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第八話 謁見

「もうひと踏ん張りよ!」

 パンパンと女中頭(じょちゅうがしら)が手を叩く。

 部屋にいた全員が、顔を上げて彼女を見た。その中には、雨星(うせい)も含まれていた。

「明日の朝の鐘までに終わらせること!頑張って!」

 それを聞き、天を仰ぎ見る者が数人。がっくりとうなだれる者が数人。すぐさま手元を動かし始める者が数人。雨星はそのどれでもなく、しばらくの間ぼうっと正面を見つめる者、であった。

「雨星!手を動かしなさい!」

 女中頭は、そう叱りはするものの、語調は荒くない。

 なぜなら、雨星の異様なまでの手の速さのおかげで、すべての作業に終わりが見えてきているからであった。

 美しい山吹(やまぶき)色の絹地に、獅子の文様を刺していく。初めて見た図案だったが、何てことはない、今まで刺してきた数々の文様に似たところがある。さほど複雑ではなかった。すさまじい速さで針を動かしつつ、雨星はしかし、まったく別のことを考えていた。

(あんなことを言うべきではなかった)

 はあ、とため息が漏れる。

(彼は、冬来(ふゆき)は、望まない場所で、必死になって生きようとしていた。母親を愚かだったと自分に言い聞かせることは、きっと、そのために必要なことだったんだ。結果的にわたしがしたのは、彼を責め立てるようなことだった)

 会って、謝りたい。たった一言、ごめんと伝えられれば、それで。

 そんなことを考えながら、ひたすら針を動かし続け───明朝。

 清々しい朝であった。

 小鳥が鳴く爽やかなあけぼのに、しかしながら、元気に起きている者は、この針子部屋において誰一人としていなかった。精根尽き果てた女中たちが、死屍累々とばかりに畳に転がっている。雨星もまた例外ではなかった。

 ひんやりとした畳に頬をつけ、うとうとしていると、

「───おい」

 すぐそばで声がした。

 夢うつつに、誰だろうと思いつつも、目は開かない。

「おい、起きろって」

 二度目の呼びかけに、ようやくはっと目を覚ました。

 ほんの少し居眠りしていただけかと思っていたら、昇ったばかりだったはずの太陽がいつの間にか、中天に近くなっている。空は高く、青く、雲一つなく晴れていた。

「……?」

 頭がまったく回らないまま、身を起こした。

 目をこすりつつ、声の聞こえたほうを振り返る。そばにかがみ込んでいる人物を見て、雨星は「あ」と声を上げた。

「冬来」

 彼は同じ黒装束ではあったが、今は、細い手足に手甲と脚絆をつけていた。顔はすっかり腫れが引き、あざもない。幼いながら、整った顔立ちをしている。

「冬来、よかった。わたし、あなたに会って謝りたくて……」

 慌てて言いさした雨星の口を手で塞ぎ、冬来は「シー」と指を立てた。

 そうだった、と雨星は思った。部屋中に、健やかな寝息を立てる女中たちが転がっている。起こしてはかわいそうだ。

 冬来は雨星の手をつかみ、小声で言った。

「来い。いいもの見せてやる」

「……?」

 手を引かれるがまま、部屋を出て、足音を立てぬように廊下を進む。

 これまでのてんやわんやが嘘のように、すべての部屋がしんと静まり返っていた。

 そんな中、遠くから(がく)の音のようなものが聞こえてくることに、雨星は気がついた。

(?何だろう)

 ふと、冬来が立ち止まる。

 かと思うと突然、ひょいと跳んで(ひさし)に手をかけ、屋根の上へと駆け上がった。驚く雨星に、彼は手を差し伸べて、

「来い!」

 と呼んだ。

「───」

 雨星は目を見開いた。かつて、同じ言葉を言われたことを思い出したのだ。

 その時も、彼は手を差し伸べていたように思う。だが雨星は、嫌だと答えて、はねつけた。けど、今は。

「───うん」

 雨星はうなずき、その手をしっかりとつかんだのだった。

 だがそう簡単にはいかず、腕と帯を引っ張ってもらい、どうにかこうにかしてようやく屋根の上へと上がった。よろめきながら立ち上がると、頭上は風が強いのだと知った。衣の裾を激しくあおられて、足元をすくわれそうになる。

(ちょっと怖いな……)

「見ろよ」

 冬来は再び、雨星の手を引いた。

 その手にしがみつくようにしながら、雨星はおっかなびっくり前へと進んだ。そして、彼が指し示す方向を見る。

「あれは……」

 たくさんの花びらが舞っているのかと思った。

 だが、すぐに違うとわかった。

 花びらではなく、落葉(らくよう)だ。

 銀杏(いちょう)や、(かえで)錦木(にしきぎ)、桜の葉も。

 真っ赤に色づいたもの、優しい黄みを帯びたもの、いまだ緑も鮮やかなもの───おびただしいまでの数の木の葉が、強い風に舞い飛んでいるのだった。

 眼下に見える広場は、今や、錦の色に染まっていた。

 もっとも高い位置に(だん)があり、それと向かい合うようにして、ずらりと、大勢の人々が並び立っていた。皆、深い緑や、渋い赤を重ねたような衣を身にまとっている。

「このために苦労したのに、見られないなんて、もったいないだろ?」

 冬来は雨星を見て、笑った。

「即位式か」

 これが、と気圧されたように、雨星はつぶやく。

 遠目に見てもわかる、この人の数。ものすごい迫力だ。

 彼らの見つめる先、壇上では、二人の人間が向かい合っていた。

 翡翠色の衣に身を包む男が、手に何かを掲げ持っている。

 そして、その前にひざまずいているのは……。

(あの、山吹色の衣は)

