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第2話 聞かない






夜中から降り始めた雨は、朝になっても止まなかった。


 ホテルの窓を伝う水滴の向こうで、ヴァレリオの街が灰色に滲んでいる。海と空の境目も、遠くの港湾クレーンもぼやけ、昨日あれほど鮮烈だった街の輪郭が、雨に溶けてしまったように見えた。


 澪はベッドの縁に座り、左腕の袖を捲った。


 昨日掴まれた場所には、薄い痣が残っている。指の形までは分からない。ただ、押せば鈍く痛んだ。


 銃声。


 砕けた石壁。


 白いシャツを赤く染めて倒れた男。


 二挺の拳銃を持った、名前も知らなかった男。


 眠れなかったわけではない。疲れていたせいか、横になってからは思ったより早く眠った。


 それでも目を閉じる直前まで、何度も同じ光景を思い出した。


 昨日まで知識としてしかなかった「犯罪港湾都市」という言葉が、身体の内側へ入り込んでしまったような感覚があった。


 もう、知らなかった時には戻れない。


 昨夜のうちに青葉貿易へは報告を入れてある。今日は旧港まで一人で行かず、ブラックタイド側から迎えを出してもらうことになった。


 それなら仕事は続けられる、と澪は判断した。


 怖くなくなったわけではない。


 むしろ昨日より怖かった。


 何が起きるか知らなかった昨日とは違う。


 それでも、自分にできる範囲の仕事まで投げ出す理由にはならないと思った。


 テーブルの上には、昨日持ち帰った控えが一部だけ置かれている。


 一文字だけ違う住所。


 作成者の違う書類にも、同じ誤記。


 それが何を意味するのかは、まだ分からない。


 分からないものを、分かったことにしない。


 ただ、見落とさない。


 澪は袖を戻して腕を隠し、鞄を持った。


          *


「昨日の今日なので、来ないかと思いました」


 ホテルのエントランスにいた神谷蓮は、澪を見るなりそう言った。


 淡い色のシャツに暗いパンツ、細いフレームの眼鏡。濡れた前髪まできちんと横へ払っている。


 昨日会ったブラックタイドの人間の中では、やはり一番、自分の知っている世界に近く見えた。


「少し迷いました」


「ですよね」


「でも、今日は神谷さんが迎えに来てくださるので」


「グレイに言われました。一人で歩かせるなって」


「……すみません」


「謝ることじゃないですよ」


 蓮はそこで一度言葉を切り、ガラス扉の向こうの雨を見た。


「僕も昨日の場所を今一人で歩けって言われたら嫌です」


 あまりにも普通の調子で言われて、澪は少しだけ肩の力を抜いた。


 無理に「大丈夫ですよ」と言われるより、その方がありがたかった。


 車は雨の旧港へ向かった。


 ワイパーが一定の速さで往復する。


 昨日は珍しさ半分で眺めていた道を、今日は違う目で見ていた。


 路地から誰かが出てくるたび、無意識に視線がそちらへ向く。停車している車の陰も見る。


 そんな自分に気づいて、少し嫌になる。


 市場の近くを通った。


 昨日、銃撃があった辺りだった。


 果物屋は開いていた。


 子供が走っていた。


 雨に濡れた石畳は黒く光っている。


 どこに人が倒れていたのか、もう分からなかった。


 水が全部流してしまったらしい。


 あまりにも簡単に。


「昨日の人たちって」


 気づけば口にしていた。


 蓮が前を向いたまま答える。


「撃ち合ってた人たちですか?」


「はい」


 その先が続かなかった。


 誰だったのか。


 何人死んだのか。


 レオは誰を撃ったのか。


 聞きたいことはいくつもある。


 けれど、それを知ったところで自分が何をしたいのかまでは分からなかった。


「……いえ。大丈夫です」


 蓮はちらりと澪を見た。


 それ以上は聞かなかった。


 少ししてから、


「気になることがあれば聞いてください」


 とだけ言った。


「僕も全部知ってるわけじゃないですけど」


 澪は窓の外を見ながら、小さく頷いた。


          *


 ブラックタイドの事務所には、昨日いなかった男がいた。


 パソコンの前で椅子を後ろへ傾け、机の上に積み重なった紙を片手で掻き分けている。明るい茶色の髪に眼鏡。シャツの袖を肘までまくり、周囲にはコードや工具、小さな電子部品、空のコーヒーカップまで散らばっていた。


