第九話 決戦
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紅雪と夕顔の二人が連れてこられたのは、奥ノ院の庭だった。
低木がきれいに整えられ、茂っている。紅白の入り混じった、小さな毬のような花が一面に咲き、甘い香りを放っていた。早咲きの沈丁花だ。
(これが、あたしが最後に目にする景色になるのね)
この状況においては、あまりに儚く、美しい景色だった。
山箭の掲げる篝火が、目の前の女の姿を浮かび上がらせている。
真珠のような光沢を放つ白糸が織り込まれた、薄鼠の衣の上から、鮮やかな濃紫の長衣を羽織っていた。それが冷たい風になびくたび、金糸で施された獅子の刺繍がきらきらと輝いた。贅沢で、豪奢な装いだった。
高く結い上げた黒髪には、いくつもの翡翠のかんざしが飾られ、女はそれを揺らしながら、紅を引いた唇に愉悦の笑みを浮かべているのだった。
「美しいであろう?わらわの、沈丁花の庭だ」
綾は、ひざまずく二人を見下ろし、うっとりと言った。
「わらわは美しいものが好きだ。以前に植えられていた醜い木々はすべて刈り取り、このように作り変えさせた。あの女が作ったものはすべて、当人同様、醜くてかなわぬ」
紅雪の隣で、猿ぐつわをされた夕顔が、声にならない声で何かを喚いた。
(あの女って……麗のこと?)
彼女は、綾の実の姉であるはずだ。その姉から王位を簒奪したのみならず、このように悪し様に言うとは、よほどの確執があったに違いない。
「あの女に仕えていた者たちも、皆、斬って捨ててやった」
綾は楽しげに語る。
「中には、わらわにすり寄り、寝返ろうとした者もいた。そのような者たちの、媚を売るさまの何と醜いことか。無論、斬り捨てた。東雲のように、最後まであの女に忠誠を誓い、わらわに楯突こうとした山箭どももいた。そういった者たちは、手ずから首をはねてやった。ただ一人だけ───」
綾が、何も言わずに手のひらを上へ向けた。
そのほっそりとした手に、山箭がうやうやしく刀を乗せる。
「───ただ一人だけ、あの女に仕えていた山箭に、わらわのそばに仕えることを許した。あの者は美しかったし、何より、わらわが一番欲しかったものをくれたから。だというのに、だ。まこと、恩知らずも甚だしい」
すらりと刀が抜かれる。
まっすぐな刀身は美しく、篝火の光で白く輝いた。
「気に入らぬな」
綾は、紅雪の鼻先に刃を向けた。
「その目つきだ。それが気に入らぬ。もっと恐れろ。泣け、喚け。わらわを畏怖せよ」
綾は刀の切っ先で、紅雪のあごを上げさせた。
すばやく、なめらかで、繊細な動きだ。刃が食い込んだ喉元から、わずかに血が伝い落ちる。
(お母さん、お父さん)
紅雪は死を覚悟して、ぎゅうっと目を閉じた。
泣くまい、震えまいとしていたが、もう限界だ。じわりと涙が滲む。
(雨星、あなただけでも、どうか生き延びて)
走馬灯とでもいうのだろうか、目の前をさまざまな思い出が行き過ぎていった。扇市での何気ない日々。楽しかったこと。笑いあったこと。愛する家族。いつも隣にいた雨星。互いに髪を編んだこと。雨星の、柔らかい、赤みがかった茶色の髪。
赤い髪。
孔雀石のような、緑の瞳。
(理生)
喉がひくりと引き攣った。涙が溢れる。
(助けて)
刀を振るうにつれて、綾の豪奢な衣が、ばさりと翻った。
刃は過たず、紅雪の首を───。
「ぎゃあ!」
ふいに響き渡ったその悲鳴が、自分が上げたものであると紅雪は思った。
だがしばらくして、そんなはずはないと思い直し、ぱちりと目を開けた。
「え?」
目の前の光景に、思わず唖然とする。
何が起こったのか、すぐには状況をつかめなかった。それは山箭たちも同じだったようで、揃って凍りつき、すぐには動けずにいる。本来であれば、真っ先に動き出し、空から落ちてきた人物に下敷きにされた女王を、その者の尻の下から救い出すべきであったろうが……。
「いたた……」
その人物は、場違いにのんびりとうめいた。
「おのれ……!」
その下敷きになっている女王もまた、忌々しげにうめいた。
「何をしておる!早う助けぬか!」
綾の金切り声に、山箭たちが我に返るよりも先に、紅雪は動いていた。
さっと立ち上がり、
「今よ、雨星!走って!」
彼の名を呼ぶとともに、走り出す。
慌てて起き上がった雨星は、駆け出した。その後を追って、夕顔もまた走り出す。
庭を囲む回廊には手が届かないが、小柄な人物であれば、土台部分に潜り込むことができた。当然、どこへ続いているのかなどわからなかったが、柱と柱の間を縫うように、三人はがむしゃらに床下を進んでいった。
「え?こ、紅雪?」
まだ置かれている状況がわかっていないのか、雨星が戸惑いの声を上げた。
「死にたくなかったら走って!」
振り返ると、維人を含む、数人の山箭が後を追ってきているのが見えた。
やがてその、真っ暗な床下を抜けると───。
「ここは……」
石積みの塀で囲まれた、開けた場所だった。
周囲にはたくさんの篝火が焚かれ、石で設えられた、立派な祭壇のようなものが奥に見えるだけで、他には何もない。
(行き止まり?)