 雨星は、胸が熱くなるのを感じた。

 黄よりも鮮やかな絹の上に、流麗な獅子の文様───間違いない。あれは、雨星が刺繍したものだった。

 それを身にまとい、髪を高く結い上げ、たくさんの翡翠のかんざしを挿した女がいた。

 その後ろ姿を見て、雨星の心臓は壊れそうなほどの早鐘を打った。

(ここが、過去なら)

 今まさに、即位せんとしている、あの女王は───。

「女王陛下の、御成(おな)り!」

 広場に高らかな声が響く。

 裾の長い衣を潔く(ひるがえ)しながら、女王は立ち上がり、居並ぶ者たちを振り返った。一歩前進し、大きくその場を見渡す。

 秋の陽光に照らされたその姿は、すらりとしていた。

 そして若い。十五、六の、若い娘に見えた。

今上陛下(きんじょうへいか)(うらら)さまであらせられる!」

 さざなみのような音を立て、居並ぶ人々が頭を下げた。膝を折り、深く。

 楽の音が高く鳴り渡る。

(お……)

 雨星は唇を震わせた。

(おかあさん)

 目頭が熱くなり、喉が詰まった。まさか、こうして、その姿を目にすることができるなどとは、微塵(みじん)も思っていなかった。ただの女中として、同じ場所にいられるだけでいいと思っていたのだ。この時代で、元気に生きてくれているのだとわかれば、それでよかった。

 ずず、と鼻をすする雨星を、冬来がぎょっとした顔で振り返る。

「あんた、また泣いてんのか」

「ごめん……」

 うう、と顔を覆う雨星。

「別にいいけどさ……」

「ありがとう」

 雨星は、泣きながら微笑んだ。

「ありがとう、冬来。わたしを、ここに連れてきてくれて」

 冬来は目を丸くした。

「大げさだな」

「いや。わたしにとっては、とても大事なことなんだ」

 すると、冬来は皮肉っぽく、唇の片端を吊り上げた。

「たくさんある、大事なことのうちの一つ?」

「それは……」

 そこでようやく、雨星は、冬来に会いたいと思っていた理由を思い出した。

「あの時はごめん。考えなしだった。わかったような口をきいて、嫌な思いをさせただろう。本当に、ごめんなさい」

 雨星が深く頭を下げると、彼は、「いいって」と口にした。

 そして、いつまでも頭を下げ続ける雨星の頬を手挟(たばさ)み、顔を上げさせた。

「会いに行かなかったのは、怒ってたからじゃなく、考えてたからだ」

「考えてた……?」

 うん、と冬来。

「あんたにあの時、ああいうふうに言われて、がつんと頭をぶん殴られた気がしたんだ。母親のことを、ずっと、くだらない女だと思ってた。まわりもみんな、そう言ってたし。人を愛することって、身を滅ぼすような恐ろしいことなんだなって、子供ながらに思ってさ。───でも、生まれてはじめて、そうじゃないのかもって考えたんだ」

 少し、気恥ずかしげに喋る冬来。

 そんな彼を、雨星は正面から静かに見つめた。

「母さんは、もしかしたら、おれを愛してたのかもって考えてみた。そうしたら、色々思い出したんだ。ずっと忘れてたこと。笑った顔とか、優しい声とか、抱きしめてくれたこととか。ずっとわからなかったけど、もしかしたらあれが、愛されてるってことだったのかなって、そう思ったらたまらなくなって。だから───……」

 冬来は、驚いたように言葉を止めた。

 雨星が、強く、彼を抱きしめたせいだった。父が、親友が、叔母が、いつも雨星にそうしてくれたように。

「また泣いてんのかよ」

 耳元で冬来が言う。とても優しい声で。

 彼はずっと、獣のように毛を逆立てて、自分を大きく、強く見せようと生きてきたに違いない。それは他者を威嚇(いかく)するためでもあったし、自分が世界に立っているためでもあった。強さだけが、彼を生かした。他の誰も、彼を守ってくれなかったからだ。

(あなたは人間だ)

 ずっと、冬来のことがわからなかった。

 それこそ、獣のようだとも思っていた。でも。

(あなたは、優しい人間だ)

「ひどい顔だな」

 呆れたように言いながら、冬来は、雨星の顔を袖で拭いてくれた。これではどちらが子供かわからない。

「まあ、でも───」

 冬来はからりとした声で言い放った。

「ますます山箭(さんや)になる気はなくなったけどな!」

「え」

 冬来は、にっと笑った。

「このまま、タダ飯食らいで生き延びて、一人でやっていける歳になったら、ここを出てってやるんだ。誰かのために命を懸けるとか、体を張るとか、がらじゃないし。おれはもっと自由に生きていきたい」

 これってもしかして、と雨星は思った。

(わたしの言葉で、過去を、ひいては未来を、変えてしまったのでは?)