「お」


 澪に気づく。


「例の日本人?」


「ベン」


 蓮がすぐに言った。


「水城さんです」


「あ、ごめん」


 男は素直に謝り、椅子から立ち上がった。


「ベン・カーター。よろしく」


「水城です。よろしくお願いします」


「昨日は災難だったね」


「……はい」


「初日に撃たれなかっただけ――」


「ベン」


「分かった。やめる」


 蓮に睨まれて、あっさり引き下がった。


 冗談なのか、本気なのか。


 澪にはまだ判別できない。


 ただ、レオとはまるで違う種類の人なのだということは分かった。


「グレイさんは?」


 蓮が聞く。


「下の倉庫。レオは外」


「外?」


「朝からどっか行った。たぶんその辺」


 大雑把だった。


 蓮も特に驚いていない。


 澪は無意識に、昨日レオが座っていたソファを見た。


 空いている。


 少しだけほっとした。


 人を撃つところを見た翌日に、何事もなかったような顔で同じ部屋にいる自信は、まだなかった。


 蓮と昨日の続きを始める。


 ブラックタイド側の搬送記録。青葉貿易の控え。港側から取り寄せた記録。


 一枚ずつ照合する。


 外では雨が庇を叩いていた。


 紙をめくる音。


 ベンがキーボードを叩く音。


 遠くから、ときどき低い汽笛が響く。


 銃声はしない。


 そのことに自分が安心していると気づいた。


「この番号、昨日の搬入記録と同じですね」


「どれです?」


「ここです。でも日付が一日ずれてます」


 蓮が身を寄せた。


「締め処理の違いかもしれませんね」


「そうですね」


 澪は鉛筆で小さく印をつける。


 昨日の赤丸とは分けた。


 何もかも怪しいと思い始めたら、かえって何も見えなくなる。


 一文字の誤記と、一日のずれ。


 どちらも「違い」ではある。


 でも、同じ重さとは限らない。


 そこを混ぜたくなかった。


 しばらくして、一階から重い足音が上がってきた。


 扉が開く。


「ベン。例のやつ持ってきたぞ」


 五十代くらいの男だった。


 濡れた作業着。袖には油染み。片手に工具箱を提げている。


「助かった」


 ベンが立ち上がる。


 男は工具箱を机へ置き、そこで澪に気づいた。


「珍しいな。客か?」


「青葉貿易の水城さんです」


 蓮が答える。


「日本から来てます」


「ああ」


 男は少し考え、何か思い出したように笑った。


「昨日レオが拾ってきたって女か」


 拾われてはいない。


 澪はそう思ったが、訂正はしなかった。


「拾ったわけじゃないって」


 ベンが代わりに言う。


「撃たれそうになってたの引っ張っただけ」


「似たようなもんだろ」


「全然違います」


 蓮が淡々と返した。


 男が笑う。


「あいつが知らん女助けるとはな。昔なんか――」


「……すみません」


 澪は顔を上げた。


 男の言葉が止まる。


 遮ったものの、続ける言葉を少しだけ探した。


「その話、本人から聞いてないので」


「ん?」


 澪は一度だけ視線を落とした。


「……今は、いいです」


 それだけにした。


 男が澪を見る。


「別に秘密でもねぇぞ」


「そうかもしれません」


 澪はそれ以上、何も言わなかった。


 男は数秒黙っていたが、やがて肩を竦めた。


「まあ、聞きたくねぇならいいけど」


「すみません」


「謝ることじゃねぇよ」


 そのまま男はベンと部品の話を始めた。


 澪は書類へ視線を戻した。


 けれど、文字が少し頭に入ってこなかった。


 本当は知りたかった。


 昨日から気になっている。


 レオは何者なのか。


 どうして二挺も銃を持っているのか。


 なぜ人を撃つことに、あれほど迷いがないのか。


 ブラックタイドは本当は何をしているのか。


