第八話 謁見
3
「もうひと踏ん張りよ!」
パンパンと女中頭が手を叩く。
部屋にいた全員が、顔を上げて彼女を見た。その中には、雨星も含まれていた。
「明日の朝の鐘までに終わらせること!頑張って!」
それを聞き、天を仰ぎ見る者が数人。がっくりとうなだれる者が数人。すぐさま手元を動かし始める者が数人。雨星はそのどれでもなく、しばらくの間ぼうっと正面を見つめる者、であった。
「雨星!手を動かしなさい!」
女中頭は、そう叱りはするものの、語調は荒くない。
なぜなら、雨星の異様なまでの手の速さのおかげで、すべての作業に終わりが見えてきているからであった。
美しい山吹色の絹地に、獅子の文様を刺していく。初めて見た図案だったが、何てことはない、今まで刺してきた数々の文様に似たところがある。さほど複雑ではなかった。すさまじい速さで針を動かしつつ、雨星はしかし、まったく別のことを考えていた。
(あんなことを言うべきではなかった)
はあ、とため息が漏れる。
(彼は、冬来は、望まない場所で、必死になって生きようとしていた。母親を愚かだったと自分に言い聞かせることは、きっと、そのために必要なことだったんだ。結果的にわたしがしたのは、彼を責め立てるようなことだった)
会って、謝りたい。たった一言、ごめんと伝えられれば、それで。
そんなことを考えながら、ひたすら針を動かし続け───明朝。
清々しい朝であった。
小鳥が鳴く爽やかなあけぼのに、しかしながら、元気に起きている者は、この針子部屋において誰一人としていなかった。精根尽き果てた女中たちが、死屍累々とばかりに畳に転がっている。雨星もまた例外ではなかった。
ひんやりとした畳に頬をつけ、うとうとしていると、
「───おい」
すぐそばで声がした。
夢うつつに、誰だろうと思いつつも、目は開かない。
「おい、起きろって」
二度目の呼びかけに、ようやくはっと目を覚ました。
ほんの少し居眠りしていただけかと思っていたら、昇ったばかりだったはずの太陽がいつの間にか、中天に近くなっている。空は高く、青く、雲一つなく晴れていた。
「……?」
頭がまったく回らないまま、身を起こした。
目をこすりつつ、声の聞こえたほうを振り返る。そばにかがみ込んでいる人物を見て、雨星は「あ」と声を上げた。
「冬来」
彼は同じ黒装束ではあったが、今は、細い手足に手甲と脚絆をつけていた。顔はすっかり腫れが引き、あざもない。幼いながら、整った顔立ちをしている。
「冬来、よかった。わたし、あなたに会って謝りたくて……」
慌てて言いさした雨星の口を手で塞ぎ、冬来は「シー」と指を立てた。
そうだった、と雨星は思った。部屋中に、健やかな寝息を立てる女中たちが転がっている。起こしてはかわいそうだ。
冬来は雨星の手をつかみ、小声で言った。
「来い。いいもの見せてやる」
「……?」
手を引かれるがまま、部屋を出て、足音を立てぬように廊下を進む。
これまでのてんやわんやが嘘のように、すべての部屋がしんと静まり返っていた。
そんな中、遠くから楽の音のようなものが聞こえてくることに、雨星は気がついた。
(?何だろう)
ふと、冬来が立ち止まる。
かと思うと突然、ひょいと跳んで庇に手をかけ、屋根の上へと駆け上がった。驚く雨星に、彼は手を差し伸べて、
「来い!」
と呼んだ。
「───」
雨星は目を見開いた。かつて、同じ言葉を言われたことを思い出したのだ。
その時も、彼は手を差し伸べていたように思う。だが雨星は、嫌だと答えて、はねつけた。けど、今は。
「───うん」
雨星はうなずき、その手をしっかりとつかんだのだった。
だがそう簡単にはいかず、腕と帯を引っ張ってもらい、どうにかこうにかしてようやく屋根の上へと上がった。よろめきながら立ち上がると、頭上は風が強いのだと知った。衣の裾を激しくあおられて、足元をすくわれそうになる。
(ちょっと怖いな……)
「見ろよ」
冬来は再び、雨星の手を引いた。
その手にしがみつくようにしながら、雨星はおっかなびっくり前へと進んだ。そして、彼が指し示す方向を見る。
「あれは……」
たくさんの花びらが舞っているのかと思った。
だが、すぐに違うとわかった。
花びらではなく、落葉だ。
銀杏や、楓、錦木、桜の葉も。
真っ赤に色づいたもの、優しい黄みを帯びたもの、いまだ緑も鮮やかなもの───おびただしいまでの数の木の葉が、強い風に舞い飛んでいるのだった。
眼下に見える広場は、今や、錦の色に染まっていた。
もっとも高い位置に壇があり、それと向かい合うようにして、ずらりと、大勢の人々が並び立っていた。皆、深い緑や、渋い赤を重ねたような衣を身にまとっている。
「このために苦労したのに、見られないなんて、もったいないだろ?」
