第1話 変なやつ
最初の銃声を、澪は銃声だと認識できなかった。
乾いた破裂音が二つ、少し間を置いて鳴った。古い石造りの建物に挟まれた通りの奥で反響し、どこから響いたものなのか分からなくなる。
荷下ろし中の木箱でも落ちたのだろうか。
そう思って足を止めたのは、ほんの数秒だった。
ヴァレリオへ来て四日目。
六月上旬。雨季に入りかけた港町の空気は朝から重く、白いブラウスの背中へ湿気がまとわりついていた。海から吹いてくる風にも涼しさはなく、塩と油と、どこかで傷み始めた果物の甘い匂いを運んでくる。
水城澪がこの街へ来たのは、観光でも転勤でもなかった。
勤め先である青葉貿易株式会社の海外事業部から、三週間だけの現地確認を命じられたからだ。
ヴァレリオ港を経由した貨物の一部が、記録上は存在するのに最終的な受取先へ届いていない。
港には荷揚げの記録がある。指定倉庫への搬入記録もある。ところが、その先だけが曖昧だった。受取先は「届いていない」と言い、港側は「移送済み」と答える。日本側に残る書類にも、細かな食い違いがいくつかあった。
澪の仕事は、その食い違いを現地で確認し、関係先の書類を照合して、日本へ報告できる形に整理することだった。
捜査官ではない。
危険な場所へ踏み込むような仕事でもない。
少なくとも、出発前はそう聞いていた。
実際、最初の三日間はそうだった。
港湾事務所や取引先のオフィスを回り、書類を出してもらい、担当者から話を聞く。ホテルと訪問先の間は車で移動した。英語の言い回しや書類の形式に少し手間取ることはあっても、日本でしている仕事と大きく違うわけではなかった。
旧港へ来るのは今日が初めてだった。
これから訪ねるブラックタイド・シッピングは、青葉貿易が現地で使っている輸送協力会社の一つだ。所在不明になった貨物の倉庫移送に関わった記録があり、追加で確認したいことが出たため、今日の面会を組んでもらっていた。
昼間なら大通り側から入れば問題ない。
そう聞いていた。
車も旧港の入口までは来た。ただ、その先は露店や荷車で道が狭く、事務所までは徒歩で数分程度だと言われ、澪はそこで降ろされた。迎えは面会が終わってから連絡を入れる手筈になっている。
だから、一人で歩くことそのものを危険だとは思っていなかった。
少なくとも、その時までは。
旧港へ入ってから、澪は何度も周囲を見回していた。
ガイドブックに載りそうな街ではない。
植民地時代の名残らしい石造りの建物には、色褪せた看板が幾重にも重なっている。一階では中国語や英語、それ以外の知らない言葉が飛び交い、道端では魚、果物、偽物らしい腕時計、古びた電化製品まで売られていた。頭上には複雑に絡んだ電線が建物から建物へ垂れ、その向こうに港の巨大なクレーンが見える。
汚れている。
騒がしい。
それでも、思っていたほど恐ろしい場所には見えなかった。
市場では母親が子供の手を引き、制服姿の学生が屋台で何かを買っている。スーツ姿の男もいれば、昼間から酒を飲んでいる老人もいる。
犯罪港湾都市。
日本でヴァレリオについて調べれば、まず出てくる言葉だった。
けれど澪の中で、その言葉はまだ現実になっていなかった。
三発目が鳴るまでは。
今度の音は近かった。
その瞬間、澪のすぐ横で果物を売っていた女が動いた。
積んであった籠を蹴るように店の奥へ押し込み、軒下に吊るしていた布を一気に下ろす。向かいの食堂では、老人が椅子を倒す勢いで立ち上がった。道端で瓶の蓋を弾いて遊んでいた男の子二人が、母親らしい女に腕を掴まれ、そのまま店の中へ引きずり込まれる。
誰も「何の音?」とは言わなかった。
誰も確かめようとしなかった。
ただ、それぞれが知っている動きで身を隠した。
その光景を見た瞬間、澪の背中を冷たいものが走った。
――この人たち、この音を知ってる。
考え終えるより早く、通りの左手にある細い路地から一人の男が飛び出してきた。
白いシャツだった。
少なくとも、最初はそう見えた。
脇腹から下が赤く染まり、片手でそこを押さえている。男は澪のいる交差点の方へ数歩よろめいた。口が何かを言おうと動いたが、声は聞こえない。
四歩目で膝をついた。