 いや、でも、と思い直す。

 それでも構わない。冬来の人生は冬来のものだ。雨星がどうこうできるものではない。していいものでもない。たとえそれによって、()に戻った時、状況が変わっていようと、それはきっと仕方がないことなのだ。

「あんたはどうするんだ?」

 唐突に聞かれて、雨星はきょとんとした。

「どうするって、何が?」

「このままずっと、針子女中(はりこじょちゅう)としてここで働くのか?」

 それもいいな、と雨星は思った。もし、それが許されるのなら。

(でも)

 紅雪を見つける。必要なら助ける。そして───終わりにしなければ。

 雨星は、さみしげに微笑んだ。そして、冬来の問いに答えることはなかったのだった。


               **


 その時は突然訪れた。

「雨星!」

 血相を変えて広間に飛び込んできたのは、女中頭だった。

「?え?」

 (ぜん)を前に、今まさに白飯を口にしようとしていた雨星を立たせると、彼女はずんずんと廊下を歩いていく。どこへ向かうのかと思えば、支度部屋(したくべや)である。女中たちが、着替えや、化粧をする場所だ。もちろん、雨星は入ったことがない。

「?何が……」

「お()しがあったわ」

 女中頭は、興奮した様子で言う。

「へ?」

「女王陛下が、あなたに、会いたいっておっしゃっているのよ!」

 口から変な声が飛び出た。

 女中頭が言うには、私的な場での衣───要は部屋着として作られたあの山吹色の衣を、女王はいたく気に入り、儀式に用いた。そして、刺繍を入れた者にぜひ会いたいと言っているのだという。つまりは、雨星だ。

「いや、無理だ!」

 雨星は悲鳴を上げた。

「どうしてよ。大変に名誉なことよ。うまくいけば、お抱えの針子に指名されることだって夢じゃない。行ってきなさいよ」

「無理だ、そんなの。心の準備が……」

「何をごちゃごちゃと。そもそも、断れるわけがないでしょう。女王の命令なんだから。さあ、わかったならさっさとこれに着替えて」

「わ、わかった。わかったから」

 雨星は慌ててうなずき、女中頭から衣を奪い取った。

「一人でできる。支度するから、一人にして欲しい」

「そう?」

 わかったわ、と意外にもあっさりと女中頭は引き下がった。

 薄暗い支度部屋で一人きりになり、雨星はへなへなとその場にへたり込んだ。

(女王が、わたしに会いたい?つまり、母に会えるということ?)

 どうやって支度し、どこをどう歩いたのか───。

 それ以降の記憶があまりない。

 気がつくと雨星は、奥座所(おくざしょ)、つまり、謁見(えっけん)の間の前にいた。

 ここで待てと言われてから、かなりの時間が経っている。

 鼓動が休まらない。手足が冷えて、冷や汗が出て、感情がごちゃまぜになって、考えが頭の中をぐるぐると回り続けている。

(形としては、ただの下級女中が、女王に謁見するというだけのことだ。母は、わたしのことを知らない。わたしが誰で、なぜここにいるのかも……)

 やがて、廊下の向こうから、衣擦(きぬず)れの音を立てて女たちがあらわれた。

 女王が着ていたような、裾を引きずる長衣を身にまとっている。身なりからして、侍女たちだろう。

「女王陛下がお呼びです。入りなさい」

 戸が、ゆっくりと開け放たれる。

 そこには、小さな入口からは想像もつかないような、広い空間があった。

 あまりにも広々としているため、灯火が隅まで照らしきれず、闇がこごっている。獅子の紋を織りだした、白い(とばり)が壁面を覆っており、かすかな風に揺れていた。鏡のように磨かれた板張りが、灯火をまぶしいほどに照り返している。

 薄暗く、しんと静かであったが、不思議と恐ろしくなかった。

 帳の隙間から吹き込む、秋の夜風が、大層優しかったからかもしれない。

「お召しにより、まかりこしました。……雨星と申します」

 教えられたとおりに、深く頭を垂れ、挨拶した。

「うむ。近う」

 軽やかな女の───少女の声が、それに応えた。

 近くに寄れと言っているのだから、前を向いても構わないだろうと思い、雨星は恐る恐る顔を上げた。

 中央にぽつりと座っていたのは、やはり少女だった。

 その背後に、侍女らしき年かさの女が静かに控えている。

(このひとが)

 栗色の髪を結い上げもせず、肩に流している。かんざしの一つすら飾らず、装飾品は小さな翡翠の耳飾りのみ。飾り気のない白い衣に赤い袴。まるで女中のような出で立ちだ。その上からかろうじて、細かな刺繍の入った、柔らかな橙色の長衣を羽織っている。とても一国の女王とは思えない、地味な装いだった。これでは、侍女たちのほうがまだ華やかに見えてしまう。

 目鼻立ちの小ぶりな、決して美人とは言えない面立ちをしていたが、両の目は見るものを射抜くような強い輝きをたたえ、薄い唇は、自信に溢れた笑みを浮かべていた。

 目を離すことができなかった。

 初めて近くで目にしたその姿を、生きている姿を、目に焼き付けるかのように、雨星は女王、麗を見つめ続けた。

(母さん)