冬来は雨星を見て、笑った。
「即位式か」
これが、と気圧されたように、雨星はつぶやく。
遠目に見てもわかる、この人の数。ものすごい迫力だ。
彼らの見つめる先、壇上では、二人の人間が向かい合っていた。
翡翠色の衣に身を包む男が、手に何かを掲げ持っている。
そして、その前にひざまずいているのは……。
(あの、山吹色の衣は)
雨星は、胸が熱くなるのを感じた。
黄よりも鮮やかな絹の上に、流麗な獅子の文様───間違いない。あれは、雨星が刺繍したものだった。
それを身にまとい、髪を高く結い上げ、たくさんの翡翠のかんざしを挿した女がいた。
その後ろ姿を見て、雨星の心臓は壊れそうなほどの早鐘を打った。
(ここが、過去なら)
今まさに、即位せんとしている、あの女王は───。
「女王陛下の、御成り!」
広場に高らかな声が響く。
裾の長い衣を潔く翻しながら、女王は立ち上がり、居並ぶ者たちを振り返った。一歩前進し、大きくその場を見渡す。
秋の陽光に照らされたその姿は、すらりとしていた。
そして若い。十五、六の、若い娘に見えた。
「今上陛下、麗さまであらせられる!」
さざなみのような音を立て、居並ぶ人々が頭を下げた。膝を折り、深く。
楽の音が高く鳴り渡る。
(お……)
雨星は唇を震わせた。
(おかあさん)
目頭が熱くなり、喉が詰まった。まさか、こうして、その姿を目にすることができるなどとは、微塵も思っていなかった。ただの女中として、同じ場所にいられるだけでいいと思っていたのだ。この時代で、元気に生きてくれているのだとわかれば、それでよかった。
ずず、と鼻をすする雨星を、冬来がぎょっとした顔で振り返る。
「あんた、また泣いてんのか」
「ごめん……」
うう、と顔を覆う雨星。
「別にいいけどさ……」
「ありがとう」
雨星は、泣きながら微笑んだ。
「ありがとう、冬来。わたしを、ここに連れてきてくれて」
冬来は目を丸くした。
「大げさだな」
「いや。わたしにとっては、とても大事なことなんだ」
すると、冬来は皮肉っぽく、唇の片端を吊り上げた。
「たくさんある、大事なことのうちの一つ?」
「それは……」
そこでようやく、雨星は、冬来に会いたいと思っていた理由を思い出した。
「あの時はごめん。考えなしだった。わかったような口をきいて、嫌な思いをさせただろう。本当に、ごめんなさい」
雨星が深く頭を下げると、彼は、「いいって」と口にした。
そして、いつまでも頭を下げ続ける雨星の頬を手挟み、顔を上げさせた。
「会いに行かなかったのは、怒ってたからじゃなく、考えてたからだ」
「考えてた……?」
うん、と冬来。
「あんたにあの時、ああいうふうに言われて、がつんと頭をぶん殴られた気がしたんだ。母親のことを、ずっと、くだらない女だと思ってた。まわりもみんな、そう言ってたし。人を愛することって、身を滅ぼすような恐ろしいことなんだなって、子供ながらに思ってさ。───でも、生まれてはじめて、そうじゃないのかもって考えたんだ」
少し、気恥ずかしげに喋る冬来。
そんな彼を、雨星は正面から静かに見つめた。
「母さんは、もしかしたら、おれを愛してたのかもって考えてみた。そうしたら、色々思い出したんだ。ずっと忘れてたこと。笑った顔とか、優しい声とか、抱きしめてくれたこととか。ずっとわからなかったけど、もしかしたらあれが、愛されてるってことだったのかなって、そう思ったらたまらなくなって。だから───……」
冬来は、驚いたように言葉を止めた。
雨星が、強く、彼を抱きしめたせいだった。父が、親友が、叔母が、いつも雨星にそうしてくれたように。
「また泣いてんのかよ」
耳元で冬来が言う。とても優しい声で。
彼はずっと、獣のように毛を逆立てて、自分を大きく、強く見せようと生きてきたに違いない。それは他者を威嚇するためでもあったし、自分が世界に立っているためでもあった。強さだけが、彼を生かした。他の誰も、彼を守ってくれなかったからだ。
(あなたは人間だ)
ずっと、冬来のことがわからなかった。
それこそ、獣のようだとも思っていた。でも。
(あなたは、優しい人間だ)
「ひどい顔だな」
呆れたように言いながら、冬来は、雨星の顔を袖で拭いてくれた。これではどちらが子供かわからない。
「まあ、でも───」
冬来はからりとした声で言い放った。
「ますます山箭になる気はなくなったけどな!」
「え」
冬来は、にっと笑った。
「このまま、タダ飯食らいで生き延びて、一人でやっていける歳になったら、ここを出てってやるんだ。誰かのために命を懸けるとか、体を張るとか、がらじゃないし。おれはもっと自由に生きていきたい」
これってもしかして、と雨星は思った。
(わたしの言葉で、過去を、ひいては未来を、変えてしまったのでは?)