五歩目はなかった。
石畳へ倒れた身体が、鈍い音を立てる。
澪は動けなかった。
倒れた男の指が、一度だけ地面を掻いた。
それから動かなくなる。
赤いものが石畳の溝へ入り、ゆっくりこちらへ流れてきた。
澪の呼吸が止まった。
救急車。
誰か呼ばないと。
頭の中に言葉だけが浮かぶ。
けれど周囲を見ても、誰も男へ近づいていない。
店の陰から様子を窺う顔はある。
でも誰も出てこない。
電話を取り出す人すらいなかった。
どうして。
その疑問を考え終える前に、四発目が響いた。
今度こそ、それが銃声だと分かった。
澪は反射的に肩を竦めた。
通りの正面、二十メートルほど先。
停められた黒い車の陰から、男が半身だけを出した。
右手に拳銃。
左手にも、もう一挺。
黒髪だった。
汗と湿気で前髪が額へ張りついている。黒いシャツの袖から出た腕は細く見えるのに、銃を支える肩から肘までの線には無駄がなかった。
年齢は分からなかった。
左眉の上に走る傷と、険しい目つきのせいで大人びて見える一方、輪郭にはまだ若さも残っている。自分より上なのか下なのか、それすら判断しづらい。
そんなことを考えられたのは、その男が澪ではなく、澪の右後方にある路地へ銃口を向けていたからだった。
黒い車の陰にいる男と、右後方の路地。その間を斜めに通りが抜けている。
澪が立っているのは、その開けた場所の端だった。
男の銃口の正面ではない。
けれど、向こう側から撃ち返されれば簡単に巻き込まれる位置だった。
黒髪の男が引き金を引く。
一発。
二発。
右後方の路地から姿を見せかけた人影が、壁へぶつかるように倒れた。
澪の胃がひっくり返りそうになった。
人を撃った。
目の前で。
迷わず。
「――おい!」
怒鳴り声が飛んだ。
誰に向けられたものか、最初は分からなかった。
「そこの女!」
澪はようやく顔を上げた。
黒髪の男がこちらを睨んでいた。
「突っ立ってんな! 邪魔だ!」
「……え」
理解できなかった。
自分が何を邪魔しているのか。
今どこへ動けばいいのか。
「伏せろ!」
男が叫んだ。
直後、澪の右側で何かが弾けた。
目の高さほどの石壁から白い粉が吹き出す。
頬に細かな破片が当たった。
遅れて、耳を殴るような破裂音。
撃たれた。
壁が。
自分のすぐ隣を。
そこで初めて分かった。
ここに立っているだけで危ない。
脚から力が抜けた。
それなのに身体は倒れず、棒のようにその場へ立ち尽くしていた。
逃げなきゃ。
頭では分かる。
でも右へ行けば路地に近づく。左には露店と壁。後ろへ戻るには、開けた場所を数メートル走らなければならない。
どこへ行けばいいのか分からなかった。
男が盛大に舌打ちした。
「クソッ」
黒い車の陰から飛び出した。
一瞬、澪は何をしているのか理解できなかった。
そこにいれば遮蔽物がある。
出れば危ない。
それなのに男は、銃を持ったまま一気にこちらへ走ってくる。
速かった。
数秒前まで遠くにいたはずなのに、気づけばもう目の前まで来ている。
「ちょ――」
左腕を掴まれた。
強い。
痛いと思うより先に引かれ、身体が前へ持っていかれる。
「走れ!」
パンプスの踵が石畳に引っかかる。
転びかける。
「待っ――」
「待てるか!」
腕を引かれたまま、左手の建物と建物の間へ押し込まれた。
背中が湿った壁へ当たる。
鈍い痛み。
「いた……」
「頭下げろ」
男は澪の前へ立った。
ほとんど身体で塞ぐような位置だった。
近くで見ると、遠目よりさらに年齢が読みづらかった。
乱れた黒髪。暗い焦げ茶色の目。左眉の上の古い傷。すっと通った鼻筋と、薄く引き締まった口元。街ですれ違えば目を引いたかもしれない顔立ちなのに、今はその整い方さえ不穏に見える。
男の手にはまだ銃がある。
煙草とも違う、焦げたような匂いが鼻の奥に残っている。
怖い。
それしかない。
「ここ動くな」
男は澪の返事を待たなかった。
壁際へ身体を寄せる。
ほんの一瞬だけ外を見る。
戻る。
今度は低い位置から肩ごと僅かに身を乗り出す。
二発。
すぐ引く。
足を半歩ずらし、別の角度を確認する。
さっきまで澪へ怒鳴っていた男から、乱暴さだけが消えていた。