「どうした?早う」

 彼女は、ちょちょいと手を動かした。

 雨星ははっとして、そろそろと膝行(しっこう)し、平御座(ひらござ)の手前で止まった。

夕顔(ゆうがお)

 麗が、背後に控える侍女に何やら言いつけた。

 するとその侍女が、さらに別の女に命じる。やがて幾人かの女たちが、衣桁(いこう)にかけた鮮やかな色の衣を運んできた。それは、即位式で麗がまとっていた衣だった。山吹色の、獅子文様の長衣だ。

 それを指し、彼女は雨星に問いかけた。

「これを仕立てたのはそなただと聞いたが、それはまことか?」

「は、はい」

 雨星は思わずそう答えてしまい、慌てて首を振った。

「あ、違う。いえ、違います」

「違う?」

 麗と、侍女の夕顔は、顔を見合わせた。

「そんなはずはない」

 雨星は補足した。

「ええと、わたしが針を入れたのは、刺繍だけです。獅子の文様を入れたのは、たしかにわたしですが、仕立てたのは他のひとで、つまり、その……」

「なるほど」

 麗はうっすらと微笑んだ。

「つまり、こういうことか?それぞれの工程で、多くの者が針を入れたゆえ、そなただけの力でできあがったものではない、と」

「は、はい。そうです」

「ふむ。であれば、このすばらしい衣を仕立て上げてくれた、針子部屋の皆に、こたびの褒美を与えることとしよう。それで構わぬか?」

「ありがとうございます……」

 雨星が深く頭を下げると、麗は満足げにうなずいた。

 とても年端(としは)もいかぬ少女とは思えぬ、堂々とした振る舞いであった。

 それにしても、と、彼女は続ける。

「そなたの髪は、なんとも美しい色合いをしておるな。あれのようだ。ほら、あの、ちょうどこれからの季節によう見かける、小鳥の……」

花鶏(あとり)にございますな」

 あやふやに手を動かす麗の背後で、夕顔がしたり顔で答えた。

「渡り鳥にて、これからの季節によくさえずっておりまする」

「そうそう、それだ。あの胸のところの羽が、赤橙で美しいだろう。その色によく似ておる」

「南方諸国の、ブリシェという国は、赤毛の者が多うございますよ」

 ふうん、と麗はつぶやく。

「そなたはブリシェ人なのか?」

「わたしの、祖母が」

 雨星はおずおずと答え、

「この耳飾りは祖母のもので、ブリシェの職人が───」

 自身の耳に揺れる、紅玉髄(べにぎょくずい)の耳飾りに触れようとして、指先が空をかいた。

(あれ?)

 ない。耳飾りがなくなっている。

 あの時だ、と、雨星は思った。割符(わりふ)新賜(あらたま)につながり、木の上から落ちた時。あの衝撃で、おそらくどこかへ吹き飛んでしまったのだろう。

「?どうした?」

「いえ」

 雨星ははっとして、何でもありません、と言葉を濁した。

 そうかと麗はうなずき、パンと扇を開き、口元に当てた。

「さて」

 目元だけで笑んで、雨星を見る。

「面倒なことに、これから先も、儀式やら何やらが目白押しでな。わたしはあの衣を使い回すつもりだったのだが、そうもいかぬようなのだ。とんでもないと、皆に叱られてな。どうやら、儀式やら何やらのそのたびに、新たな衣装が必要となるようなのだ」

「?はあ……」

 曖昧(あいまい)にうなずく雨星に、麗は苦笑し、「つまりだな」と言った。

「───わたしは、それらすべての衣を、そなたに任せたいと思っておる。よいな?」

 よいか、ではなく、よいな、と。それは確認ではなく、命令だった。

 雨星は息を呑んだ。

(それって、つまり)

 お抱えの針子になれ、と言われたのだ。つまり、刺繍の腕を認められた。自分の一番好きなことを、これ以上ないというほどに、褒められたのだ。こんなに嬉しいことはない。幸せなことはない。そう思う一方で、でも、と雨星は表情を曇らせた。

(わたしは、ずっとここにはいられない。この時代の人間じゃないから。ここで生きているはずの人間じゃないから。わたしは───帰らなければ)

「ごめんなさい」

 雨星は、深く、深く、頭を下げた。

 額が冷たい床につくほどに。

「わたしには、そのお役目は、できません」

 麗は大きく目を見開いた。

 その背後で、何と、と夕顔が腰を浮かす。

「今、何と申した。よもや、陛下の命を聞くことができぬと、そう申したのか。そのようなことが、一介の女中に許されると……」

「夕顔」

 麗が、すっと扇を掲げた。

 彼女はたったそれだけで、気色(けしき)ばむ夕顔を黙らせた。

「なにゆえか」

 そう問いかけてくる麗の声は、驚くほどに優しい。

 雨星が尋常でなく、切羽詰まった表情をしていたからかもしれない。ただごとではないと感じたのだろう。そこには、命令を聞けぬと言い放った雨星を責める響きは、微塵も感じられなかった。