いや、でも、と思い直す。
それでも構わない。冬来の人生は冬来のものだ。雨星がどうこうできるものではない。していいものでもない。たとえそれによって、今に戻った時、状況が変わっていようと、それはきっと仕方がないことなのだ。
「あんたはどうするんだ?」
唐突に聞かれて、雨星はきょとんとした。
「どうするって、何が?」
「このままずっと、針子女中としてここで働くのか?」
それもいいな、と雨星は思った。もし、それが許されるのなら。
(でも)
紅雪を見つける。必要なら助ける。そして───終わりにしなければ。
雨星は、さみしげに微笑んだ。そして、冬来の問いに答えることはなかったのだった。
**
その時は突然訪れた。
「雨星!」
血相を変えて広間に飛び込んできたのは、女中頭だった。
「?え?」
膳を前に、今まさに白飯を口にしようとしていた雨星を立たせると、彼女はずんずんと廊下を歩いていく。どこへ向かうのかと思えば、支度部屋である。女中たちが、着替えや、化粧をする場所だ。もちろん、雨星は入ったことがない。
「?何が……」
「お召しがあったわ」
女中頭は、興奮した様子で言う。
「へ?」
「女王陛下が、あなたに、会いたいっておっしゃっているのよ!」
口から変な声が飛び出た。
女中頭が言うには、私的な場での衣───要は部屋着として作られたあの山吹色の衣を、女王はいたく気に入り、儀式に用いた。そして、刺繍を入れた者にぜひ会いたいと言っているのだという。つまりは、雨星だ。
「いや、無理だ!」
雨星は悲鳴を上げた。
「どうしてよ。大変に名誉なことよ。うまくいけば、お抱えの針子に指名されることだって夢じゃない。行ってきなさいよ」
「無理だ、そんなの。心の準備が……」
「何をごちゃごちゃと。そもそも、断れるわけがないでしょう。女王の命令なんだから。さあ、わかったならさっさとこれに着替えて」
「わ、わかった。わかったから」
雨星は慌ててうなずき、女中頭から衣を奪い取った。
「一人でできる。支度するから、一人にして欲しい」
「そう?」
わかったわ、と意外にもあっさりと女中頭は引き下がった。
薄暗い支度部屋で一人きりになり、雨星はへなへなとその場にへたり込んだ。
(女王が、わたしに会いたい?つまり、母に会えるということ?)
どうやって支度し、どこをどう歩いたのか───。
それ以降の記憶があまりない。
気がつくと雨星は、奥座所、つまり、謁見の間の前にいた。
ここで待てと言われてから、かなりの時間が経っている。
鼓動が休まらない。手足が冷えて、冷や汗が出て、感情がごちゃまぜになって、考えが頭の中をぐるぐると回り続けている。
(形としては、ただの下級女中が、女王に謁見するというだけのことだ。母は、わたしのことを知らない。わたしが誰で、なぜここにいるのかも……)
やがて、廊下の向こうから、衣擦れの音を立てて女たちがあらわれた。
女王が着ていたような、裾を引きずる長衣を身にまとっている。身なりからして、侍女たちだろう。
「女王陛下がお呼びです。入りなさい」
戸が、ゆっくりと開け放たれる。
そこには、小さな入口からは想像もつかないような、広い空間があった。
あまりにも広々としているため、灯火が隅まで照らしきれず、闇がこごっている。獅子の紋を織りだした、白い帳が壁面を覆っており、かすかな風に揺れていた。鏡のように磨かれた板張りが、灯火をまぶしいほどに照り返している。
薄暗く、しんと静かであったが、不思議と恐ろしくなかった。
帳の隙間から吹き込む、秋の夜風が、大層優しかったからかもしれない。
「お召しにより、まかりこしました。……雨星と申します」
教えられたとおりに、深く頭を垂れ、挨拶した。
「うむ。近う」
軽やかな女の───少女の声が、それに応えた。
近くに寄れと言っているのだから、前を向いても構わないだろうと思い、雨星は恐る恐る顔を上げた。
中央にぽつりと座っていたのは、やはり少女だった。
その背後に、侍女らしき年かさの女が静かに控えている。
(このひとが)
栗色の髪を結い上げもせず、肩に流している。かんざしの一つすら飾らず、装飾品は小さな翡翠の耳飾りのみ。飾り気のない白い衣に赤い袴。まるで女中のような出で立ちだ。その上からかろうじて、細かな刺繍の入った、柔らかな橙色の長衣を羽織っている。とても一国の女王とは思えない、地味な装いだった。これでは、侍女たちのほうがまだ華やかに見えてしまう。
目鼻立ちの小ぶりな、決して美人とは言えない面立ちをしていたが、両の目は見るものを射抜くような強い輝きをたたえ、薄い唇は、自信に溢れた笑みを浮かべていた。
目を離すことができなかった。
初めて近くで目にしたその姿を、生きている姿を、目に焼き付けるかのように、雨星は女王、麗を見つめ続けた。
(母さん)
「どうした?早う」
彼女は、ちょちょいと手を動かした。
雨星ははっとして、そろそろと膝行し、平御座の手前で止まった。
「夕顔」
