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第1話 変なやつ

 


最初の銃声を、澪は銃声だと認識できなかった。


 乾いた破裂音が二つ、少し間を置いて鳴った。古い石造りの建物に挟まれた通りの奥で反響し、どこから響いたものなのか分からなくなる。


 荷下ろし中の木箱でも落ちたのだろうか。


 そう思って足を止めたのは、ほんの数秒だった。


 ヴァレリオへ来て四日目。


 六月上旬。雨季に入りかけた港町の空気は朝から重く、白いブラウスの背中へ湿気がまとわりついていた。海から吹いてくる風にも涼しさはなく、塩と油と、どこかで傷み始めた果物の甘い匂いを運んでくる。


 水城澪がこの街へ来たのは、観光でも転勤でもなかった。


 勤め先である青葉貿易株式会社の海外事業部から、三週間だけの現地確認を命じられたからだ。


 ヴァレリオ港を経由した貨物の一部が、記録上は存在するのに最終的な受取先へ届いていない。


 港には荷揚げの記録がある。指定倉庫への搬入記録もある。ところが、その先だけが曖昧だった。受取先は「届いていない」と言い、港側は「移送済み」と答える。日本側に残る書類にも、細かな食い違いがいくつかあった。


 澪の仕事は、その食い違いを現地で確認し、関係先の書類を照合して、日本へ報告できる形に整理することだった。


 捜査官ではない。


 危険な場所へ踏み込むような仕事でもない。


 少なくとも、出発前はそう聞いていた。


 実際、最初の三日間はそうだった。


 港湾事務所や取引先のオフィスを回り、書類を出してもらい、担当者から話を聞く。ホテルと訪問先の間は車で移動した。英語の言い回しや書類の形式に少し手間取ることはあっても、日本でしている仕事と大きく違うわけではなかった。


 旧港へ来るのは今日が初めてだった。


 これから訪ねるブラックタイド・シッピングは、青葉貿易が現地で使っている輸送協力会社の一つだ。所在不明になった貨物の倉庫移送に関わった記録があり、追加で確認したいことが出たため、今日の面会を組んでもらっていた。


 昼間なら大通り側から入れば問題ない。


 そう聞いていた。


 車も旧港の入口までは来た。ただ、その先は露店や荷車で道が狭く、事務所までは徒歩で数分程度だと言われ、澪はそこで降ろされた。迎えは面会が終わってから連絡を入れる手筈になっている。


 だから、一人で歩くことそのものを危険だとは思っていなかった。


 少なくとも、その時までは。


 旧港へ入ってから、澪は何度も周囲を見回していた。


 ガイドブックに載りそうな街ではない。


 植民地時代の名残らしい石造りの建物には、色褪せた看板が幾重にも重なっている。一階では中国語や英語、それ以外の知らない言葉が飛び交い、道端では魚、果物、偽物らしい腕時計、古びた電化製品まで売られていた。頭上には複雑に絡んだ電線が建物から建物へ垂れ、その向こうに港の巨大なクレーンが見える。


 汚れている。


 騒がしい。


 それでも、思っていたほど恐ろしい場所には見えなかった。


 市場では母親が子供の手を引き、制服姿の学生が屋台で何かを買っている。スーツ姿の男もいれば、昼間から酒を飲んでいる老人もいる。


 犯罪港湾都市。


 日本でヴァレリオについて調べれば、まず出てくる言葉だった。


 けれど澪の中で、その言葉はまだ現実になっていなかった。


 三発目が鳴るまでは。


 今度の音は近かった。


 その瞬間、澪のすぐ横で果物を売っていた女が動いた。


 積んであった籠を蹴るように店の奥へ押し込み、軒下に吊るしていた布を一気に下ろす。向かいの食堂では、老人が椅子を倒す勢いで立ち上がった。道端で瓶の蓋を弾いて遊んでいた男の子二人が、母親らしい女に腕を掴まれ、そのまま店の中へ引きずり込まれる。