「こんなことを言っても、頭がおかしいやつだ、と思われるだけだとわかってる。到底信じられないかもしれないが、わたしは……」

 そこまで言って、雨星は言葉を止めた。

 この期に及んで、これは話してもいいことなのだろうか、という疑問が浮かぶ。

(話したら、過去はもちろん、未来が変わってしまうかもしれない。取り返しのつかないことになってしまうかも)

 麗は何も言わず、彼が再び口を開くのを待っていた。

(でも)

 その目を見て、雨星は、応えたい、と思った。麗の優しさと、誠意に応えたいと。ゆえに、何度もつっかえ、何度も飲み込みながら、ようやくその言葉を口にした。

「───わたしが、あなたの息子だからだ」

 パキパキ。

 何か固いものに、ヒビが入る音がした。

 雨星にはすぐ耳元で聞こえたが、その音は、麗や夕顔には聞こえていないようだった。

「無礼な!」

 (いぶか)しげな顔をする麗の背後で、夕顔がさっと立ち上がった。

「陛下に対し、そのように奇怪な空言を口にするとは、この場で相応の罰があってもおかしくはない行いぞ!本来であれば、このような場に呼ばれるべくもない身分でありながら、陛下にそのような口をきくとは、不敬も甚だしい!」

 そのように憤り、女たちを呼びつけ、雨星を追い出そうとかかる夕顔。

 雨星は、どうにかして信じてもらいたいと話を続けようとしたが、うまく言葉が出てこなかった。話したいこと、言いたいことがたくさんあったはずなのに、頭が真っ白になって、何一つ出てこない。

(言わなきゃいけないのに)

 焦るあまりに唇を噛む。

(あなたの妹が、あなたを殺すのだと。だから……)

 だから。

「───聞いたことがある」

 軽く扇を掲げ、鼻息も荒くする夕顔と、女たちを止めたのは、やはり麗だった。

「麗さま?」

 夕顔が困惑した様子で問う。

「割符の力だろう?」

 そうではないか、と、さらりと問いかけられ、雨星は息を呑んだ。

「───はい」

「やはり、そうか」

 麗は納得したようにうなずく。

「即位するにあたり、歴代の王の覚え書きのようなものにまで目を通したのだが、その中に、『過去の王と対話した』と書かれたものがあった。書き綴ったのは、何代か前の女王の弟で、王族男子だ。その時は、どういうことかと思っていたのだが、よもや」

 まことであったか、と。

「そのようなことが……?」

 夕顔が、信じられないとばかりに声を漏らし、へなへなと座り込んだ。

「割符を用いて、女王が先見(さきみ)をするという───それと同じように、王族男子が、過去を見ることができると、そう仰っているのですか?そんな話は聞いたことがありませぬ!ましてや、このように過去に()()()()、会話をするあまりか、針を持ち、衣を仕立てることができるなど……そんな、そんなことが」

「未来は重宝されるのだ」

 麗は冷静に言い切った。

「我々の祖先は、過去を見ることに価値を見出さなかった。よって、代々女が王を務めることとなったのだろう。その代わり、消耗品である割符を女王が好き勝手にせぬよう、王族男子が符官(ふかん)の役目を担うようになった。さほど不思議な話ではない」

「それにしてもですよ!」

「女王の先見の力にも個人差があるのだから、男子もそうなのだろう」

 そなたもよく知っておろうに、と声をかけられ、夕顔は黙り込んだ。

 雨星が訝しげな顔をしていると、麗は苦笑した。

「割符はもともと、占術の道具として使われていたものだった。それを使っていたのが、新賜の王族の始祖である、巫女だ。もともとは、祈祷や降霊などを生業とする女たちだった。彼女たちは割符を割ることで、未来を見ることができた。その子孫である、歴代の女王にも力は受け継がれたが、その強さには個人差がある。残念ながら、わたしには先見の力がほとんどないのだ。一方で、妹の(あや)は強い力を持っている。このように、姉妹であっても大きな違いが出るのだ。だとすれば、過去につながり、母と対面できるような王族男子がいたとしても、わたしは驚かぬ」

 同意を求めるように扇を向けられ、雨星は戸惑った。

(過去を見る力と、未来を見る力……)

「して」

 麗はいたずらっぽく、小首を傾げた。

「未来のわたしはどうしておる?すでに王位を譲り、隠居でもしておるのか?」

 雨星は、すぐには答えられなかった。

 話さなければ。言わなければ。わかっている。こんな機会は、もう二度とない。でも、言いたくない。あなたは殺されたのだ、などと、口にしたくなかった。手の届くところに座って、目を輝かせている、この聡明な少女に、あなたはもう、どこにもいないのだと、そんなことを。

(でも……)

「わたしが、なぜ、ここにいるのか」

 雨星は声を振り絞った。

「何があったのかを、わたしが知っているかぎりのことを、あなたに話したい。聞いてくれますか?」

「聞こう」

 麗は静かに微笑んだ。

 雨星は時折詰まりながらも、わかるかぎりのことを話した。

 麗が、中王国の王子を夫に迎え、やがて雨星が生まれること。だがすぐに、妹の綾によって殺されてしまうこと。その後、父と雨星は中王国に隠れ住むが、山箭に見つかり、追われること。冬来が助けてくれること。

 割符に翻弄(ほんろう)されながらも、雨星はここに行き着き、そして麗に会えた。

 けれど、別れの時が近づいてきているということ。

「……」

 すべてを聞き終えても、麗の表情は変わらなかった。

 夕顔のほうが、青ざめ、手を震わせ、「そんな馬鹿な」とうめいていた。

 雨星は勢い込んで身を乗り出し、

「本当なんだ。今は信じられないかもしれないけれど、あなたの妹は、いずれあなたのことを殺そうとする。そしてわたしや、父のことも。だから───」

(だから?)