「そんな」
紅雪は、肩で息をしながらうめいた。
(ここまで来て……)
山箭たちが、ぬるりと背後からあらわれる。
彼らは次々に刀を抜き、ゆっくりと紅雪たちのほうへと近づいてきた。
「もう諦めなさい」
これで終わりです、と、維人がため息交じりに告げた。
わずかに後退った紅雪をかばうように、人影が前へと出る。
篝火に、見慣れない衣をまとう、見慣れた人物が映し出された。雨星だった。いつも紅雪にかばわれてばかりだった彼が、今は彼女を背にかばっていた。
「狙いはわたしだけのはずだ。彼女たちを殺す必要も、意味もないだろう」
「それは……」
維人が、苦々しげに顔を歪める。
その言葉を継いだのは、女の声だった。
「意味ならあるわ」
回廊を通り、悠々とあらわれた彼女は、軽い動作でその上から飛び降りた。
夜闇のような濃紫の長衣が、風をはらんでふわりと膨らむ。
片手に刀をだらりと持ち、小首を傾げて女王は笑った。
「おまえたちを殺せば、わたしがすっきりするのよ!」
**
「おまえたちを殺せば、わたしがすっきりするのよ!」
今だ、と理生は思った。
同時に、屋根の上から跳躍しつつ、宙で刀を抜く。やや下方からは、冬来が同じように刀を抜き、二人は打ち揃って───綾へと斬りかかった。
だが。
「……!?」
刃と刃がぶつかり合い、弾かれる。
綾は、こちらを見ていなかった。大きな隙。完全な不意打ちだったはず。ましてや理生と冬来は、二方向から同時に斬りかかったのである。にもかかわらず彼女は、それらを軽々と防いだのだった。───まるでそうなることを、知っていたかのように。
(でたらめだ)
理生は毒づき、一旦引こうとした。だがその腕を、すばやくつかまれる。
細腕からは想像もつかないような膂力で、綾が理生の腕をつかんでいた。
「久方ぶりだというに、すげない挨拶よのう。理生」
綾は彼の手をつかんだまま、にたあと笑う。
その笑みに嫌なものを感じ、手を振りほどこうとした理生に、
「伏せろ!」
冬来が叫び、問答無用で彼の足を払った。
頭上を別の山箭が振るった刀が通り過ぎ、助けられたのだと知る。ようやく自由になった体で、理生は飛び退き、大きく距離をとった。浅く息をして呼吸を整え、短く告げる。
「───悪い。遅くなった」
紅雪は、泣いていた。
彼女はぽろぽろと涙をこぼしながら、理生、と彼の名を呼んだ。たったそれだけで、ここへ来た意味はあったと、理生は思ったのだった。
「維人!」
女王が、数人いる山箭のうちの一人に命じた。
「そいつらを殺せ!」
理生と、理生が背後にかばう者たちを指してのことだ。
維人は、何かもの言いたげに口を開けたが、結局口答えはせずに、女王の命令に従った。刀をまっすぐに、理生へと向ける。
「おまえまで……!」
維人は歯を食いしばり、理生をにらみつけた。
そして、彼に弁解の余地を与えることなく、斬りかかってきた。
片腕とは思えぬ動きだ。利き腕を失った後も、鍛錬を欠かさなかったのだと理生は思った。剣戟をさばきながら、「下がれ!」と、紅雪たちに叫ぶ。だが、すぐ後ろは石塀である。理生が舌打ちした、その隙を狙い、続けざまに斬撃が来た。彼はそれをいなしながら身を低くし、すばやく短刀を抜くと、維人のあごの下からそれを突き上げた。