 誰も「何の音?」とは言わなかった。


 誰も確かめようとしなかった。


 ただ、それぞれが知っている動きで身を隠した。


 その光景を見た瞬間、澪の背中を冷たいものが走った。


 ――この人たち、この音を知ってる。


 考え終えるより早く、通りの左手にある細い路地から一人の男が飛び出してきた。


 白いシャツだった。


 少なくとも、最初はそう見えた。


 脇腹から下が赤く染まり、片手でそこを押さえている。男は澪のいる交差点の方へ数歩よろめいた。口が何かを言おうと動いたが、声は聞こえない。


 四歩目で膝をついた。


 五歩目はなかった。


 石畳へ倒れた身体が、鈍い音を立てる。


 澪は動けなかった。


 倒れた男の指が、一度だけ地面を掻いた。


 それから動かなくなる。


 赤いものが石畳の溝へ入り、ゆっくりこちらへ流れてきた。


 澪の呼吸が止まった。


 救急車。


 誰か呼ばないと。


 頭の中に言葉だけが浮かぶ。


 けれど周囲を見ても、誰も男へ近づいていない。


 店の陰から様子を窺う顔はある。


 でも誰も出てこない。


 電話を取り出す人すらいなかった。


 どうして。


 その疑問を考え終える前に、四発目が響いた。


 今度こそ、それが銃声だと分かった。


 澪は反射的に肩を竦めた。


 通りの正面、二十メートルほど先。


 停められた黒い車の陰から、男が半身だけを出した。


 右手に拳銃。


 左手にも、もう一挺。


 黒髪だった。


 汗と湿気で前髪が額へ張りついている。黒いシャツの袖から出た腕は細く見えるのに、銃を支える肩から肘までの線には無駄がなかった。


 年齢は分からなかった。


 左眉の上に走る傷と、険しい目つきのせいで大人びて見える一方、輪郭にはまだ若さも残っている。自分より上なのか下なのか、それすら判断しづらい。


 そんなことを考えられたのは、その男が澪ではなく、澪の右後方にある路地へ銃口を向けていたからだった。


 黒い車の陰にいる男と、右後方の路地。その間を斜めに通りが抜けている。


 澪が立っているのは、その開けた場所の端だった。


 男の銃口の正面ではない。


 けれど、向こう側から撃ち返されれば簡単に巻き込まれる位置だった。


 黒髪の男が引き金を引く。


 一発。


 二発。


 右後方の路地から姿を見せかけた人影が、壁へぶつかるように倒れた。


 澪の胃がひっくり返りそうになった。


 人を撃った。


 目の前で。


 迷わず。


「――おい!」


 怒鳴り声が飛んだ。


 誰に向けられたものか、最初は分からなかった。


「そこの女!」


 澪はようやく顔を上げた。


 黒髪の男がこちらを睨んでいた。


「突っ立ってんな! 邪魔だ!」


「……え」


 理解できなかった。


 自分が何を邪魔しているのか。


 今どこへ動けばいいのか。


「伏せろ!」


 男が叫んだ。


 直後、澪の右側で何かが弾けた。


 目の高さほどの石壁から白い粉が吹き出す。


 頬に細かな破片が当たった。


 遅れて、耳を殴るような破裂音。


 撃たれた。


 壁が。


 自分のすぐ隣を。


 そこで初めて分かった。


 ここに立っているだけで危ない。


 脚から力が抜けた。


 それなのに身体は倒れず、棒のようにその場へ立ち尽くしていた。


 逃げなきゃ。


 頭では分かる。


 でも右へ行けば路地に近づく。左には露店と壁。後ろへ戻るには、開けた場所を数メートル走らなければならない。


 どこへ行けばいいのか分からなかった。


 男が盛大に舌打ちした。


「クソッ」


 黒い車の陰から飛び出した。


 一瞬、澪は何をしているのか理解できなかった。


 そこにいれば遮蔽物がある。


 出れば危ない。


 それなのに男は、銃を持ったまま一気にこちらへ走ってくる。


 速かった。


 数秒前まで遠くにいたはずなのに、気づけばもう目の前まで来ている。


「ちょ――」


 左腕を掴まれた。


 強い。


 痛いと思うより先に引かれ、身体が前へ持っていかれる。


「走れ!」


 パンプスの踵が石畳に引っかかる。


 転びかける。


「待っ――」


「待てるか!」


 腕を引かれたまま、左手の建物と建物の間へ押し込まれた。


 背中が湿った壁へ当たる。


 鈍い痛み。


「いた……」


「頭下げろ」


 男は澪の前へ立った。


 ほとんど身体で塞ぐような位置だった。


 近くで見ると、遠目よりさらに年齢が読みづらかった。


 乱れた黒髪。暗い焦げ茶色の目。左眉の上の古い傷。すっと通った鼻筋と、薄く引き締まった口元。街ですれ違えば目を引いたかもしれない顔立ちなのに、今はその整い方さえ不穏に見える。