動きに迷いがない。
怖いほど静かだった。
澪は壁へ背中を押しつけたまま、その横顔を見ることしかできなかった。
どうしてこんなに平気なのだろう。
いや。
平気なのではなく、慣れているのかもしれない。
その考えの方が怖かった。
銃声は途切れ途切れに続いた。
一発鳴るたび、澪の肩が勝手に震える。
自分の呼吸音がやけに大きい。
胸が痛いほど速く打っている。
視線を落とすと、石畳の隙間から小さな蟻が一匹、壁際を歩いていた。
こんな時にも蟻がいる。
そんな当たり前のことが、逆に現実感を奪った。
「……クソ」
男が小さく呟いた。
澪は顔を上げる。
頬に細い赤い線ができていた。
血だ。
けれど声をかける気にはなれなかった。
何を言えばいいのか分からない。
何より、今はできるだけこの男の邪魔をしたくなかった。
また一発。
今度は遠い。
そのあと、長い沈黙が落ちた。
男はすぐには動かなかった。
十秒ほど、外の音を聞いている。
澪も無意識に息を止めた。
遠くで車のエンジン音がする。
誰かが怒鳴っている。
やがて、その声も遠ざかる。
「……終わり」
男が言った。
あまりにも普通の声だった。
雨が止んだことでも確認したような口調。
澪は壁から背中を離した。
男は銃を確認し、片方ずつ腰へ収めていく。
その動作まで日常だった。
澪は何も言えず、その手を見る。
この人はさっき、人を撃った。
少なくとも一人。
もっとかもしれない。
それなのに今は、鍵でもポケットへしまうように銃を戻している。
澪には、それが理解できなかった。
通りへ視線を向ける。
白いシャツの男は、まだ倒れたままだった。
さっき黒髪の男が撃った人影も、路地の入口から動かない。
誰も近づかない。
誰も駆け寄らない。
澪は、白いシャツの男が誰なのか知らない。
この男と敵だったのか、味方だったのか、それともまったく関係がないのかさえ分からなかった。
助けないのだろうか、と思った。
でも口には出せなかった。
目の前にいるのは、ほんの数分前に人へ向けて迷いなく引き金を引いた男だ。
何を尋ねればいいのか。
何なら尋ねても大丈夫なのか。
それすら澪には判断できなかった。
男は煙草を取り出した。
指先に僅かに血がついている。
一本咥え、ライターを鳴らす。
火が一瞬だけ顔を照らした。
整っている。
澪はそんなことを思ってしまった自分に戸惑った。
怖そうな顔をした男なら、もっと単純だったかもしれない。
けれど目の前にいる男は、顔立ちだけならむしろ目を引く。
そんな人間が、さっきまで人を撃っていた。
その事実の方が気味が悪かった。
「怪我は」
突然聞かれた。
澪は一瞬、自分に向けられた言葉だと分からなかった。
「……え?」
「お前。どっか撃たれてねぇか」
「たぶん……大丈夫です」
「たぶんって何だよ」
男が眉間へ皺を寄せる。
澪もようやく自分の身体を見る。
腕。
脚。
ブラウス。
血はついていない。
左腕だけが少し熱を持っていた。
さっき掴まれた場所に、指の形がうっすら赤く残っている。
男もそこへ目をやった。
「それ、俺か」
「……たぶん」
「悪ぃ」
思っていたより素直に言われたので、澪の方が一瞬返事に困った。
「いえ」
痛くないわけではない。
でもあのまま立っていたら、腕が赤くなるどころでは済まなかった。
そこまで考えてから、澪は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございました」
男が怪訝そうに見る。
「何が」
「助けてもらったので」
「別に」
煙を吐く。
「邪魔だっただけ」
言い方がひどい。
けれど、さっきこの男が安全な車の陰からわざわざ飛び出してきたことを、澪は見ている。
本当にただ邪魔だっただけなら、怒鳴って伏せさせればよかったはずだ。
でも、それを本人へ確かめる気にはならなかった。
「……それでも、です」
「変なやつ」
ぼそりと言われる。
澪は答えなかった。
できれば、これ以上話したくなかった。
男はしばらく煙草を吸っていたが、やがて澪の鞄へ目を落とした。
「で。何でこんなとこいたんだよ」
「仕事です」
「ここで?」