 怖い相手だからこそ、知っておいた方がいいのかもしれない。


 情報があれば、近づいていい人間なのか、距離を取るべきなのか判断しやすくなる。


 さっき男が「昔」と言った時、自分が続きを待ったことも分かっていた。


 知りたい。


 その気持ちはある。


 それでも、聞けなかった。


 次にレオと会った時、自分だけが本人の知らないところで何かを知っている。


 本人が自分には渡していないものを、別の誰かから先に受け取っている。


 その状態が、妙に嫌だった。


 レオを信用しているわけではない。


 昨日会ったばかりだ。


 今でも怖い。


 できれば深く関わらずに済ませたい気持ちだって残っている。


 でも、怖い相手なら、その人のいないところで何を聞いてもいいということにはならない。


 自分だったら嫌だと思った。


 自分が話していないことを、知らない場所で誰かが説明している。


 事実だったとしても。


 次に会った相手が、自分の知らないところで得た過去を持って自分を見る。


 想像すると、落ち着かなかった。


 だから止めた。


 それだけだった。


          *


 昼を過ぎても、雨は止まなかった。


 むしろ朝より強くなり、窓の向こうの港が白く霞み始めている。


 古い窓枠の隙間から、水が一滴落ちた。


 続いて、もう一滴。


「あ」


 ベンが立ち上がった。


「またか」


 慣れた様子で床へバケツを置く。


 ぽつん、と水滴が底を叩いた。


 澪は天井を見る。


「いつもこうなんですか」


「雨季はね」


「直さないんですか?」


「直してるよ」


 別の場所から一滴落ちる。


 澪はそちらを見る。


「……直ってないですよね」


「俺もそう思う」


 少しだけ笑った。


 その時、階段を上がってくる足音がした。


 扉が開く。


 雨音が一瞬、大きくなる。


 レオだった。


 黒いシャツが肩から胸まで濡れている。髪にも水が残り、昨日頬に貼っていたガーゼはもうなかった。


「最悪」


 入ってくるなり言った。


「傘は?」


 ベンが聞く。


「邪魔」


「だから濡れるんだろ」


「見りゃ分かる」


 レオは濡れた前髪を片手で掻き上げた。


 澪は一度だけ見て、すぐ手元の書類へ視線を戻した。


 昨日と同じ男。


 そう分かっているのに、事務所へ入ってきただけの姿と、二挺の拳銃を構えていた姿が、まだうまく一つにならない。


「ミオ」


 突然呼ばれた。


 澪は反応しなかった。


「おい」


 顔を上げる。


 レオがこちらを見ていた。


「……私ですか?」


「他にいねぇだろ」


「水城です」


「昨日聞いた」


「なら、水城で」


「長ぇ」


「四文字です」


 口にしてから、少しだけ言いすぎたと思った。


 レオは一瞬黙った。


「ミオでいいだろ」


「……私は水城で大丈夫です」


「俺が呼びづらい」


「そうですか」


「じゃあミオ」


 聞いていない。


 澪はそれ以上訂正するのをやめた。


 訂正し続けるほど重要なことでもない。


 レオは冷蔵庫を開け、水を一本取り出した。


 昨日は昼前からビールだったのに、今日は水だった。


 そんなことを覚えている自分に気づき、少し妙な気分になる。


「腕」


 レオが言った。


 澪は瞬いた。


「昨日の。まだ痛ぇ?」


「もうほとんど」


「そ」


 それだけ。


 興味を失ったようにボトルへ口をつける。


 澪も書類へ戻った。


 ほんの少しして、一階からまた足音がした。


 先ほどの作業着の男が戻ってくる。


「ベン、型番合ってたぞ。――お、レオ」


「何」


「帰ってたのか」


 男はレオへ向かいながら、何気なく澪を見る。


「お前んとこの日本人、変わってんな」


 澪の指が止まった。


 嫌な予感がした。