 男の手にはまだ銃がある。


 煙草とも違う、焦げたような匂いが鼻の奥に残っている。


 怖い。


 それしかない。


「ここ動くな」


 男は澪の返事を待たなかった。


 壁際へ身体を寄せる。


 ほんの一瞬だけ外を見る。


 戻る。


 今度は低い位置から肩ごと僅かに身を乗り出す。


 二発。


 すぐ引く。


 足を半歩ずらし、別の角度を確認する。


 さっきまで澪へ怒鳴っていた男から、乱暴さだけが消えていた。


 動きに迷いがない。


 怖いほど静かだった。


 澪は壁へ背中を押しつけたまま、その横顔を見ることしかできなかった。


 どうしてこんなに平気なのだろう。


 いや。


 平気なのではなく、慣れているのかもしれない。


 その考えの方が怖かった。


 銃声は途切れ途切れに続いた。


 一発鳴るたび、澪の肩が勝手に震える。


 自分の呼吸音がやけに大きい。


 胸が痛いほど速く打っている。


 視線を落とすと、石畳の隙間から小さな蟻が一匹、壁際を歩いていた。


 こんな時にも蟻がいる。


 そんな当たり前のことが、逆に現実感を奪った。


「……クソ」


 男が小さく呟いた。


 澪は顔を上げる。


 頬に細い赤い線ができていた。


 血だ。


 けれど声をかける気にはなれなかった。


 何を言えばいいのか分からない。


 何より、今はできるだけこの男の邪魔をしたくなかった。


 また一発。


 今度は遠い。


 そのあと、長い沈黙が落ちた。


 男はすぐには動かなかった。


 十秒ほど、外の音を聞いている。


 澪も無意識に息を止めた。


 遠くで車のエンジン音がする。


 誰かが怒鳴っている。


 やがて、その声も遠ざかる。


「……終わり」


 男が言った。


 あまりにも普通の声だった。


 雨が止んだことでも確認したような口調。


 澪は壁から背中を離した。


 男は銃を確認し、片方ずつ腰へ収めていく。


 その動作まで日常だった。


 澪は何も言えず、その手を見る。


 この人はさっき、人を撃った。


 少なくとも一人。


 もっとかもしれない。


 それなのに今は、鍵でもポケットへしまうように銃を戻している。


 澪には、それが理解できなかった。


 通りへ視線を向ける。


 白いシャツの男は、まだ倒れたままだった。


 さっき黒髪の男が撃った人影も、路地の入口から動かない。


 誰も近づかない。


 誰も駆け寄らない。


 澪は、白いシャツの男が誰なのか知らない。


 この男と敵だったのか、味方だったのか、それともまったく関係がないのかさえ分からなかった。


 助けないのだろうか、と思った。


 でも口には出せなかった。


 目の前にいるのは、ほんの数分前に人へ向けて迷いなく引き金を引いた男だ。


 何を尋ねればいいのか。


 何なら尋ねても大丈夫なのか。


 それすら澪には判断できなかった。


 男は煙草を取り出した。


 指先に僅かに血がついている。


 一本咥え、ライターを鳴らす。


 火が一瞬だけ顔を照らした。


 整っている。


 澪はそんなことを思ってしまった自分に戸惑った。