「この先に行く予定でした」
「どこ」
澪はすぐには答えなかった。
知らない男だ。
それも、人を撃ったばかりの。
会社名や目的を簡単に話す相手ではない。
けれど一方で、一人で来た道を戻るのも怖かった。
さっきの銃撃が本当に終わったのか、自分には分からない。
この男なら分かる。
それが嫌でも、今は認めるしかなかった。
「……そこまで、まだ危ないですか」
男が煙草を指に挟んだまま澪を見る。
「どこまで」
「大通りまでです」
「今は戻らねぇ方がいい」
即答だった。
澪の胃が重くなる。
「じゃあ……」
「どこ行く予定だったんだよ。それによる」
言われて、澪は少し迷った。
鞄から予定表だけを取り出す。貨物の詳細が載った資料ではない。
住所を示す。
「ここです」
男の視線が紙へ落ちる。
煙草が止まった。
「……ブラックタイド?」
「はい」
「何しに」
「仕事です」
「それはさっき聞いた」
澪は口を閉じた。
男が少しだけ眉を寄せる。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「そこならすぐそこ」
「知ってるんですか」
「俺んとこだから」
澪は瞬いた。
「……え」
「ブラックタイド。俺がいるとこ」
よりによって。
澪は心の中でそう思った。
目の前の、銃を二挺持って人を撃っていた男が、これから訪ねる協力会社の人間。
帰りたい。
かなり本気でそう思った。
けれど大通りへ戻る方が危険だと言われた。
ブラックタイドまではすぐそこ。
そして、この男自身もそこへ戻るらしい。
信用したわけではない。
ただ、今選べる中では、その方がまだ安全に思えた。
「……今、行っても大丈夫なんですか」
「事務所まではな」
「さっきの人たちは?」
「引いた」
澪は少し迷った。
「……分かりました。お願いします」
「何を」
「事務所まで」
「勝手について来りゃいいだろ」
やっぱり感じが悪い。
澪はそれを口には出さなかった。
「はい」
男が先に歩き出す。
澪は少しだけ距離を取って、その後ろについた。
近づきすぎたくはなかった。
ただし見失うのも困る。
さっきまで銃撃があった通りへ戻る。
足が重かった。
血の匂いがする気がした。
白いシャツの男が倒れていた場所には、いつの間にか二人ほど別の男が来ていた。しゃがみ込み、何かを確認している。生きているのか死んでいるのか、澪には分からない。
その横で、さっき果物を片づけていた女が再び籠を並べ始めている。
母親に連れ込まれた子供たちも、もう店先から顔を出していた。
五分前まで人が撃たれていた。
それなのに街が戻っていく。
荷車が通る。
自転車が通る。
男が一人死んでいるかもしれない、その数メートル横で値段交渉が始まる。
澪は立ち止まりそうになった。
前を歩いていた男が振り返る。
「何」
「……何でもないです」
本当は、何でもなくなかった。
自分だけが、この場所から浮いている気がした。
周囲の人間は、この街で生きる方法を知っている。
知らないのは自分だけだ。
ホテルと会社の車の窓から見たヴァレリオは、海と古い建物とネオンのある港町だった。
それは嘘ではなかった。
でも、全部でもなかった。
澪は前を行く男を見る。
歩きながら煙草を吸っている。
背は高い。
細身なのに肩から背中にかけてはしっかりしていて、歩幅も大きい。黒いシャツの裾から覗く腰には銃が二挺収まっている。
名前も知らない。
聞きたいとも思わなかった。
できれば仕事が終わったら、それきり会わない人であってほしい。
今はそう思っていた。
*
ブラックタイド・シッピングは、澪が想像していた「会社」よりずっと会社らしくなかった。
一階には古いシャッター付きのガレージと小さな倉庫があり、その脇にある狭い階段を上がる。壁には何度塗り直したのか分からない塗料の跡が残り、手すりはところどころ錆びていた。
二階の扉を男が開ける。
「客」
それだけ言って中へ入った。
澪もあとに続く。
室内は広くない。
窓際に大きな机。古びた革張りのソファ。低いテーブル。書類棚。古いパソコンの置かれた机。別の机にはファイルが山になっている。冷蔵庫の上には灰皿と、いつ開けたのか分からない菓子の袋。