麗が、背後に控える侍女に何やら言いつけた。
するとその侍女が、さらに別の女に命じる。やがて幾人かの女たちが、衣桁にかけた鮮やかな色の衣を運んできた。それは、即位式で麗がまとっていた衣だった。山吹色の、獅子文様の長衣だ。
それを指し、彼女は雨星に問いかけた。
「これを仕立てたのはそなただと聞いたが、それはまことか?」
「は、はい」
雨星は思わずそう答えてしまい、慌てて首を振った。
「あ、違う。いえ、違います」
「違う?」
麗と、侍女の夕顔は、顔を見合わせた。
「そんなはずはない」
雨星は補足した。
「ええと、わたしが針を入れたのは、刺繍だけです。獅子の文様を入れたのは、たしかにわたしですが、仕立てたのは他のひとで、つまり、その……」
「なるほど」
麗はうっすらと微笑んだ。
「つまり、こういうことか?それぞれの工程で、多くの者が針を入れたゆえ、そなただけの力でできあがったものではない、と」
「は、はい。そうです」
「ふむ。であれば、このすばらしい衣を仕立て上げてくれた、針子部屋の皆に、こたびの褒美を与えることとしよう。それで構わぬか?」
「ありがとうございます……」
雨星が深く頭を下げると、麗は満足げにうなずいた。
とても年端もいかぬ少女とは思えぬ、堂々とした振る舞いであった。
それにしても、と、彼女は続ける。
「そなたの髪は、なんとも美しい色合いをしておるな。あれのようだ。ほら、あの、ちょうどこれからの季節によう見かける、小鳥の……」
「花鶏にございますな」
あやふやに手を動かす麗の背後で、夕顔がしたり顔で答えた。
「渡り鳥にて、これからの季節によくさえずっておりまする」
「そうそう、それだ。あの胸のところの羽が、赤橙で美しいだろう。その色によく似ておる」
「南方諸国の、ブリシェという国は、赤毛の者が多うございますよ」
ふうん、と麗はつぶやく。
「そなたはブリシェ人なのか?」
「わたしの、祖母が」
雨星はおずおずと答え、
「この耳飾りは祖母のもので、ブリシェの職人が───」
自身の耳に揺れる、紅玉髄の耳飾りに触れようとして、指先が空をかいた。
(あれ?)
ない。耳飾りがなくなっている。
あの時だ、と、雨星は思った。割符で新賜につながり、木の上から落ちた時。あの衝撃で、おそらくどこかへ吹き飛んでしまったのだろう。
「?どうした?」
「いえ」
雨星ははっとして、何でもありません、と言葉を濁した。
そうかと麗はうなずき、パンと扇を開き、口元に当てた。
「さて」
目元だけで笑んで、雨星を見る。
「面倒なことに、これから先も、儀式やら何やらが目白押しでな。わたしはあの衣を使い回すつもりだったのだが、そうもいかぬようなのだ。とんでもないと、皆に叱られてな。どうやら、儀式やら何やらのそのたびに、新たな衣装が必要となるようなのだ」
「?はあ……」
曖昧にうなずく雨星に、麗は苦笑し、「つまりだな」と言った。
「───わたしは、それらすべての衣を、そなたに任せたいと思っておる。よいな?」
よいか、ではなく、よいな、と。それは確認ではなく、命令だった。
雨星は息を呑んだ。
(それって、つまり)
お抱えの針子になれ、と言われたのだ。つまり、刺繍の腕を認められた。自分の一番好きなことを、これ以上ないというほどに、褒められたのだ。こんなに嬉しいことはない。幸せなことはない。そう思う一方で、でも、と雨星は表情を曇らせた。
(わたしは、ずっとここにはいられない。この時代の人間じゃないから。ここで生きているはずの人間じゃないから。わたしは───帰らなければ)
「ごめんなさい」
雨星は、深く、深く、頭を下げた。
額が冷たい床につくほどに。
「わたしには、そのお役目は、できません」
麗は大きく目を見開いた。
その背後で、何と、と夕顔が腰を浮かす。
「今、何と申した。よもや、陛下の命を聞くことができぬと、そう申したのか。そのようなことが、一介の女中に許されると……」
「夕顔」
麗が、すっと扇を掲げた。
彼女はたったそれだけで、気色ばむ夕顔を黙らせた。
「なにゆえか」
そう問いかけてくる麗の声は、驚くほどに優しい。
雨星が尋常でなく、切羽詰まった表情をしていたからかもしれない。ただごとではないと感じたのだろう。そこには、命令を聞けぬと言い放った雨星を責める響きは、微塵も感じられなかった。
「こんなことを言っても、頭がおかしいやつだ、と思われるだけだとわかってる。到底信じられないかもしれないが、わたしは……」
そこまで言って、雨星は言葉を止めた。
この期に及んで、これは話してもいいことなのだろうか、という疑問が浮かぶ。
(話したら、過去はもちろん、未来が変わってしまうかもしれない。取り返しのつかないことになってしまうかも)
麗は何も言わず、彼が再び口を開くのを待っていた。
(でも)
その目を見て、雨星は、応えたい、と思った。麗の優しさと、誠意に応えたいと。ゆえに、何度もつっかえ、何度も飲み込みながら、ようやくその言葉を口にした。