 その先を続けることができなかった。

 だから、今のうちに綾を殺せと、そう言うのか。未来を変えるために、まだ何もしていない、何の罪もない人間を殺せと───そう言うのか。

(わたしが?)

 今まさに、綾に同じことをされている、雨星が。

 何も続けることができずに、口を閉じた彼を、麗はじっと見つめた。

 そして、静かに言った。

「少し、昔話をしてあげよう」

 扇を閉じ、居住まいを正す。

「そなたは、この国の始まりを知っておるか?」

 雨星が首を振ると、彼女は話し出した。

「この国の民はかつて、東方のとある大陸に暮らしていた。多くの国が集まる、巨大な大陸であった。そこでは割符の材料となる、特別な翡翠が豊富に採れた。ゆえに、割符は誰もが使えるような道具だったのだ」

 雨星は驚いた。

 割符を誰もが自由に使えるとしたら───なんと便利で豊かな世界となるだろう。

「割符は、主に交易(こうえき)に使われていたようだ。非常に重宝されていただろうことは、想像に(かた)くない。荷を運ぶ、馬も牛もいらぬのだから。道中の危険もなく、日数もかからぬ。そんなすばらしい道具が、他にあるか?」

 だが、と麗は続けた。

「いずれの国からかは、わからぬ。戦を始めたのだ。豊富であるとは言え、割符も無限ではなかった。割符を用いて割符を奪い合う、無為(むい)な争いが、大陸全土で起こり始めた。あまりに悲惨であったためか、詳細は言い伝えられておらぬ。ただ、我らの祖先が、争いを(いと)うて大陸を出た民であることは、わかっておる」

「……」

「大陸から出る際、我らの祖先は、持てるだけの翡翠を持ち出した。それが、今日(こんにち)我らが使っておる、割符の材料となっているものだ。……祖先はこの地にたどり着き、新しき国を作った。それが新賜だ」

 麗は小さく息をついた。

 ややあって、「古い記録によれば」と続ける。

「この半島に流れ着いた、我らが祖先は、これからどう暮らしていくかで意見が別れたようだった。平地に乏しい、山だらけの北側で暮らしていくことに、不安を抱いた者たちが少なからずおったのだな。南には、豊かな土地が広がっていた。だが、先住の民がいたのだ。……結局のところ、彼らは北に残る者たちと、南に向かう者たちとで二分した。南に向かった者たちは、先住の民と争い、豊かな土地を奪い合った。長い時間をかけて住処を広げ、暮らしを豊かにし、やがては国を作り上げた。───それが、中王国(なかおうこく)だ」

 雨星は目を丸くした。

 だがすぐに、そう言われてみれば、と思い直した。同じ言葉。似たような服装、髪型、顔立ち……。険しい山々で隔てられているというのに、二つの国は、あまりにも共通することが多かった。

「それが真実かどうかは、もはや誰にもわからぬ」

 忘れ去られてしまったのだ、と。

「今わかることは、中王国に割符は伝わっておらぬ───ということだ。南へ向かった者たちは、割符を持ち出すことをしなかった。争いに用いることはすまいと、そう考えたのだろうな。それは、北に残った者たちも同じだった。二度と割符を戦に用いることはすまいと、王室典範(おうしつてんぱん)にてそれを禁じた。先見をして災いを避け、国を豊かにするためだけに使うことと定めたのだ。我々は、ずっとその誓いを守り続けてきた。かつての過ちを繰り返さぬために。だが」

 麗は顔を曇らせた。

「わたしの母が、真子(まこ)女王が、その誓いを破らんとした。割符を用いて、中王国に攻め入ろうとしたのだ。許されざることだった。……綾が、わたしを憎むことになる気持ちはよくわかる。わたしは、母を追い落としたのだ。地位を奪い、自由を奪い、辺境の地へと追いやった。母はきっと、わたしを憎み、深く恨んだであろう。その恨み言を、ともに行かせた幼い綾に、言って聞かせたに違いない」

「姫さま……」

 夕顔が、震える声でつぶやく。すがるように。

 だが麗は、ゆっくりと首を振った。

「綾のことは、父に頼むしかあるまい。あの母からは、何であろうともう取り上げることはできぬ。母上も、綾も、わたしの話には聞く耳を持たぬであろうが、父上であれば……せめて心を配り、気遣ってやって欲しいと、申し上げてみようと思う」

「なれば」

 うめく夕顔に、麗はうなずく。

「すべては、なるようにしかならぬ。あの子は、綾はまだ、九つだぞ」

 麗は選んだ。

 雨星の話を聞いてもなお、妹を殺さないという道を。

 彼女は夕顔から、雨星のほうへと向き直ると、「ひどい顔だ」と苦笑した。

「雨星」

 はい、と声を震わせながら、雨星は答えた。

「よい名だ。中王国風だな。その名は誰がつけた。父親か?」

「この名前は、父が。でも、隠れて暮らすためにつけた仮名(かりな)だと言っていたから、本当の名前は違うのだと思う。でも、知らないんだ」

「そうか」

 雨星、と、彼女はもう一度呼びかける。

「そなたは、何のために過去を見ることができるのだと思う?」

(何のために……?)