「ッ!」
大きくのけぞり、維人は距離をとる。
お互いに肩で息をしつつ、向かい合った。
「なぜあの男に味方する」
維人が問う。
「あ?」
「あの男は、慶を───仲間を殺したんだぞ。ぼくたちを裏切った。信頼を踏みにじったんだ!なのに、なぜ」
「味方しているわけじゃない」
利害の一致だ、と理生は吐き捨てる。
「ふざけるな!」
維人は激昂した。
「おまえはいつもそうだ!ふざけた態度で、まわりを困らせて楽しんで、かき乱して───そういうところが、ずっと嫌いだった!」
「そうかよ。珍しく気が合うな!」
同時に跳躍し、ぶつかり合う。
鍔迫り合いし、離れる。
「たしかに、おれはいつもふざけてるよ。けど少なくとも、おまえよりは山箭のことをわかってる」
「何だと?」
維人が不快そうに顔を歪めた。
「慶もそうだったはずだ」
「その口で慶を語るな……!」
維人のうなり声を無視して、理生は続ける。
「ただ盲目的に、女王に仕え、上役の命令を聞くことだけが、山箭の仕事じゃない。おれたちは駒だが、考える駒だ。そうあれと、おまえも教えられたはず」
「それが何だ!」
維人は叫び、山箭刀を振りかぶった。
理生はそれを迎え撃つのではなく、前へ出て、保身を考えぬ動きで以て、先に攻撃へと転じた。ぎょっとする維人の喉首へ、斬りつけるのではなく飛びつき、前腕を押し込んで、彼の体を石塀に強く押しつけた。
「……!」
「なぜ、慶が最初に殺されたと思う。あいつが、おれたちの中でもっとも考える駒だったからだ。あいつはたぶん、冬来を疑っていた。だから真っ先に殺されたんだ」
「黙れ……!」
「おまえが冬来を殺したところで、それは慶の復讐なんかじゃない。おまえは、信じていたのに裏切られたと、泣き喚いているただの子供だ。おまえが抱えているそれは、義憤なんかじゃない。ただの子供の癇癪だ」
「黙れ!」
「本当に大切なことは何なのか、考えることをやめるな。楽なほうへ進むな。誰かに選択を任せるな。苦しんで、悩んで……仕える相手は自分で決めろ。その誰かのために死ね。それが山箭というものだ!」
「うるさい、うるさい!黙れ!ぼくは……!」
理生は黙って、腕に力を込めた。
維人はしばらくもがいたが、やがて力を失い、がくりとうなだれた。完全に気を失ったことを確認し、理生は、支えを失って倒れ込む維人の体を受け止めると、静かに地面へ横たえてやった。
「いてえ……」
クソ、と毒づく。
先ほど突っ込んでいった時に、二の腕あたりを斬られたのだ。痛みをこらえるように深く息を吐き、理生が顔を上げたところで、
「───冬来!」
悲鳴が聞こえた。
雨星の声だった。
**
「そいつらを殺せ!」
女王が叫ぶ。
その彼女に肉薄していくのは、間違いなく冬来だった。
(どういうこと?)
わけがわからない。そもそも、紅雪が理生と呼んだあの赤毛の男は、女王の命令で雨星を殺そうとしていたはずだ。それがどうして、突如あらわれ、冬来と共闘し、女王と戦っているように見えるのだろう?