「───わたしが、あなたの息子だからだ」
パキパキ。
何か固いものに、ヒビが入る音がした。
雨星にはすぐ耳元で聞こえたが、その音は、麗や夕顔には聞こえていないようだった。
「無礼な!」
訝しげな顔をする麗の背後で、夕顔がさっと立ち上がった。
「陛下に対し、そのように奇怪な空言を口にするとは、この場で相応の罰があってもおかしくはない行いぞ!本来であれば、このような場に呼ばれるべくもない身分でありながら、陛下にそのような口をきくとは、不敬も甚だしい!」
そのように憤り、女たちを呼びつけ、雨星を追い出そうとかかる夕顔。
雨星は、どうにかして信じてもらいたいと話を続けようとしたが、うまく言葉が出てこなかった。話したいこと、言いたいことがたくさんあったはずなのに、頭が真っ白になって、何一つ出てこない。
(言わなきゃいけないのに)
焦るあまりに唇を噛む。
(あなたの妹が、あなたを殺すのだと。だから……)
だから。
「───聞いたことがある」
軽く扇を掲げ、鼻息も荒くする夕顔と、女たちを止めたのは、やはり麗だった。
「麗さま?」
夕顔が困惑した様子で問う。
「割符の力だろう?」
そうではないか、と、さらりと問いかけられ、雨星は息を呑んだ。
「───はい」
「やはり、そうか」
麗は納得したようにうなずく。
「即位するにあたり、歴代の王の覚え書きのようなものにまで目を通したのだが、その中に、『過去の王と対話した』と書かれたものがあった。書き綴ったのは、何代か前の女王の弟で、王族男子だ。その時は、どういうことかと思っていたのだが、よもや」
まことであったか、と。
「そのようなことが……?」
夕顔が、信じられないとばかりに声を漏らし、へなへなと座り込んだ。
「割符を用いて、女王が先見をするという───それと同じように、王族男子が、過去を見ることができると、そう仰っているのですか?そんな話は聞いたことがありませぬ!ましてや、このように過去につながり、会話をするあまりか、針を持ち、衣を仕立てることができるなど……そんな、そんなことが」
「未来は重宝されるのだ」
麗は冷静に言い切った。
「我々の祖先は、過去を見ることに価値を見出さなかった。よって、代々女が王を務めることとなったのだろう。その代わり、消耗品である割符を女王が好き勝手にせぬよう、王族男子が符官の役目を担うようになった。さほど不思議な話ではない」
「それにしてもですよ!」
「女王の先見の力にも個人差があるのだから、男子もそうなのだろう」
そなたもよく知っておろうに、と声をかけられ、夕顔は黙り込んだ。
雨星が訝しげな顔をしていると、麗は苦笑した。
「割符はもともと、占術の道具として使われていたものだった。それを使っていたのが、新賜の王族の始祖である、巫女だ。もともとは、祈祷や降霊などを生業とする女たちだった。彼女たちは割符を割ることで、未来を見ることができた。その子孫である、歴代の女王にも力は受け継がれたが、その強さには個人差がある。残念ながら、わたしには先見の力がほとんどないのだ。一方で、妹の綾は強い力を持っている。このように、姉妹であっても大きな違いが出るのだ。だとすれば、過去につながり、母と対面できるような王族男子がいたとしても、わたしは驚かぬ」
同意を求めるように扇を向けられ、雨星は戸惑った。
(過去を見る力と、未来を見る力……)
「して」
麗はいたずらっぽく、小首を傾げた。
「未来のわたしはどうしておる?すでに王位を譲り、隠居でもしておるのか?」
雨星は、すぐには答えられなかった。
話さなければ。言わなければ。わかっている。こんな機会は、もう二度とない。でも、言いたくない。あなたは殺されたのだ、などと、口にしたくなかった。手の届くところに座って、目を輝かせている、この聡明な少女に、あなたはもう、どこにもいないのだと、そんなことを。
(でも……)
「わたしが、なぜ、ここにいるのか」
雨星は声を振り絞った。
「何があったのかを、わたしが知っているかぎりのことを、あなたに話したい。聞いてくれますか?」
「聞こう」
麗は静かに微笑んだ。
雨星は時折詰まりながらも、わかるかぎりのことを話した。
麗が、中王国の王子を夫に迎え、やがて雨星が生まれること。だがすぐに、妹の綾によって殺されてしまうこと。その後、父と雨星は中王国に隠れ住むが、山箭に見つかり、追われること。冬来が助けてくれること。
割符に翻弄されながらも、雨星はここに行き着き、そして麗に会えた。
けれど、別れの時が近づいてきているということ。
「……」
すべてを聞き終えても、麗の表情は変わらなかった。
夕顔のほうが、青ざめ、手を震わせ、「そんな馬鹿な」とうめいていた。
雨星は勢い込んで身を乗り出し、
「本当なんだ。今は信じられないかもしれないけれど、あなたの妹は、いずれあなたのことを殺そうとする。そしてわたしや、父のことも。だから───」
(だから?)