 怖そうな顔をした男なら、もっと単純だったかもしれない。


 けれど目の前にいる男は、顔立ちだけならむしろ目を引く。


 そんな人間が、さっきまで人を撃っていた。


 その事実の方が気味が悪かった。


「怪我は」


 突然聞かれた。


 澪は一瞬、自分に向けられた言葉だと分からなかった。


「……え?」


「お前。どっか撃たれてねぇか」


「たぶん……大丈夫です」


「たぶんって何だよ」


 男が眉間へ皺を寄せる。


 澪もようやく自分の身体を見る。


 腕。


 脚。


 ブラウス。


 血はついていない。


 左腕だけが少し熱を持っていた。


 さっき掴まれた場所に、指の形がうっすら赤く残っている。


 男もそこへ目をやった。


「それ、俺か」


「……たぶん」


「悪ぃ」


 思っていたより素直に言われたので、澪の方が一瞬返事に困った。


「いえ」


 痛くないわけではない。


 でもあのまま立っていたら、腕が赤くなるどころでは済まなかった。


 そこまで考えてから、澪は小さく頭を下げた。


「……ありがとうございました」


 男が怪訝そうに見る。


「何が」


「助けてもらったので」


「別に」


 煙を吐く。


「邪魔だっただけ」


 言い方がひどい。


 けれど、さっきこの男が安全な車の陰からわざわざ飛び出してきたことを、澪は見ている。


 本当にただ邪魔だっただけなら、怒鳴って伏せさせればよかったはずだ。


 でも、それを本人へ確かめる気にはならなかった。


「……それでも、です」


「変なやつ」


 ぼそりと言われる。


 澪は答えなかった。


 できれば、これ以上話したくなかった。


 男はしばらく煙草を吸っていたが、やがて澪の鞄へ目を落とした。


「で。何でこんなとこいたんだよ」


「仕事です」


「ここで?」


「この先に行く予定でした」


「どこ」


 澪はすぐには答えなかった。


 知らない男だ。


 それも、人を撃ったばかりの。


 会社名や目的を簡単に話す相手ではない。


 けれど一方で、一人で来た道を戻るのも怖かった。


 さっきの銃撃が本当に終わったのか、自分には分からない。


 この男なら分かる。


 それが嫌でも、今は認めるしかなかった。


「……そこまで、まだ危ないですか」


 男が煙草を指に挟んだまま澪を見る。


「どこまで」


「大通りまでです」


「今は戻らねぇ方がいい」


 即答だった。


 澪の胃が重くなる。


「じゃあ……」


「どこ行く予定だったんだよ。それによる」


 言われて、澪は少し迷った。


 鞄から予定表だけを取り出す。貨物の詳細が載った資料ではない。


 住所を示す。


「ここです」


 男の視線が紙へ落ちる。


 煙草が止まった。


「……ブラックタイド?」


「はい」


「何しに」


「仕事です」


「それはさっき聞いた」


 澪は口を閉じた。


 男が少しだけ眉を寄せる。


 けれど、それ以上は聞かなかった。


「そこならすぐそこ」


「知ってるんですか」


「俺んとこだから」


 澪は瞬いた。


「……え」


「ブラックタイド。俺がいるとこ」


 よりによって。