地面を這うがごとく、低い姿勢で綾へと迫る冬来。
刀を振り抜くが、軽く避けられる。動きづらそうな長衣をまとっているにもかかわらず、綾の動きにはまったく無駄がなく、洗練されていた。
「あはは!」
綾は、聞く者をぞっとさせるような、狂気じみた笑い声を上げた。
そして、髪に挿している翡翠のかんざしを一つ、すいっと抜くと───バキンと音を立てながら、それを噛み砕いたのである。
(まさか)
綾の立ち姿が陽炎のように揺らいだ。
雨星は、冬来に向かって思わず叫んでいた。
「それは割符だ!彼女はここの未来を見てる!」
冬来の答えはない。その余裕がないのだ。
彼は一切のためらいなく、綾の立ち姿を袈裟斬りにした。だが、刃は空を切る。
次にあらわれた時には、二人の山箭と挟み撃ちにする形で、綾は冬来に斬りかかっていた。
「ははっ!」
綾が笑う。三方向からの攻撃。
冬来はやや迷いを見せたものの、右手にいる山箭に向かって刀を大きく振り抜き、挟み撃ちを脱した。斬られた山箭は大きくのけぞり、刀を取り落した。それは地面を転がり、雨星たちのすぐそばまで。
冬来は跳躍し、いくらか距離をとった。
山箭は残り一人となったが、女王は再びかんざしを抜いた。
「許さない」
彼女は笑っていた。
その目は、高揚と憤怒でぎらぎらと輝いていた。
「おまえだけは、この手でずたずたにしてやるわ」
バキン。
割符を噛み割り、地を蹴る。その姿が揺らぎ、消失する。
冬来が舌打ちする。その逡巡の間に、山箭が向かってきた。冬来はそちらに顔も向けずに、太い針のようなものをすばやく投げつける。それが太ももに突き刺さり、がくりと体勢を崩す山箭。そこへ追撃しようとした冬来は、何かに気づいて天を振り仰いだ。
尋常でない速さの一撃が、頭上から振り下ろされる。綾だった。
冬来はかろうじて刀を掲げ、その一撃を防いだが、体勢を崩し、そのまま背後に倒れ込んでしまった。
「冬来!」
たまらず、駆け寄ろうとした雨星のその手を、誰かがつかんだ。
はっと振り返ると、紅雪と一緒にいた老女が、鬼気迫る表情で彼の手をつかんでいた。よしなさい、と彼女は言う。
(でも)
冬来は、全身をばねのようにして跳ね上げ、身を起こすとともに、綾に向かって蹴りを放った。しかし彼女は、その行動をわかっていたかのように軽くかわし、鋭い突きを繰り出す。冬来がかろうじて首を捻っていなければ、その刃は彼の喉を突いていただろう。
綾は片手で次々にかんざしを抜き、噛み割りながら、斬りかかってくる。
息つく間もなく、正確無比な攻撃を加えられ、冬来は防戦一方となっていった。
綾が哄笑する。
だが、手は止めない。あるだけの割符を使いながら、刀を振り回してくる。冬来の攻撃は、先を読まれているのか、ほとんど通らない。代わりに、綾の先見の刃が、どんどんと彼の体を斬り裂いていった。まさしく先ほどの言葉どおり、綾は、冬来をずたずたにしているのだ。
(冬来……!)
血飛沫が舞う。
少しずつ少しずつ、削られていく。
「───」
冬来の刀が、今までになく大きく弾かれ、隙が生まれた。
綾は、手の中でくるりと刀を持ち替えると、逆手に、彼の太ももへとそれを深く突き立てた。声にならない叫び声が、冬来の口から漏れる。
「うふ」
綾は口元をほころばせた。
膝をついた冬来を見下ろし、一息に刃を引き抜く。
そして、痛みに顔を歪めながらも刀を振ろうとする彼に、強烈な蹴りを食らわせた。冬来は吹っ飛び、やや離れたところへ倒れる。地面にはすぐさま血溜まりができあがった。
「なぜなの?」
綾は子供のような口調で語りかけながら、ゆっくりと、彼へと近づいていった。
「なぜ、わたしを置いていくの?おまえはずっと、わたしのものだったのに」
冬来は答えず、代わりに、落とした刀へと手を伸ばした。
その手を綾が踏みにじる。
「誰なの?誰が奪ったの?誰がおまえを、わたしから───」
さまよわせた視線が、ぴたりと、ある一点で止まる。
雨星のところで。
「おまえ?」
こぼれ落ちんばかりに大きな目で雨星を見つめ、綾は小首を傾げた。
ぞくりとして、雨星は一歩後退る。
「やめろ……」
「お黙り」
綾は冷ややかに言い放つと、逆手に持ったままの刀で、冬来の背中を刺し貫いた。
雨星は息を呑む。冬来の体は一度、びくんと跳ねた後、動かなくなった。やめて、と雨星は声を震わせた。もういいから。もう戦わないで。
「その目」
綾がぽつりと言う。
「姉さまにそっくりだわ。顔も、髪も、全然似てないのに」