外から見た荒れた建物よりは、ずっと生活感があった。
「水城さん?」
日本語で呼ばれて、澪はそちらを向いた。
眼鏡をかけた黒髪の男が立ち上がっている。
二十代後半くらい。細身で、シャツの袖をきちんと折っている。ここへ来て初めて見る、日本の会社にいても違和感のない人だった。
「はい。水城です」
「神谷です。青葉貿易から連絡もらってます」
日本語を聞いたことに、自分でも驚くほどほっとした。
「水城澪です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。ここまで大丈夫でした?」
澪は返答に少し詰まった。
「……途中で、銃撃が」
神谷の表情が変わった。
「巻き込まれたんですか?」
「少し……」
「少しって」
「レオ」
窓際から低い声が飛んだ。
澪は反射的にそちらを見た。
大きな机に座っていた男だった。
四十代くらい。黒人。座っていても大柄だと分かる。肩幅が広く、低い声には怒鳴っていないのに人を黙らせる重さがあった。
呼ばれたのは自分ではない。
さっきの男が冷蔵庫を開けながら振り返った。
「何」
――レオ。
そこで初めて名前を知った。
「外で何があった」
「東側の連中」
「ここまで来たか」
「いや。市場んとこだけ」
レオは冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「死人は」
「二、多分」
缶の蓋が小さく鳴った。
澪は壁の時計を見る。
まだ正午前だった。
数分前まで人を撃っていた男が、もうビールを飲んでいる。
あまりにも普通だった。
「民間人の死傷者は」
「見た限りじゃいねぇ。一人巻き込まれかけたけど」
そう言って、レオが顎で澪を示した。
大男の視線が初めてこちらへ向く。
澪は反射的に背筋を伸ばした。
「怪我は」
「ねぇよ」
レオが答える。
大男の視線はまだ澪に向いたままだった。
「本人にも聞く。怪我は?」
「あ……はい。大丈夫です」
「そうか」
それだけ確認すると、大男は再びレオへ目を向けた。
「他に巻き込まれた人間がいないか、あとで確認させろ」
「分かった」
「あと、お前」
「何」
「その顔どうした」
レオが自分の頬へ触れる。
指に僅かに血がついた。
「ああ。掠った」
「手当てしろ」
「あとでいい」
「今やれ」
「うるせぇな」
文句を言いながらも、レオは机の隅にある救急箱へ手を伸ばした。
澪は黙ってそのやり取りを見た。
人が死んだことに誰も驚いていない。
それでも、この大男は民間人が巻き込まれていないか確認しろと言った。
レオの傷も放置させない。
同じ場所にいるからといって、全員が同じ感覚で生きているわけではないらしい。
「失礼」
神谷が澪へ視線を戻した。
「本当に大丈夫ですか?」
「はい。腕が少し赤くなったくらいで」
「腕?」
救急箱から消毒液を出していたレオがこちらを見る。
「まだ痛ぇの?」
「少し。でも大丈夫です」
澪はそれ以上は言わなかった。
助けてもらったことは、もう路地で伝えた。
痛かったことも事実だけれど、今ここでわざわざ蒸し返すほどではない。
神谷がレオを見る。
「何したんですか」
「射線の近くで固まってたから引っ張っただけ」
「なるほど」
神谷は一瞬、澪の腕とレオの手を見比べたが、それ以上は何も言わなかった。
大男が澪へ視線を向ける。
「マーカス・グレイだ。ここの責任者をやってる」
「水城澪です。本日はありがとうございます」
澪は頭を下げた。
グレイは小さく頷く。
「神谷から話は聞いてる。座ってくれ。それと、帰りは一人で戻すな」
「え」
「今日は旧港の状況が悪い。用事が済んだら誰かつける」
ありがたかった。
自分から「送ってください」と言えるほど、この人たちとの距離感も分からない。けれど、同じ道を一人で戻りたいかと聞かれれば答えは明らかだった。
「……ありがとうございます」
「僕が送りますよ」
神谷が言った。
「その方が水城さんも安心でしょうし」
「すみません。お願いします」
「気にしないでください」
ようやく仕事の話になった。