 レオが眉を寄せる。


「何が」


「お前の昔話してやろうと思ったら、本人から聞いてないからいらねぇってさ」


 本人に言う必要はないのに。


 澪はそう思った。


 けれど、もう遅い。


 レオの視線がこちらへ向いた。


「……何それ」


「珍しいだろ。普通聞くだろ、あんなの」


「余計なこと言うなよ」


「だから言ってねぇよ。止められたから」


「もういいでしょう」


 蓮が静かに口を挟んだ。


 男は肩を竦める。


「はいはい」


 今度こそ本当に用を済ませ、階段を下りていった。


 雨音だけが一瞬、はっきり聞こえた。


 澪は書類を見たまま、顔を上げなかった。


 視線を感じる。


「……知りたくねぇの?」


 思っていたより静かな声だった。


 澪は少しだけ顔を上げる。


「気にはなります」


「じゃあ、何で聞かねぇの」


 頭の中には、午前中に考えたことがいくつも浮かんだ。


 怖いからこそ知っておきたい。


 自分を守るなら、情報は多い方がいい。


 けれど、本人が自分へ話していないものを、本人のいないところで先に知るのは嫌だった。


 全部説明する必要はないと思った。


「……本人から聞いてないので」


「それだけ?」


 澪は少し迷った。


「私だったら、嫌だから」


 レオが黙った。


 澪も続けなかった。


 気になる。


 でも、好奇心だけで他人の過去へ踏み込まなくても困らない。


 必要なら、その時に聞けばいい。


「……変なやつ」


 やがてレオが言った。


 昨日と同じ言葉だった。


 澪はペンを持ち直す。


「昨日も言われました」


「覚えてんじゃん」


「言われた側なので」


 また少し口が滑った。


 怒るだろうかと思って顔を上げる。


 レオは怒っていなかった。


 短く鼻から息を漏らした。


 笑ったのだと気づくまで、一拍かかった。


 ほんの一瞬。


 鋭かった目元が緩む。


 眉の傷も、口の悪さも、昨日銃を構えていた姿も消えたわけではない。


 それでも、その瞬間だけは年齢の読みづらさが薄れた。


 自分とそう変わらない年代の男なのだと、初めて思った。


 それ以上は分からない。


 澪が何か考える前に、表情はもう元へ戻っていた。


 レオはソファへ向かう。


 濡れたまま腰を下ろそうとしたところで、ベンが振り返った。


「待て!」


「何だよ」


「そのまま座るな!」


「何で」


「濡れるだろ!」


「もう汚ぇじゃん」


「汚れてるのと濡らしていいのは違う!」


 ベンがタオルを投げる。


 レオの顔にまともに当たった。


「……殺すぞ」


「昨日十分撃っただろ」


「ベン」


 階下からグレイの低い声が飛んできた。


「すみません!」


 返事だけは早い。


 澪は口元を押さえた。


 少しだけ、笑いそうになった。


 昨日、人が倒れるところを見た。


 レオが人へ向けて銃を撃つところも見た。


 今でも怖くないわけではない。


 なのに同じ男が、顔にタオルを掛けたままベンを睨んでいる。


 どういう人なのか、やはり分からなかった。


 ただ、昨日より少しだけ、「分からない」の中身が増えた。


 銃を持つ男。


 人を撃つ男。


 知らない女を危険な場所から引っ張り出しておいて、それを助けたとは認めたがらない男。


 自分のことは何も話していない男。


 そして、笑うとほんの少しだけ、物騒さが薄れる男。


 澪は書類へ視線を戻した。


 知りたいことはある。


 けれど、知らないままでいることも、自分で選べる。


 窓の外では、雨がまだ降り続いていた。


 昨日流れた血の跡も、古い壁の汚れも、港へ続く道も、同じ色に濡らしながら。







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