その先を続けることができなかった。
だから、今のうちに綾を殺せと、そう言うのか。未来を変えるために、まだ何もしていない、何の罪もない人間を殺せと───そう言うのか。
(わたしが?)
今まさに、綾に同じことをされている、雨星が。
何も続けることができずに、口を閉じた彼を、麗はじっと見つめた。
そして、静かに言った。
「少し、昔話をしてあげよう」
扇を閉じ、居住まいを正す。
「そなたは、この国の始まりを知っておるか?」
雨星が首を振ると、彼女は話し出した。
「この国の民はかつて、東方のとある大陸に暮らしていた。多くの国が集まる、巨大な大陸であった。そこでは割符の材料となる、特別な翡翠が豊富に採れた。ゆえに、割符は誰もが使えるような道具だったのだ」
雨星は驚いた。
割符を誰もが自由に使えるとしたら───なんと便利で豊かな世界となるだろう。
「割符は、主に交易に使われていたようだ。非常に重宝されていただろうことは、想像に難くない。荷を運ぶ、馬も牛もいらぬのだから。道中の危険もなく、日数もかからぬ。そんなすばらしい道具が、他にあるか?」
だが、と麗は続けた。
「いずれの国からかは、わからぬ。戦を始めたのだ。豊富であるとは言え、割符も無限ではなかった。割符を用いて割符を奪い合う、無為な争いが、大陸全土で起こり始めた。あまりに悲惨であったためか、詳細は言い伝えられておらぬ。ただ、我らの祖先が、争いを厭うて大陸を出た民であることは、わかっておる」
「……」
「大陸から出る際、我らの祖先は、持てるだけの翡翠を持ち出した。それが、今日我らが使っておる、割符の材料となっているものだ。……祖先はこの地にたどり着き、新しき国を作った。それが新賜だ」
麗は小さく息をついた。
ややあって、「古い記録によれば」と続ける。
「この半島に流れ着いた、我らが祖先は、これからどう暮らしていくかで意見が別れたようだった。平地に乏しい、山だらけの北側で暮らしていくことに、不安を抱いた者たちが少なからずおったのだな。南には、豊かな土地が広がっていた。だが、先住の民がいたのだ。……結局のところ、彼らは北に残る者たちと、南に向かう者たちとで二分した。南に向かった者たちは、先住の民と争い、豊かな土地を奪い合った。長い時間をかけて住処を広げ、暮らしを豊かにし、やがては国を作り上げた。───それが、中王国だ」
雨星は目を丸くした。
だがすぐに、そう言われてみれば、と思い直した。同じ言葉。似たような服装、髪型、顔立ち……。険しい山々で隔てられているというのに、二つの国は、あまりにも共通することが多かった。
「それが真実かどうかは、もはや誰にもわからぬ」
忘れ去られてしまったのだ、と。
「今わかることは、中王国に割符は伝わっておらぬ───ということだ。南へ向かった者たちは、割符を持ち出すことをしなかった。争いに用いることはすまいと、そう考えたのだろうな。それは、北に残った者たちも同じだった。二度と割符を戦に用いることはすまいと、王室典範にてそれを禁じた。先見をして災いを避け、国を豊かにするためだけに使うことと定めたのだ。我々は、ずっとその誓いを守り続けてきた。かつての過ちを繰り返さぬために。だが」
麗は顔を曇らせた。
「わたしの母が、真子女王が、その誓いを破らんとした。割符を用いて、中王国に攻め入ろうとしたのだ。許されざることだった。……綾が、わたしを憎むことになる気持ちはよくわかる。わたしは、母を追い落としたのだ。地位を奪い、自由を奪い、辺境の地へと追いやった。母はきっと、わたしを憎み、深く恨んだであろう。その恨み言を、ともに行かせた幼い綾に、言って聞かせたに違いない」
「姫さま……」
夕顔が、震える声でつぶやく。すがるように。
だが麗は、ゆっくりと首を振った。
「綾のことは、父に頼むしかあるまい。あの母からは、何であろうともう取り上げることはできぬ。母上も、綾も、わたしの話には聞く耳を持たぬであろうが、父上であれば……せめて心を配り、気遣ってやって欲しいと、申し上げてみようと思う」
「なれば」
うめく夕顔に、麗はうなずく。
「すべては、なるようにしかならぬ。あの子は、綾はまだ、九つだぞ」
麗は選んだ。
雨星の話を聞いてもなお、妹を殺さないという道を。
彼女は夕顔から、雨星のほうへと向き直ると、「ひどい顔だ」と苦笑した。
「雨星」
はい、と声を震わせながら、雨星は答えた。
「よい名だ。中王国風だな。その名は誰がつけた。父親か?」
「この名前は、父が。でも、隠れて暮らすためにつけた仮名だと言っていたから、本当の名前は違うのだと思う。でも、知らないんだ」
「そうか」
雨星、と、彼女はもう一度呼びかける。
「そなたは、何のために過去を見ることができるのだと思う?」
(何のために……?)