それだけで、澪は少しだけ息をつけた。
机へ資料を広げる。
今回確認したいのは、ヴァレリオ経由で消えた貨物の流れだった。
港側には荷揚げ記録がある。
指定倉庫への搬入記録もある。
ところが、その後の移送記録だけが曖昧だった。
最終受取先は「受領していない」と主張している。
港側の記録では「移送済み」。
青葉貿易の控えには、その両方と噛み合わない箇所がいくつかあった。
「こちらが日本側で持っている控えです」
澪は一枚ずつ資料を並べていった。
神谷も隣へ座る。
向かいではグレイが帳簿を確認している。
レオは仕事に関係がないらしく、頬へ小さなガーゼを貼ったあとソファへ身体を沈めた。
片脚を低いテーブルへ投げ出し、ビールを飲んでいる。
澪はなるべくそちらを見ないようにした。
怖くないわけではない。
むしろ、まだかなり怖い。
けれど紙を見る。
そこに書かれていることなら、自分にも分かる。
会社名。
貨物番号。
日付。
倉庫番号。
住所。
一枚。
二枚。
三枚。
同じ項目を順番に追う。
途中で、澪の指が止まった。
「……神谷さん」
「はい?」
「これ、見てもらえますか」
澪は二枚の書類を並べた。
「住所、違いません?」
神谷が身を寄せる。
「どこです?」
「ここです」
澪は文字を指でなぞった。
会社名は同じ。
貨物番号も同じ。
記載されている倉庫名も同じ。
違っているのは住所だけだった。
しかも番地が丸ごと変わっているわけではない。
一文字。
本当に、一文字だけ。
「……ほんとですね」
神谷が眼鏡を押し上げる。
「入力ミスでしょうか」
「私も最初そう思ったんですけど」
澪は別の書類を引き寄せた。
「これも同じなんです」
神谷の目が紙へ落ちる。
「作成者、違いますね」
「ですよね」
一人が作った一枚だけなら、単なる入力ミスで済む。
けれど、作成者の違う書類に同じ誤りが繰り返されている。
それなら、二人とも同じ誤った情報を参照した可能性がある。
もちろん、それだけでは何も分からない。
片方を写しただけかもしれない。
古い登録情報が残っていただけかもしれない。
そもそも正しいと思っている方が間違っている可能性だってある。
澪にはまだ判断できなかった。
分からない以上、ここで意味を決めつけるべきではない。
でも、偶然として捨ててしまうには少し気持ちが悪かった。
「これ、印つけてもいいですか」
「どうぞ」
澪はペン立てから赤いペンを借りた。
一文字を小さく囲む。
赤い円。
証拠ではない。
答えでもない。
ただ、あとで見落とさないための印だった。
その横に小さく、同じ誤記が別の書類にもあることを書き添える。
「何かありそうですか?」
神谷に聞かれ、澪は首を振った。
「分からないです」
それが正直な答えだった。
「でも、今は捨てない方がいい気がして」
「僕もそう思います」
その言葉に、澪は少しだけ肩の力を抜いた。
自分の考えすぎではないらしい。
窓の外から、水の流れる音が聞こえた。
澪は顔を上げる。
建物の下。
さっき銃撃のあった通りの方角で、店の男がホースを使って石畳を洗っている。
赤茶色に濁った水が、側溝へ流れていく。
そのすぐ横を、荷車が通った。
女が買い物袋を提げて歩いている。
子供が笑っている。
街はもう、何事もなかったように動いていた。
事務所ではレオが二本目のビールを取ろうとして、グレイに「一つにしろ」と低く言われている。
「ケチ」
「仕事中だ」
「俺の仕事終わった」
「だからって昼前から二本飲むな」
レオは舌打ちしながら冷蔵庫を閉めた。
澪は一度だけ、そちらを見る。
さっき自分を射線の近くから引きずり出した男。
人へ向けて銃を撃った男。
礼を言えば、「邪魔だっただけ」と答えた男。
そして今は、二本目のビールを取り上げられて不満そうな顔をしている。
どういう人なのか、まるで分からない。
分からないし、今は知りたいとも思わなかった。
澪は手元へ視線を戻す。
赤い円。
一文字だけ違う住所。
窓の外を流れていく、薄く赤い水。
そして、名前だけを知った、感じの悪い男。
ヴァレリオへ来て四日目。
澪はまだ、この街のことを何も知らなかった。