 澪は心の中でそう思った。


 目の前の、銃を二挺持って人を撃っていた男が、これから訪ねる協力会社の人間。


 帰りたい。


 かなり本気でそう思った。


 けれど大通りへ戻る方が危険だと言われた。


 ブラックタイドまではすぐそこ。


 そして、この男自身もそこへ戻るらしい。


 信用したわけではない。


 ただ、今選べる中では、その方がまだ安全に思えた。


「……今、行っても大丈夫なんですか」


「事務所まではな」


「さっきの人たちは?」


「引いた」


 澪は少し迷った。


「……分かりました。お願いします」


「何を」


「事務所まで」


「勝手について来りゃいいだろ」


 やっぱり感じが悪い。


 澪はそれを口には出さなかった。


「はい」


 男が先に歩き出す。


 澪は少しだけ距離を取って、その後ろについた。


 近づきすぎたくはなかった。


 ただし見失うのも困る。


 さっきまで銃撃があった通りへ戻る。


 足が重かった。


 血の匂いがする気がした。


 白いシャツの男が倒れていた場所には、いつの間にか二人ほど別の男が来ていた。しゃがみ込み、何かを確認している。生きているのか死んでいるのか、澪には分からない。


 その横で、さっき果物を片づけていた女が再び籠を並べ始めている。


 母親に連れ込まれた子供たちも、もう店先から顔を出していた。


 五分前まで人が撃たれていた。


 それなのに街が戻っていく。


 荷車が通る。


 自転車が通る。


 男が一人死んでいるかもしれない、その数メートル横で値段交渉が始まる。


 澪は立ち止まりそうになった。


 前を歩いていた男が振り返る。


「何」


「……何でもないです」


 本当は、何でもなくなかった。


 自分だけが、この場所から浮いている気がした。


 周囲の人間は、この街で生きる方法を知っている。


 知らないのは自分だけだ。


 ホテルと会社の車の窓から見たヴァレリオは、海と古い建物とネオンのある港町だった。


 それは嘘ではなかった。


 でも、全部でもなかった。


 澪は前を行く男を見る。


 歩きながら煙草を吸っている。


 背は高い。


 細身なのに肩から背中にかけてはしっかりしていて、歩幅も大きい。黒いシャツの裾から覗く腰には銃が二挺収まっている。


 名前も知らない。


 聞きたいとも思わなかった。


 できれば仕事が終わったら、それきり会わない人であってほしい。


 今はそう思っていた。


          *


 ブラックタイド・シッピングは、澪が想像していた「会社」よりずっと会社らしくなかった。


 一階には古いシャッター付きのガレージと小さな倉庫があり、その脇にある狭い階段を上がる。壁には何度塗り直したのか分からない塗料の跡が残り、手すりはところどころ錆びていた。


 二階の扉を男が開ける。


「客」


 それだけ言って中へ入った。


 澪もあとに続く。


 室内は広くない。


 窓際に大きな机。古びた革張りのソファ。低いテーブル。書類棚。古いパソコンの置かれた机。別の机にはファイルが山になっている。冷蔵庫の上には灰皿と、いつ開けたのか分からない菓子の袋。


