視線を落とした。


 怖い、と口にしたところで何が変わるのだろう。


 そんなことを言うより先に、どうすれば人を困らせずに済むかを考える方が、澪にはずっと馴染みがあった。


「……言っても、変わらないでしょう」


「変わらなくても言えばいいだろ」


 澪は顔を上げた。


 レオはまだ前を見ている。


「大丈夫じゃねぇのに、大丈夫って言う意味もねぇし」


 少し乱暴な言い方だった。


 でも、責められている感じはしなかった。


 澪は自分の手を見る。


 まだ少し震えている。


「……怖いです」


 小さな声だった。


 それでも、口にした。


 レオは数秒黙っていた。


「そ」


 それだけ。


 大丈夫だとも言わない。


 怖がるなとも言わない。


 仕事をやめろとも言わない。


 ただ、聞いた。


 信号が青になる。


 車がまた走り出す。


 何も変わらなかった。


 それでも、呼吸だけが少し深くなった。


 澪は窓の外を見た。


 隣でも、レオは何も言わなかった。


 その沈黙は、朝と同じように、不思議と苦痛ではなかった。


          *


 ブラックタイドへ戻った時には、神谷も事務所へ戻っていた。


 レオの話を聞くうち、室内の空気が変わっていく。


 ベンは手を止めた。


 蓮は眼鏡の奥で目を細める。


 グレイだけは、椅子に座ったまま表情を大きく変えなかった。


「最初の一発は」


 グレイが聞く。


「ミオが立ってたすぐ横。肩くらいの高さで、後ろのガラスに入ってる」


 澪はレオを見る。


 具体的に言われると、さっきより近く感じる。


「狙いは」


「位置だけならミオ。ただ、断定はできねぇ」


「撃ったのは?」


「最低二人。最初に気づいた奴と、反対側にもいた。一人は倒した。もう一人は逃げた」


「顔は」


「最初の奴は見た。知らねぇ」


 グレイはしばらく黙っていた。


「この前の連中との繋がりは?」


「分かんねぇ」


「そうか」


 グレイは机へ指先を置く。


 それから澪を見た。


「水城」


「はい」


「今日から外での動き方を変える」


 澪は黙って続きを待った。


「仕事を止めろという話じゃない」


 最初にそう言われたことに、少しだけ安堵した。


「一人では出ない。訪問先も先にこちらで確認する。ホテルについても安全をもう一度調べる」


「ホテルも……」


「念のためだ」


 グレイは淡々としていた。


「今日の襲撃が水城個人を狙ったものか、青葉の人間を狙ったものか、ブラックタイドと一緒にいたからなのか。まだ分からない」


 澪は頷いた。


「分からない以上、決めつけない。ただ、危険が増えたことは事実だ」


「……はい」


「青葉にも話せ。向こうの判断も聞いた上で、お前がどうしたいか決めろ」


 その言葉に、レオが僅かに顔を上げた。


 何か言うかと思った。


 けれど黙っている。


 グレイは続けた。


「今ここで答えなくていい」


「分かりました」


 澪自身、まだ答えはなかった。


 帰った方がいい。


 そう考える自分もいる。


 三週間の出張に、命を賭ける必要なんてない。


 けれど、今回のことが仕事に関係している可能性があるなら、何が起きているのか確認したいという気持ちもあった。


 それが責任感なのか、途中で投げ出したくないだけなのか、自分でもまだ分からない。


 今は決めない方がいい。


「水城さん」


 蓮が紙コップを差し出した。


「紅茶です」


「ありがとうございます」


 受け取る。


 温かかった。


 両手で包む。


 その熱が指へ移ってくる。


 壁際にはレオがいた。


 澪が見ると、目が合った。


 少し迷ってから口を開く。


「……さっきは、ありがとうございました」


 レオが眉を寄せる。


「また?」


「二回目です」


「数えてんの?」


「それくらいは」


 レオは何とも言えない顔をした。


「次は、止まれって言ったら止まれ。走れって言ったら走れ」


「はい」


 澪は素直に答えた。


 すると、レオの方が少し拍子抜けしたような顔をする。


「……今日は動けてたけど」


 小さく付け足された。


 澪は瞬いた。


 褒めたのだろうか。


 聞き返す前に、レオはもう視線を逸らしていた。


 澪も紅茶へ目を落とす。


 怖かった。


 街も。


 銃声も。


 自分が狙われたかもしれないことも。


 怖いと口にした。


 けれど、それで何かを取り上げられたわけではなかった。


 仕事をやめろとも、帰れとも言われなかった。


 そのことが、澪には少し不思議だった。


 窓の外では、雨上がりの空が少しずつ明るくなっていた。


 濡れた石畳だけが、しつこく光を返していた







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