 考えたこともなかった。そこに意味があるとは、露ほども思っていなかったからだ。

 雨星が答えあぐねていると、麗はいっそ厳かに言い放った。

「過去を見る力は、同じ過ちを繰り返さぬためにあるものと、わたしは思う。一方未来を見る力は、来たる災いを避けるためにある。災いは目に見えるが、過ちは見えぬのが人というもの。ゆえに、未来ばかりが重宝されてきた。だがわたしは、過去にこそ、未来の答えがあると思っておる」

「未来の、答え」

 そうだ、と麗は言う。

「わたしは、かつてのように、交易に割符を用いようと考えておる」

 中王国との交易を行い、そしてまた、二国の険悪な関係性を改善するために、かの国の王族に縁がある男子を婿(むこ)に迎える。それらのことを、雨星に話を聞く前から、ずっと考えていたのだ、と彼女は言った。

「でも、今の割符には、かぎりがあるのでは……」

 雨星が言うと、彼女は首肯(しゅこう)し、にっかりと笑った。

「割符など、そんなもの、なくなってしまえばよいのだ」

「え?」

 雨星はぽかんとした。

「そうではないか?割符などというものがあるから、戦を起こそうなどと思い立ち、我らは決まりに縛られ続けるのだ。ならばそんなもの、なくなってしまえばよい。だが、ただ捨ててしまうわけにもいかぬ。しからば、利益になることに使えばよい」

 そうであろう、と彼女は清々しく言ってのけた。

(まぶしい)

 とても強くて、まぶしいひと。

 あなたが母でよかった、と雨星は思った。あなたに会えてよかった。あなたと話せてよかった。あなたに死んで欲しくない。生きていて欲しい。父と、あなたと、()をともに平和に生きていけたなら、どんなにか……。

「ああ、もう、泣くでない」

 嗚咽(おえつ)を漏らす雨星をあやすように笑い、同意を求めて夕顔を振り返った麗は、ぎょっとした。そこにいた夕顔こそが、滂沱(ぼうだ)の涙だったためだ。ぐずぐずに崩れた顔で、「ひべざま」と号泣する侍女に、麗は困ったように眉を下げた。

「なにゆえ、そなたらが泣くのだ。今ここで泣いてよいのはわたしだけだろう」

「申し訳もござりませぬ……」

 うええ、と声を上げながら、夕顔は袖に顔をうずめた。

 そんな彼女に肩をすくめ、麗は雨星に向き直った。

「近う」

 ちょちょいと手を動かす。

「……?」

 雨星は涙を拭い、少しばかり平御座へと近づいた。だがそれでは足りなかったようで、麗は、もう少し、もう少し、と言いながら、彼を間近まで呼び寄せた。そして、こっそりと微笑む。

「これを」

 麗は、自身がつけていた耳飾りの片方を外した。

 華奢な腕を伸ばし、それを、空いた雨星の耳にそっとつけてくれる。

 とろりと白みがかった、美しい青緑色。

 しずく型に削られた、小さな翡翠の耳飾りだった。

「割符だ」

「え……」

 雨星は目を丸くした。

「よいのだ。そなたに、片方を持っていて欲しい」

 麗は手を伸ばし、雨星の頭をそっと撫でた。親が子にするように、優しく、だが少しぎこちなく。

「生き延びろ」

 麗が言う。雨星ははっとして、彼女を見た。

「生きて、また、わたしに会いに来い。その時が来たら、これを割れ。いつでも構わない。用がなくても、何もなくても。その時はまた、ゆっくり話をしよう。わたしは、いつだって、そなたをここで待っている」


               **


 雨星は廊下の途中で立ち止まった。

 乱暴に、束ねた髪をほどく。

(わたしは、何かできたんだろうか?)

 夜の庭を呆然と見つめ、そのまますとんと座り込んだ。

(過去につながることに、意味なんかあるの?)

 母は綾を殺さないほうを選んだ。まだ幼い彼女が、年月の中で変わってくれることを願い、ただその日を待つほうを。それは、本当に強いひとにしかできない選択だった。

(それなのに、わたしは……)

 本当は言いたかった。

 嫌だ、やめてくれ、と。

 あなたと一緒に生きていきたいのだと。

 今もなお、走ってあの場所まで戻り、彼女の膝にすがりつきたいほどだった。

 うつむいた顔の横に、はらりと髪が垂れかかる。

(なら、どうすればよかったのか)

「おい、大丈夫か」

 その声に、雨星はゆっくりと顔を上げた。

「どうした。何があった」

 廊下を下りた先、小庭に立っていたのは、やはり───冬来だった。

 彼は珍しく、息を切らしているようだった。こめかみの汗を拭うと、冬来は張り詰めた声で言った。

「あんたが、女王に呼び出されたって聞いて。何かあったんじゃないかと思って……」

「───」

 雨星は言葉を失って、彼を見つめた。

 まさか、と思う。

(まさか、心配してきてくれたの?わたしの様子が気がかりで、たったそれだけのために?)