考えたこともなかった。そこに意味があるとは、露ほども思っていなかったからだ。
雨星が答えあぐねていると、麗はいっそ厳かに言い放った。
「過去を見る力は、同じ過ちを繰り返さぬためにあるものと、わたしは思う。一方未来を見る力は、来たる災いを避けるためにある。災いは目に見えるが、過ちは見えぬのが人というもの。ゆえに、未来ばかりが重宝されてきた。だがわたしは、過去にこそ、未来の答えがあると思っておる」
「未来の、答え」
そうだ、と麗は言う。
「わたしは、かつてのように、交易に割符を用いようと考えておる」
中王国との交易を行い、そしてまた、二国の険悪な関係性を改善するために、かの国の王族に縁がある男子を婿に迎える。それらのことを、雨星に話を聞く前から、ずっと考えていたのだ、と彼女は言った。
「でも、今の割符には、かぎりがあるのでは……」
雨星が言うと、彼女は首肯し、にっかりと笑った。
「割符など、そんなもの、なくなってしまえばよいのだ」
「え?」
雨星はぽかんとした。
「そうではないか?割符などというものがあるから、戦を起こそうなどと思い立ち、我らは決まりに縛られ続けるのだ。ならばそんなもの、なくなってしまえばよい。だが、ただ捨ててしまうわけにもいかぬ。しからば、利益になることに使えばよい」
そうであろう、と彼女は清々しく言ってのけた。
(まぶしい)
とても強くて、まぶしいひと。
あなたが母でよかった、と雨星は思った。あなたに会えてよかった。あなたと話せてよかった。あなたに死んで欲しくない。生きていて欲しい。父と、あなたと、今をともに平和に生きていけたなら、どんなにか……。
「ああ、もう、泣くでない」
嗚咽を漏らす雨星をあやすように笑い、同意を求めて夕顔を振り返った麗は、ぎょっとした。そこにいた夕顔こそが、滂沱の涙だったためだ。ぐずぐずに崩れた顔で、「ひべざま」と号泣する侍女に、麗は困ったように眉を下げた。
「なにゆえ、そなたらが泣くのだ。今ここで泣いてよいのはわたしだけだろう」
「申し訳もござりませぬ……」
うええ、と声を上げながら、夕顔は袖に顔をうずめた。
そんな彼女に肩をすくめ、麗は雨星に向き直った。
「近う」
ちょちょいと手を動かす。
「……?」
雨星は涙を拭い、少しばかり平御座へと近づいた。だがそれでは足りなかったようで、麗は、もう少し、もう少し、と言いながら、彼を間近まで呼び寄せた。そして、こっそりと微笑む。
「これを」
麗は、自身がつけていた耳飾りの片方を外した。
華奢な腕を伸ばし、それを、空いた雨星の耳にそっとつけてくれる。
とろりと白みがかった、美しい青緑色。
しずく型に削られた、小さな翡翠の耳飾りだった。
「割符だ」
「え……」
雨星は目を丸くした。
「よいのだ。そなたに、片方を持っていて欲しい」
麗は手を伸ばし、雨星の頭をそっと撫でた。親が子にするように、優しく、だが少しぎこちなく。
「生き延びろ」
麗が言う。雨星ははっとして、彼女を見た。
「生きて、また、わたしに会いに来い。その時が来たら、これを割れ。いつでも構わない。用がなくても、何もなくても。その時はまた、ゆっくり話をしよう。わたしは、いつだって、そなたをここで待っている」
**
雨星は廊下の途中で立ち止まった。
乱暴に、束ねた髪をほどく。
(わたしは、何かできたんだろうか?)
夜の庭を呆然と見つめ、そのまますとんと座り込んだ。
(過去につながることに、意味なんかあるの?)
母は綾を殺さないほうを選んだ。まだ幼い彼女が、年月の中で変わってくれることを願い、ただその日を待つほうを。それは、本当に強いひとにしかできない選択だった。
(それなのに、わたしは……)
本当は言いたかった。
嫌だ、やめてくれ、と。
あなたと一緒に生きていきたいのだと。
今もなお、走ってあの場所まで戻り、彼女の膝にすがりつきたいほどだった。
うつむいた顔の横に、はらりと髪が垂れかかる。
(なら、どうすればよかったのか)
「おい、大丈夫か」
その声に、雨星はゆっくりと顔を上げた。
「どうした。何があった」
廊下を下りた先、小庭に立っていたのは、やはり───冬来だった。
彼は珍しく、息を切らしているようだった。こめかみの汗を拭うと、冬来は張り詰めた声で言った。
「あんたが、女王に呼び出されたって聞いて。何かあったんじゃないかと思って……」
「───」
雨星は言葉を失って、彼を見つめた。
まさか、と思う。
(まさか、心配してきてくれたの?わたしの様子が気がかりで、たったそれだけのために?)