 外から見た荒れた建物よりは、ずっと生活感があった。


「水城さん?」


 日本語で呼ばれて、澪はそちらを向いた。


 眼鏡をかけた黒髪の男が立ち上がっている。


 二十代後半くらい。細身で、シャツの袖をきちんと折っている。ここへ来て初めて見る、日本の会社にいても違和感のない人だった。


「はい。水城です」


「神谷です。青葉貿易から連絡もらってます」


 日本語を聞いたことに、自分でも驚くほどほっとした。


「水城澪です。よろしくお願いします」


「こちらこそ。ここまで大丈夫でした?」


 澪は返答に少し詰まった。


「……途中で、銃撃が」


 神谷の表情が変わった。


「巻き込まれたんですか?」


「少し……」


「少しって」


「レオ」


 窓際から低い声が飛んだ。


 澪は反射的にそちらを見た。


 大きな机に座っていた男だった。


 四十代くらい。黒人。座っていても大柄だと分かる。肩幅が広く、低い声には怒鳴っていないのに人を黙らせる重さがあった。


 呼ばれたのは自分ではない。


 さっきの男が冷蔵庫を開けながら振り返った。


「何」


 ――レオ。


 そこで初めて名前を知った。


「外で何があった」


「東側の連中」


「ここまで来たか」


「いや。市場んとこだけ」


 レオは冷蔵庫から缶ビールを取り出す。


「死人は」


「二、多分」


 缶の蓋が小さく鳴った。


 澪は壁の時計を見る。


 まだ正午前だった。


 数分前まで人を撃っていた男が、もうビールを飲んでいる。


 あまりにも普通だった。


「民間人の死傷者は」


「見た限りじゃいねぇ。一人巻き込まれかけたけど」


 そう言って、レオが顎で澪を示した。


 大男の視線が初めてこちらへ向く。


 澪は反射的に背筋を伸ばした。


「怪我は」


「ねぇよ」


 レオが答える。


 大男の視線はまだ澪に向いたままだった。


「本人にも聞く。怪我は?」


「あ……はい。大丈夫です」


「そうか」


 それだけ確認すると、大男は再びレオへ目を向けた。


「他に巻き込まれた人間がいないか、あとで確認させろ」


「分かった」


「あと、お前」


「何」


「その顔どうした」


 レオが自分の頬へ触れる。


 指に僅かに血がついた。


「ああ。掠った」


「手当てしろ」


「あとでいい」


「今やれ」


「うるせぇな」


 文句を言いながらも、レオは机の隅にある救急箱へ手を伸ばした。


 澪は黙ってそのやり取りを見た。


 人が死んだことに誰も驚いていない。


 それでも、この大男は民間人が巻き込まれていないか確認しろと言った。


 レオの傷も放置させない。


 同じ場所にいるからといって、全員が同じ感覚で生きているわけではないらしい。


「失礼」


 神谷が澪へ視線を戻した。


「本当に大丈夫ですか?」


「はい。腕が少し赤くなったくらいで」


「腕?」


 救急箱から消毒液を出していたレオがこちらを見る。


「まだ痛ぇの?」


「少し。でも大丈夫です」


 澪はそれ以上は言わなかった。


 助けてもらったことは、もう路地で伝えた。


 痛かったことも事実だけれど、今ここでわざわざ蒸し返すほどではない。


 神谷がレオを見る。


「何したんですか」


「射線の近くで固まってたから引っ張っただけ」


「なるほど」


 神谷は一瞬、澪の腕とレオの手を見比べたが、それ以上は何も言わなかった。


 大男が澪へ視線を向ける。


「マーカス・グレイだ。ここの責任者をやってる」


「水城澪です。本日はありがとうございます」


 澪は頭を下げた。


 グレイは小さく頷く。


「神谷から話は聞いてる。座ってくれ。それと、帰りは一人で戻すな」


「え」


「今日は旧港の状況が悪い。用事が済んだら誰かつける」


 ありがたかった。


 自分から「送ってください」と言えるほど、この人たちとの距離感も分からない。けれど、同じ道を一人で戻りたいかと聞かれれば答えは明らかだった。


「……ありがとうございます」


「僕が送りますよ」


 神谷が言った。


「その方が水城さんも安心でしょうし」


「すみません。お願いします」


「気にしないでください」


 ようやく仕事の話になった。


 それだけで、澪は少しだけ息をつけた。


 机へ資料を広げる。


 今回確認したいのは、ヴァレリオ経由で消えた貨物の流れだった。


 港側には荷揚げ記録がある。


 指定倉庫への搬入記録もある。


 ところが、その後の移送記録だけが曖昧だった。