ゆっくりと近づいてくる。
おそらく、あと数歩で間合いだ。
「どうしてかしら。どうして、おまえみたいな弱っちいのが、わたしのことを殺す未来なんて見たのかしら。不思議だわ」
今となってはどうでもいいけど、と彼女は微笑む。
「おまえという名の災いを、今ここで取り除いてあげる。これでもう、わたしの未来を脅かす者などあらわれない。すべては、わたしのも───」
不自然に言葉が止まる。
綾は恐ろしくすばやい動作で、振り返りざま刀を薙ぎ払った。
鮮血が飛散する。
雨星の顔や、体にも。
「え?」
そうつぶやいたのは、綾だった。
「なんで?」
「終わりだ、綾」
その彼女の向こうで、答えを返したのは、冬来だった。
前身頃をばっさりと斬られ、口から血を吐きながも、冬来は立っていた。
彼のまっすぐに伸ばした腕の先───刀は、綾の胸元を刺し貫いている。
銀色の切っ先が、彼女の背中から飛び出ていた。ちょうど、心臓のあたりだ。美しい衣が、瞬く間に血に染まっていく。
「ふ」
その言葉のみをつぶやき、彼女は、口からごぼりと血を溢れさせた。
二人が地に倒れたのは、ほぼ同時であった。
「───冬来!」
雨星は悲鳴を上げて、転がるようにして彼に駆け寄った。
顔を上向かせ、何度も何度も呼びかける。
「冬来」
雨星の目からこぼれた涙が、冬来の血だらけの頬を濡らした。
汚れるのも構わず、袖で、その顔の血を拭ってやる。
「わたし、王になるよ」
雨星は言った。
「あなたが望むなら、王にだって、何だってなるから。だから、お願い。お願いだから、死なないで」
「───王になんか、ならなくていい」
雨星ははっとした。
弱々しいかすれ声だったが、それは、たしかに冬来から発せられたものだった。彼は雨星を見つめていた。とても優しい目だった。
「王になんか、なるな」
なんで、と雨星は声を詰まらせる。
「あなたは、だって……わたしを、王にしたかったんじゃないの?だから、こんなにまでして……」
「それは、目的じゃなく、ただの手段だ」
冬来は激しくむせて、血を吐いた。
背後にいた理生が、もう喋るなと言ったが、構わず彼は続けた。
「おれは、ただ、おまえが無事に生きられるなら、何でもよかった」
「どう……」
どうしてなの。
なんで、あなたは、そんなにも、わたしを。
雨星の涙を拭おうとでもしたのだろうか、冬来がわずかに手を動かした。届かずに力を失ったそれを、雨星は代わりにしっかりと握りしめた。
「……痛いところは、ないか?」
冬来の問いかけに、雨星は言葉を失った。
それを───あなたが聞くのか、と。
「ない」
あるわけないよ、と雨星は何度も首を振る。
「あなたが守ってくれたんだから」
「そうか」
冬来は安心したようにつぶやき、
「王になんか、ならなくていい。好きなところへ行って、好きに生きろ」
かすかに微笑んだ。
そこにいたのは、あの時の少年だった。
雨星の手を引いて、この国の美しい景色をたくさん見せてくれた、生意気で、でもとても優しい少年。
「あの時、どこにも行くな、なんて、わがままを言ってごめん。もう、そんなこと、言わないから。おれはもう、ついてはいけないけど、おまえが幸せに生きることを、ずっと、ずっと、願って……」
「あなたがいなければ、どこに行ったって意味がない!」
雨星は絶叫した。
閉じられてしまったまぶたを、指でなぞる。
「どこで生きたって、幸せになんかなれない。あなたの命と引き換えなんて、わたしはそんなの望んでない。王になるのも、家に帰るのも、あなたが生きてそこにいないなら、わたしは……」
「雨星」
紅雪が、優しく肩をさすってくれる。
(こんなの嫌だ)
冬来。
あなたを守れなかった。
(こんなの……)
**
(嘘だろ)
理生は呆然と立ちつくした。
(冬来が死んだ?)
あの、冬来が?
悪い冗談だとしか思えなかった。
雨星の腕に抱かれ、ぴくりとも動かない血まみれの男は、別人のように見えた。青白い顔をした別人だ。でたらめに強くて、いつも何を考えているのかさっぱりわからなくて、女王に贔屓されている、金魚のフンみたいな男。理生の目に映る冬来は、ずっとそんな男だった。気に食わなかった。目障りだった。でも。
(本当は)
愛する者のために、命ですらかなぐり捨てることができる男だった。
(馬鹿じゃねえのか)
今死んでどうする。
全部、これからだろうが。
理生は拳を握りしめた。
そして、こちらへと近づいてくる人の気配に気がついた。
(他の山箭たちか?)