息が切れるほどに急いで、走って、ここまで。
雨星の赤く腫れた目元を見て、冬来はきゅっと眉根を寄せた。
「なんで泣いてる。やっぱり、何かあったんだな。ひどいことをされたのか」
「違うんだ。何もされてない。ただ……」
雨星は苦しげに顔を歪めた。
「わたしはもう、行かないと」
冬来はその言葉に、面食らったようだった。
「行かないとって───どこへ」
「遠いところ」
冬来はますます眉を寄せた。
「言ってる意味がわからない。この国を出るってことか?女王に出ていけって言われたのか?外国人だから?」
「出ていけなんて、言われてないよ。むしろ、お抱えの針子になれと言われた。でも、できないって、断ったんだ」
「できない?なんで」
「帰らないといけないから」
冬来はがしがしと頭をかきむしった。
「わけがわからないんだけど」
「ごめん」
「わかるように言えよ」
冬来は強い力で、雨星の手をつかんだ。
「どこにも行くな」
その手は震えていた。雨星は目を見開いた。冬来が、ひどく泣きそうな顔でこちらを見ているからだった。
「どうしても帰らなきゃならないなら、遠くへ行くって言うなら、おれ、ついていくから。どこへだって、一緒に行くから」
だから、ともどかしげに首を振る。
冬来はつかんでいる手を引き、雨星を抱きしめた。
「冬来」
「行くな、雨星」
それは、出会ってから初めて耳にした、冬来の年相応の声だった。
子供が駄々をこねるように、わがままを言うように、彼は言った。
「あんたのことが、好きなんだ」
「───……」
雨星の大きく見開かれた目に、星空が映った。
(わたしはこの景色を、一生忘れないだろう)
雨星は思った。それと同時に、パキパキ、という一際危うい音が響く。
目の前の、美しい夜空と、町の灯が、溶けるようにぼやけていく。
消えていく。愛おしいすべてが。
「冬来」
雨星は手を伸ばし、彼の小さな体を抱きしめ返した。
「わたしは」
パキン!
強く鋭い音が響き渡った。
床が消え失せ、冬来を抱きしめた腕は、空をかく。雨星は前のめりに、頭から無限の闇へと落ちていった。さまざまな時間の、さまざまな場所の景色が混ざり合い、極彩色の流れとなり、背後へと消えていく。
ついさっきまで腕の中にあったぬくもりが、嘘のように消えてしまった。
(いや)
まだだ、と雨星は思った。
小さなぬくもりが、まだ胸の中に残っている。それは、冬来が雨星を抱きしめてくれた時に生まれたぬくもりだった。悲しみで満たされそうになっていた心を、優しく、まっすぐに、あたためてくれた。冬の日だまりのような、小さな熱。
(行こう)
その熱に背中を押されるようにして、雨星は歩き出した。
しかしすぐに、泥のようになった地面が足に絡みついた。一歩が重い。逃げなければ、という思いが唐突に湧いてくる。
(逃げなきゃ)
でも、何から?
振り返ると、誰かが追いかけてくるのが見えた。
手には短刀を掲げ持ち、顔は血だらけだ。
だが雨星は、悲鳴を上げたりはしなかった。逃げることをやめ、正面から男を見返した。
『雨星』
男は雨星の前で立ち止まり、喜色満面の笑みを浮かべた。
『ああ、雨星。ついにおれのことを、受け入れてくれたんだな』
短刀を振りかぶる。
『さあ、一緒に死のう!』
男はそれを振り下ろした。
雨星の胸元に、突き立てられたかに見えた切っ先だったが───。
『……?』
男は首を傾げた。なぜ刺さらないのだろう。そう思っているように、雨星には見えた。
(あたたかい……)
わずかに残ったぬくもりが、光が、雨星の心臓を包み込んでいる。
金色がかったその光は、曙光のようだった。凍えるように寒い夜、永遠かと思える夜の帳を、一瞬にして取り払ってくれる、夜明けの光だ。刃など、通るはずがない。
(生き延びてみせる)
おろおろするばかりの男を、雨星は、強く突き飛ばした。
よろめき、尻餅をついて、ただ呆然と彼を見上げることしかできない男の横を、堂々とした足取りですり抜ける。
その先に、たくさんの明かりが見えた。
見慣れた赤い光だった。
(ここは……)
扇市だ。そしてあの建物は、縫殿。
眼下には、いつもの席で居眠りをする、雨星の姿があった。
針を持ったまま船を漕いでいる親友を、隣の紅雪が心配そうに横目に見ていた。
あの日だ。
すべてが変わった日。
(雨星!)
雨星は叫んだ。おのれに向かって。
(雨星!目を覚ませ!)
その瞬間、景色が一変した。