 最終受取先は「受領していない」と主張している。


 港側の記録では「移送済み」。


 青葉貿易の控えには、その両方と噛み合わない箇所がいくつかあった。


「こちらが日本側で持っている控えです」


 澪は一枚ずつ資料を並べていった。


 神谷も隣へ座る。


 向かいではグレイが帳簿を確認している。


 レオは仕事に関係がないらしく、頬へ小さなガーゼを貼ったあとソファへ身体を沈めた。


 片脚を低いテーブルへ投げ出し、ビールを飲んでいる。


 澪はなるべくそちらを見ないようにした。


 怖くないわけではない。


 むしろ、まだかなり怖い。


 けれど紙を見る。


 そこに書かれていることなら、自分にも分かる。


 会社名。


 貨物番号。


 日付。


 倉庫番号。


 住所。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 同じ項目を順番に追う。


 途中で、澪の指が止まった。


「……神谷さん」


「はい?」


「これ、見てもらえますか」


 澪は二枚の書類を並べた。


「住所、違いません?」


 神谷が身を寄せる。


「どこです?」


「ここです」


 澪は文字を指でなぞった。


 会社名は同じ。


 貨物番号も同じ。


 記載されている倉庫名も同じ。


 違っているのは住所だけだった。


 しかも番地が丸ごと変わっているわけではない。


 一文字。


 本当に、一文字だけ。


「……ほんとですね」


 神谷が眼鏡を押し上げる。


「入力ミスでしょうか」


「私も最初そう思ったんですけど」


 澪は別の書類を引き寄せた。


「これも同じなんです」


 神谷の目が紙へ落ちる。


「作成者、違いますね」


「ですよね」


 一人が作った一枚だけなら、単なる入力ミスで済む。


 けれど、作成者の違う書類に同じ誤りが繰り返されている。


 それなら、二人とも同じ誤った情報を参照した可能性がある。


 もちろん、それだけでは何も分からない。


 片方を写しただけかもしれない。


 古い登録情報が残っていただけかもしれない。


 そもそも正しいと思っている方が間違っている可能性だってある。


 澪にはまだ判断できなかった。


 分からない以上、ここで意味を決めつけるべきではない。


 でも、偶然として捨ててしまうには少し気持ちが悪かった。


「これ、印つけてもいいですか」


「どうぞ」


 澪はペン立てから赤いペンを借りた。


 一文字を小さく囲む。


 赤い円。


 証拠ではない。


 答えでもない。


 ただ、あとで見落とさないための印だった。


 その横に小さく、同じ誤記が別の書類にもあることを書き添える。


「何かありそうですか?」


 神谷に聞かれ、澪は首を振った。


「分からないです」


 それが正直な答えだった。


「でも、今は捨てない方がいい気がして」


「僕もそう思います」


 その言葉に、澪は少しだけ肩の力を抜いた。


 自分の考えすぎではないらしい。


 窓の外から、水の流れる音が聞こえた。


 澪は顔を上げる。


 建物の下。


 さっき銃撃のあった通りの方角で、店の男がホースを使って石畳を洗っている。


 赤茶色に濁った水が、側溝へ流れていく。


 そのすぐ横を、荷車が通った。


 女が買い物袋を提げて歩いている。


 子供が笑っている。


 街はもう、何事もなかったように動いていた。


 事務所ではレオが二本目のビールを取ろうとして、グレイに「一つにしろ」と低く言われている。


「ケチ」


「仕事中だ」


「俺の仕事終わった」


「だからって昼前から二本飲むな」


 レオは舌打ちしながら冷蔵庫を閉めた。


 澪は一度だけ、そちらを見る。


 さっき自分を射線の近くから引きずり出した男。


 人へ向けて銃を撃った男。


 礼を言えば、「邪魔だっただけ」と答えた男。


 そして今は、二本目のビールを取り上げられて不満そうな顔をしている。


 どういう人なのか、まるで分からない。


 分からないし、今は知りたいとも思わなかった。


 澪は手元へ視線を戻す。


 赤い円。


 一文字だけ違う住所。


 窓の外を流れていく、薄く赤い水。


 そして、名前だけを知った、感じの悪い男。


 ヴァレリオへ来て四日目。


 澪はまだ、この街のことを何も知らなかった。





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