もし山箭だとしたら───状況としては、あまりよくない。
いくら綾が横暴な君主だったからと言って、後ろ盾もなしに女王を弑した形となる雨星が、次の王となるのは容易なことではない。綾が麗を殺して王になれたのは、あくまでその時点ですでに、麗が失政したと判断されており、それと同時に、綾が多くの家臣を籠絡していたからだ。
麗は、国財を、貧しい民を救うために使った。
また、割符を用いて中王国との交易を行おうとした。
それらすべてを不満に思う家臣たちが多くいたことは事実で、先見の力のほとんどない麗を、女王不適格だと糾弾する声もあったのだ。
綾はそこをついた。
そういった不満を抱える、影響力の強い家臣たちを籠絡し、王位を簒奪した。彼女は、人の心の弱いところをつき、操るすべに長けていたのである。
理生は舌打ちし、
「ひとまず、ここを離れよう」
と提案した。だが、
「冬来を置いていけない」
雨星が頑として離れようとしなかったのである。
そして、雨星が動かないとなると、紅雪も動かなくなってしまう。
「まずいんだって。人が近づいてきてる。一旦この場を離れて、様子を見てから……」
「あなたたちだけで逃げて」
雨星は、三人を順に見て言った。
「わたしはここに残る」
「だめよ、そんなの!」
「雨星さま、ともに逃げましょう」
このままじゃ埒が明かない。死んだ冬来のためにも、どうにかして雨星を説得しなければならないが、理生にはどうすればいいのかわからなかった。
せめて紅雪だけでも、と思い、彼女の腕をつかむと、振り払われた。
「嫌よ。雨星も一緒じゃなきゃ、あたしは───」
「行って」
「だめだってば。あなたも行くの!」
(もう、めちゃくちゃだ)
「───動くな」
あーあ、と理生は思った。
これで終わりだ、反逆罪に問われて殺される、と。
抵抗の意志がないことを示しながら、ぐるりとまわりを見回した理生は、訝しげに眉をひそめた。
(ん?)
彼らを取り囲んでいたのが、山箭ではなかったからだ。
王族を守る私兵ではなく、国を守る軍兵だ。
(どういうことだ?)
困惑する理生の前を、翡翠色の衣をまとった初老の男が、ついと通り過ぎていく。
周囲の惨状を見回しながら、女王の亡骸に目をやり、最後に、雨星の腕に抱かれた冬来へと。遅かったか、と彼は言う。
「すまなかった」
男は、雨星と目線を合わせる形でかがみ込んだ。
「わたしが娘を止められなかったばかりに、冬来にすべてを背負わせてしまった。彼が死んだのは、わたしのせいだ」
わたしは名を資朗という、と男は名乗った。
翡翠色の衣。その名前。理生はようやくこの男が、符官である、と思い至った。
(娘───綾の父親か)
「きみが雨星だね?」
資朗は優しく問いかけた。雨星がぼんやりとうなずくと、彼は続けた。
「わたしは、きみの母方の祖父だ。助けに来るのが遅くなってしまったことを、申し訳なく思う。だが、きみのことに関してだけは、間に合ったようだね。───わたしは、きみのことを、麗に任されていたんだよ」
符官とは、代々の王族男子が務める役職で、適当な男子がいない場合は、王配がその役目を務める。資朗は真子の王配で、麗と綾の父親だった。本来であれば、割符に関する権力を持ち、女王による圧政などがあった場合、それに対して諫言するのが符官である。
だが資朗は、綾を止めることができなかった。
結果として、二人の娘を失った。
(だが、符官としての立場だけを見れば)
彼が雨星の血筋を認めれば、大きな後ろ盾になりうる。
しかも雨星は、死んだと思われていた、先代女王の子なのだ。その子が、横暴な女王を打倒し、見事に母親の復讐を果たしたのである。何というか、それはとても───劇的である。家臣のみならず、民の心をもつかむだろう。
「こうなってしまった時には、きみに力を貸してやって欲しいと、麗には言われていた。もちろん、そうならないことを願っていたがね」
資朗は、呆然とする雨星にそっと手を差し伸べた。
「わたしとともに行こう。綾に仕えていた山箭たちは、我々が掌握した。きみは───いや、きみたちはもう、安全だ」
雨星は資朗の手を見つめたのち、冬来へと目線をやった。
そして……。