 息が切れるほどに急いで、走って、ここまで。

 雨星の赤く腫れた目元を見て、冬来はきゅっと眉根を寄せた。

「なんで泣いてる。やっぱり、何かあったんだな。ひどいことをされたのか」

「違うんだ。何もされてない。ただ……」

 雨星は苦しげに顔を歪めた。

「わたしはもう、行かないと」

 冬来はその言葉に、面食らったようだった。

「行かないとって───どこへ」

「遠いところ」

 冬来はますます眉を寄せた。

「言ってる意味がわからない。この国を出るってことか?女王に出ていけって言われたのか?外国人だから?」

「出ていけなんて、言われてないよ。むしろ、お抱えの針子になれと言われた。でも、できないって、断ったんだ」

「できない?なんで」

「帰らないといけないから」

 冬来はがしがしと頭をかきむしった。

「わけがわからないんだけど」

「ごめん」

「わかるように言えよ」

 冬来は強い力で、雨星の手をつかんだ。

「どこにも行くな」

 その手は震えていた。雨星は目を見開いた。冬来が、ひどく泣きそうな顔でこちらを見ているからだった。

「どうしても帰らなきゃならないなら、遠くへ行くって言うなら、おれ、ついていくから。どこへだって、一緒に行くから」

 だから、ともどかしげに首を振る。

 冬来はつかんでいる手を引き、雨星を抱きしめた。

「冬来」

「行くな、雨星」

 それは、出会ってから初めて耳にした、冬来の年相応の声だった。

 子供が駄々をこねるように、わがままを言うように、彼は言った。

「あんたのことが、好きなんだ」

「───……」

 雨星の大きく見開かれた目に、星空が映った。

(わたしはこの景色を、一生忘れないだろう)

 雨星は思った。それと同時に、パキパキ、という一際(ひときわ)危うい音が響く。

 目の前の、美しい夜空と、町の灯が、溶けるようにぼやけていく。

 消えていく。愛おしいすべてが。

「冬来」

 雨星は手を伸ばし、彼の小さな体を抱きしめ返した。

「わたしは」

 パキン!

 強く鋭い音が響き渡った。

 床が消え失せ、冬来を抱きしめた腕は、空をかく。雨星は前のめりに、頭から無限の闇へと落ちていった。さまざまな時間の、さまざまな場所の景色が混ざり合い、極彩色の流れとなり、背後へと消えていく。

 ついさっきまで腕の中にあったぬくもりが、嘘のように消えてしまった。

(いや)

 まだだ、と雨星は思った。

 小さなぬくもりが、まだ胸の中に残っている。それは、冬来が雨星を抱きしめてくれた時に生まれたぬくもりだった。悲しみで満たされそうになっていた心を、優しく、まっすぐに、あたためてくれた。冬の日だまりのような、小さな熱。

(行こう)

 その熱に背中を押されるようにして、雨星は歩き出した。

 しかしすぐに、泥のようになった地面が足に絡みついた。一歩が重い。逃げなければ、という思いが唐突に湧いてくる。

(逃げなきゃ)

 でも、何から?

 振り返ると、誰かが追いかけてくるのが見えた。

 手には短刀を掲げ持ち、顔は血だらけだ。

 だが雨星は、悲鳴を上げたりはしなかった。逃げることをやめ、正面から男を見返した。

『雨星』

 男は雨星の前で立ち止まり、喜色満面(きしょくまんめん)の笑みを浮かべた。

『ああ、雨星。ついにおれのことを、受け入れてくれたんだな』

 短刀を振りかぶる。

『さあ、一緒に死のう!』

 男はそれを振り下ろした。

 雨星の胸元に、突き立てられたかに見えた切っ先だったが───。

『……?』

 男は首を傾げた。なぜ刺さらないのだろう。そう思っているように、雨星には見えた。

(あたたかい……)

 わずかに残ったぬくもりが、光が、雨星の心臓を包み込んでいる。

 金色がかったその光は、曙光(しょこう)のようだった。凍えるように寒い夜、永遠かと思える夜の帳を、一瞬にして取り払ってくれる、夜明けの光だ。刃など、通るはずがない。

(生き延びてみせる)

 おろおろするばかりの男を、雨星は、強く突き飛ばした。

 よろめき、尻餅をついて、ただ呆然と彼を見上げることしかできない男の横を、堂々とした足取りですり抜ける。

 その先に、たくさんの明かりが見えた。

 見慣れた赤い光だった。

(ここは……)

 扇市(せんし)だ。そしてあの建物は、縫殿(ぬいどの)

 眼下には、いつもの席で居眠りをする、雨星の姿があった。

 針を持ったまま船を漕いでいる親友を、隣の紅雪(こうせつ)が心配そうに横目に見ていた。

 あの日だ。

 すべてが変わった日。

(雨星!)

 雨星は叫んだ。おのれに向かって。

(雨星!目を覚ませ!)

 その瞬間、景色が一変した。


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